モーセの五書を破棄したと誤解さているパウロとパウロの手紙を正しく読み直す ローマ8章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

完全に誤解されているパウロという人物と、パウロがモーセの五書を終わらせた事、否定した事を教えている、トラーとは違う新しい教えをしている、そしてモーセの五書を退けた新しい教えを書いていると勘違いされているパウロの手紙を正しく読み直す事をしています。

 

パウロだけではなく、異邦人の世界で語られる「聖書観」自体が、

はじめから聖書とはズレたものだからです。それは多くの人は、聖書は誤りのない完全な神の言葉と口では言いながら、同時に神の言葉=トラーを否定する摩訶不思議な不思議、論理にかなわない事を信じ、砂の土台=人の思想を信仰の土台とし、岩=イエシュア=トラーを否定しているからです。考えてみたら、矛盾しているでしょう。

永遠普遍、誤りのない神の言葉と言いながら、実際には、変化した神の言葉という、それは人の思想で聖書を読み解くから、矛盾に感じ

ないのです。福音書以降は違う教えと。

アメリカやヨーロッパでは、教師、牧師でも、聖書を神の言葉と本気で信じていない人もいるのです。その思想を神学校で教えているのです。神の言葉の一点一画からズレると、どんな思想でも編み出せる

ズレて行けるからです。

人造宗教の信仰の土台は、100%純粋に神の言葉だけではないから、神の言葉からズレているのです。

それらが聖書を間違った読み込みをする本当の原因であり、それらに

加えて、ヘブライ語原典聖書に書かれている本当の意味、そして、

その古代の時代の中近東の文化、環境、イスラエルという国の地形、又はヘブライ語聖書の中で語られている言葉、慣用句意味、様々な

情報に欠如したまま、現代の自分の文化の西洋宗教の教え、思想、

伝統、慣わし、儀式、記念日を通して、自分の中にある既存の考えに

当てはめて読み込みしているので、聖書の事実とズレるのです。

だから、使徒行伝を読んで、その中に人が、イエシュア信者は異邦人ばかりで、新約聖書というものを人々が読んで、十字架が屋根についた教会という場所に日曜日に集まり、日曜礼拝をして、席上献金をし、聖餐式を日曜礼拝の席上でし、そして、クリスマスやイースターを祝っていると、聖書に書いてない空想をして読んでいませんか?

 

使徒には、モアデイム〜レビ記23章の神の記念日を全て祝い、

シャバット=第7日目を祝い、過越を祝い、種ありパンの聖餐式ではなく、過越〜除酵祭りの晩餐で、イエシュアがされた同じ儀式を種無しパンで祝い、シャバットでは会堂でトラーが読み上げられ、そこで

パウロはシャバット事にトラーを教えていた事だけが書かれているのです。日曜礼拝も、シャバットでの集金も、クリスマスもイースターも聖書にはない教えです。

聖書〜モーセの五書、預言書、諸書だけが、聖書として書かれているのです。使徒が記した書簡、聖書のあとがき、最初の部分の註解は

5世紀以降、聖書として認められたものであり、1世紀当時は、

パウロの手紙のように、特定の群れの人が手紙として読んでいただけで一般の人は読んでもない、聞いてもない書簡なのです。

 

そして古代ヘブライ思索〜神が永遠の中から語られている永遠に変わらない真実である神の言葉を学ばない状態だから、人の思想のフィルターを通して、神の言葉の方を曲げて、変えて、ズレた読み込みをしているのです。

翻訳聖書だけ学んでも、聖書に記された本当の意味は、ぼやけて把握できません。本編を知らず、あとがきだけ読んでも意味不明な事

ばかりです。空想の読み込みをしてしまっているのです。

これは、外国語文学書でも同じです。言語、原典で書かれた意味を

学んで、その作者の背景や、その国の文化背景や様々な事を理解して

読むのと、単に翻訳された洋服の上から痒いところを掻いているような、直に的に当たらないような読み方とは、全く違うものだからです。しかも、本編を読まないまま、あとがきだけでは分からない。

パウロは、使徒〜神のトラー=婚姻契約を正しく人に伝え、教え、

生きて導く役割を与えられた人です。

ウルトラマンがウルトラの父を裏切り、子が父に対して反撃などしないのと同じです。

パウロは、100%モーセの五書を支持し、モーセの五書に反する事は1つも語らず、教えず、そして、パウロ自体が、モーセの五書に

100%忠実に生きていた!その事実だけに基づき、聖書のすべて、

そして、パウロの手紙を読み直す必要があります。

 

特に、モーセの五書=トラーが廃れた、終了した、破棄され、又は

人の意見で自由に神の言葉を人間が却下して良い、シャバットや祭りが今は廃れたので、人間ローマ皇帝が4世紀に作った、モーセの五書を否定した土台の新しい記念日を祝う事に、神が変更することを命じたなどと、聖書に書いてない空想を信じているでしょう。

 

そのような大元の基礎、土台が歪んだ偽物ではなく、岩=イエシュア=神の言葉だけに立って、聖書を正しく読み直さないと、神が伝える意味がその通りには通じないままになります。

 

ローマの8章ですが、ここで注目すべき点がいくつかあります。

ここで初めて、ノモス=律法と訳されている言葉の別の意味の

側面〜「いのちの御霊の法則」がパウロにより語られます。

ノモス(ギリシャ語)律法(翻訳)という1つの言葉で、このように

別のことに対して、パウロが同じ言葉=ノモスを使っているので、

その区別を、はっきりつけないとなりません。

クリスチャンは、律法と聞いて、モーセの五書=古い教えとしか考えていないでしょう?

だから、聖書、パウロの手紙を読み違えてしまうのです。

言語を正しく理解し、パウロの論点を正しく把握し、そして、神の

言葉は永遠普遍、変わらない!そして、パウロもモーセの五書を

100%支持し、モーセの五書を否定する、反する教えなど1つも

1度もしていない!!!という永遠の事実から、聖書に書かれた事実を言語が表す意味、正しく読み直して下さい。

 

1. 神のトラー(ローマ3:31;7:22-25; 8:7)

2.罪の法則(ローマ7:23-25)

3.罪と死の法則(ローマ8:2)

4.聖霊にある生き方の原理、本質(ローマ8:2)

5.信仰の原理、法則(ローマ3:27)

6.義の本質 原理(ローマ9:31)

7.キリストの教え(クリスチャンが言うキリストの律法)

(1コリント9:21)

 

これは明らかに「罪と死の法則」と対照的です。パウロは既にこの罪と死の法則について、第 5 章から第 7 章で詳細に論じています。

罪と死の法則=ノモス=律法は、トーラーが伝える多彩な側面の1つであり「肉の中にいる」人々、つまり生まれ変わった体験がない、

聖霊が内側に住まわない状態の人々 (キリストに属さない人々) の罪を、トラーに記された罪の定義は、罪を指摘するので、神の言葉に

照らし合わせたら、罪が何か分かるので、その人に対して罪を増大させます。

対照的に、生まれ変わり、新しくされた人々、イエシュアに属している人は、今や「いのちの御霊の法則」ノモス=律法の「下」にあります。

ノモス、律法で語られている、様々な別の意味をはっきりと理解して

読み直して下さい。そうすると、ノモス=律法=神の教え=モーセの五書だけであると考えていたことが、はっきりと間違っていることが

分かるはずです。内容と、文脈から正しくパウロの議論、論点を

把握すれば、何を指して「ノモス」律法と言っているのか、はっきり

見えて、正しく理解し読み取れます。

これは、神が以前に明らかにした神の教えとは異なる、新しい一連の教え、原則があるとパウロは語っているのでしょうか?

 

そして、クリスチャンの中では、一般的なこと〜道徳的なことだけ

生きていれば、神の教えなど生きる必要がないと主張し続けていますが、それは本当に神の伝える真実な仰せなのでしょうか?

クリスチャンの群れで一般的に恒久的に教えられている教えと、

パウロが言っていることは全く異なる教えなのです。

 

1)パウロは、古い自分は罪の奴隷であったと説明しています。(6:6)この奴隷状態のため、私たちが神の命令(律法〜ノモス=トラー)に遭遇したとき、これらの命令は祝福をもたらすどころか、私たちの

罪深さを増し、罪が死の中で支配するようになりました。(5:21)

これがパウロが「罪と死の律法」と呼んでいるものであり、神の教え自体が悪いものではないのです。

神の教えにより定義される罪、それに以前の肉の自分は神が伝える

罪と死の法則の下に支配されていたと言っているのです。

 

このようなパウロの説明を正しく理解しないまま、以前は神の律法=トラー=モーセの五書、神の教えの支配の下にいたなどという、とんでもなく逸脱したことを、クリスチャンは教師や周りの人に教えられ続けて来たのです。聖書を完全に誤解し、読み違えていることに、

気がついていなからです。神の教え、聖書に基づき考えても、神の

言葉を捨てる、変える、付け足す、無用とする行為自体が、神に対する反逆、反抗、恐ろしい罪であると、気がつけるはずです。

神の教えに支配されること?束縛?そう神を愛さない人には束縛にしか聞こえない、神の教えなのでしょう。

 

2)しかし、今では古い自分は十字架につけられ、罪の体は取り除かれ、私たちはもはや罪の奴隷ではありません。(6:6)

罪〜「罪と死の法則」のノモス=律法は、もはや私たちを支配していません(6:9)。

 

3)私たちはもはや罪の奴隷ではないので、神の命令に遭遇したときに罪を増す力はもうありません。なぜなら、罪の支配の下にいないから、神が指摘する罪にあたるような生き方はしないからです。

 

パウロが言っていることに、気がついて、理解できますか?

神の戒め〜ノモス=トラーは変わってなどいないのです。

贖われて救われた人の内側が変わったのです。

神の伝える教え、仰せ、戒めに、救われた人は、神を愛するので

神の伝える真理を生きたい、生きようと積極的に、神の教えに応じる能力が変わったのです。

パウロが解説していることを、はっきり理解して下さい。

クリスチャンの中では、神の言葉=トラーの方が悪者に仕立て上げられて、神の教えを憎むように教えられ、古い教えは悪い!律法に戻るな!恵を捨てるのか!などという、意味不明なことを言い続けているのです。

それは、神の真理に人が目覚めたら、人は神の言葉により生きてしまう、生き返るから、それを阻止したい力が裏にあるからなのです。

それに、はっきりと気がついて下さい。

イエシュアはペテロに、「下がれ、サタン!」と言われたでしょう。

ペテロがサタンではなく、ペテロを神の意図とは違う考えを与えて

いる、その裏の力に退け!と命じたのです。

それを、しなくてはなならないのです。

サタン〜神に敵対するものは、神の言葉に反することを言います。

それは、エデンの園から全く変わっていません。

反メシアは、神のトラーと神の記念日〜時を変えようとすると預言されている通り、それをずっとやり続けているのです。

サタンは嘘つきです。それに気がつかないとならないのです。

それに気がついて、その反メシア勢力に加担するような主張、行動

発言は、イエシュアに属する人のすることではないから、やめなくてはならないのです。

では、一方でパウロが、神がその民に以前与えた教えからの自由に

ついて言及していると仮定してみましょう。

その議論は次のようになります。

 

1) パウロは、古い自分は罪の奴隷であったと説明しています。

(6:6)この奴隷状態のため、私たちが神の命令(律法=ノモス=

トラー)に遭遇したとき、これらの命令は祝福をもたらすどころか、私たちの罪深さを増し、罪が死の中で支配するようになりました。

何が罪か分からない場合には、自分には神が伝える罪が分からないままになるでしょう。クリスチャンも神の教えは廃れたと信じるから

何が神が伝える罪なのか、正しく理解していないのと同じです。

自分では罪とは思ってない事が、実は神の伝える罪である。

神の教えを知らない、捨てている人には、神の伝える罪の全貌は分からないままになるのです。

でも、神の教えが100%真実で普遍と理解して、神の伝える罪を

知れば、びっくりするでしょう。自分は知らない間に神に敵対する事

を発言する罪をしていた、罪を罪とも思わないで生きてきた。

そして、神が禁じる生き方を平気でしていた、それらは道徳的に

ピンと来ない、良心の呵責も生まれない、でも、神が伝える教え、

罪の全貌が分かったら、知らない間に神に敵対する発言をし、神の

シャバットを汚し、様々な教え汚し、否定して生きていた事自体が罪であるとはっきり聖霊=言葉により気がつけるのです。(5:21)。

これがパウロが「罪と死の律法」と呼んでいるものです。

 

そして、クリスチャンの教えはこう唱えます。

この「罪と死の法則の支配」の問題を解決するために、神は私たち

を、厳しい律法=ノモス=トラー=婚姻契約から解放し、罪が増加する機会がないようにしましたと、言っているのです。

これは支離滅裂な解説です。もしトラー=婚姻契約が破棄されれば、神との関係が保証、証明される土台もない、罪の定義がなくなるなら、よってイエシュアの救いも必要ない、イエシュアの死と復活も

無意味、恵も祝福も必要ないという事になること、全く気が付かないまま、意味不明、論理にかなわない、人間の思想を正義のごとく主張しているのです。自分の頭で考えないとならないのです。

罪の定義とは、神のトラーに違反することと、神が教えているでしょう。無法〜神の教えを捨てること、これをクリスチャンの世界では

推奨しているのです。神の教えに反することをして、罪をすることを促している教えに、全く気がついていないのです。

人間が4世紀に作った人造混ぜ物の宗教は、神の言葉、教えに反するものであり、反メシア思想、反モーセの五書思想、反ユダヤ思想なのです。そして、クリスチャンの教えはこう解説します。

私たちはもはや神の律法=神の教えに従う必要がないので、罪は

もはや私達を支配しません。

 

普通に考えたら、何を言っているのか意味不明である事、普通の理解

常識がある人なら、はっきりこの点で気がつけるのです。

罪の定義が消えれば、無法です。そして、罪を生きても罪ではなくなる?そんな意味不明、支離滅裂、論理にかなわないことを、本気で

主張しているのです。

洗脳とは、進化論と同じ、理屈に敵わない、どう考えても変、聖書に根拠もない事を本気で信じ込む〜それが洗脳、刷り込みなのです。

箱〜自分の既存の思想、概念、偏見からしか、神の言葉が読めなくなっている状態なのです。人が神の言葉の方を曲げている。

人の思想という、覆いがめくられて、神が伝える真実を知る権利は

人にはあるのです。

サタンは人が、神のデザイン通り、性質通りに生きるのを、最初から

ずっと妨害し続けています。どうしてだと思いますか?

人は、神の言葉を食べて、考えて、生きて、神の造られた性質通りを生きたら、祝福溢れてしまうからです。

サタンの破壊とは、逆が行われ、修復されてしまうからです。

サタンは、破壊を試みているのに、修復されたら困る、妬ましいから

困るのです。

 

続く