ローマ7章 トラーは善であり霊的なものである | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

私達は以前は、罪と死の法則、支配の下、つまりイエシュアと共に

死んで葬られた「古い自分」あるいは肉〜私達自身の生き方、私達

自身の邪悪な性向、罪深い性質へ引っ張られて行くことに捕らわれていました。

死がかつて私たちを支配していましたが、今や私たちは「私たちを

捕らえていたもの〜「罪と死の支配の法則」に対して死んだのです」と、パウロは説明しているのです。

つまり罪に対して死んだのです。神の教え=トラーに対して死んだなどと、パウロは一言も書いていません。

パウロは6 章とまったく同じ考え方を継続して語り、推し進めています。

6 章でパウロが「律法」という言葉を使ったのは、罪過を増やすために、未だ新しくされていない人の頭脳を支配するトーラーの力を指していたからです。

トラーの中には、多くの役割があります。その中の 1 つは、人に罪を指摘すること、間違いなく否定的な目的があるのです。

それは、神が伝える罪の詳細がはっきり知らされるからです。

いやですよね。でも、臭いもの蓋は出来ません。

人は、何が罪なのか、神から指摘されなければ、罪が何なのかも、

はっきりよく分からない、罪の基準、根拠がないからです。

創造主であるお方に教えられて初めて、創造主の目から見た何が罪なのかを、人は理解できるのです。これは、人間が考える道徳的な事

だけではないのです。神の家に属する聖別された人は、神を知らない人、新しくされていない人、聖霊が内側にない人には、理解できない生き方を、神は神の子らに教えているからです。

だから、神の教え=トラーを捨てることは知恵を捨てることであり

無法を働くことであり、罪の基準が分からなくなり、罪を罪とも認識できなくなっているのです。

神の言葉を捨てる〜自分の考えが基準〜神の教えに成り代わっている事をしているのです。

そこでパウロは、7 章でも同じように、ノモス〜律法〜、この場合

「罪と死の支配の法則」という意味を説明し、結婚した女性の例え話によって、私たちが「罪と死の法則の支配」その実情から解放されたことを話しているのです。

 

7:7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。ノモス=トラー=

律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法=ノモス=トラー=神の教えによらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法=トラー=神の教え=神が定義する罪

「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。

7節では、ノモスを、「神のトラー」という意味でパウロは語っています。

神のトラーが無ければ、人は何が罪なのか、はっきりとは分からないからです。神が伝える罪の基準は、神がはっきりと人に教えているからです。

7:8 しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、

罪は死んでいるのである。

 7:9 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、

7:10 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、

かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。

 7:11 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。

 

トラーに記された神が伝える「罪」の基準が元凶、悪なのではありません。罪の性質を生きる傾向にある人に問題があるのです。

その「罪」を神が指摘し、問題、膿を全部出す作業が必要なのです。

 

クリスチャンの世界の教えは、神の教えは厳しすぎるから、神が神の教えを破棄したなどと、聖書に無い教えを主張しています。

それは、イエシュア、神が警告する「無法」そのものです。

罪が何かを知りたくない、罪を生きても良いことにしてほしい?

どんな、思考回路なのでしょうか?神の教えを知っても、知らなくても、神が伝える罪の基準は永遠に変わらないのです。

神を知らない人は、それは自分基準の全てを生きるだけですが、

イエシュアを通して、イスラエルの神の家族の一員となった人は、

神が伝える家訓、人は〜を生きるように造られて、何を生きるように造られていないのか、トオヴ〜善、神の意図通りか、ラア〜悪〜神の意図から外れているのかを、知らなくてはならないからです。

自分よがりの聖別、罪の基準は、神の前にはズレているのです。

的外れ。そして、パウロは、モーセの五書を支持している証拠がここにパウロの言葉で書かれています。

 

7:12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも

聖であって、正しく、かつ善なるものである。

 

<パウロは、トラー=神の教えは、聖なるものであり、神の戒めも

聖であり、正しくかつ善であると、はっきり言っています。

そして、この発言の直後の13節で、では善なるものが、死となるのか?そうではない!と、パウロは言っているでしょう。

トラーは、人に罪を明らかにし、それがまさに罪深いものであることを示していることを、読者に思い出させます。神の愛は、人を死から守るものであり、人の破壊の原因である罪をはっきりと人に教えます。そして、罪の基準は永遠に変わりません。クリスチャンの世界では、人間が神の言葉を勝手に変えて、罪の基準を取り払ってしまいました。臭いものに蓋ではありませんが、罪が何なのか知りたくないから、神の教えは要らない!とは言えないのです。

人は、何がズレ〜神の意図と外れている、的外れな生き方なのか、

創造主である神に教えられなくてはならないからです。>

 

 7:13 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。

断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなは

だしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に

至らせたのである。

神の教え=トラーが悪いから、人を死に至らせるのではありません。罪の傾向に生きる事にとどまる人は、死に至るのです。

命〜イエシュアの性質に反する生き方は死だから、命を生み出す生き方ではないからです。>

 

7:14 わたしたちは、トラーは霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである

 

パウロははっきり言っているでしょう。神の教え=トラーは、霊的なものであると。聖霊=言葉=イエシュアだからです。でも、肉の

以前の自分=イエシュアと共に死んだ自分は、罪の下に閉じ込められている、罪の奴隷となっている。>

 

7:15 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

<死んだ自分は、罪の傾向に引っ張られる。でも、本当の自分は、

その罪を憎む、やりたくない。この葛藤が、常にあるのです。罪人が本来の人の性質ならば、罪を生きる事が本来の性質だから、何も葛藤せめぎ合いなどないのです。でも、本来の性質=イエシュアの性質は、罪、ズレを生きる性質として造られていないから、葛藤があるのです。>

 

7:16 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法

良いものであることを承認していることになる。

 

パウロは現実的です。パウロは、私たちがキリストと一体になり、

同一視され、罪に対して死んでいるにもかかわらず、まだそのことを完全には理解していないことをパウロは理解しているのです。

私達は、まだ罪と罪深い性質と闘っています。

やりたくない事を、やっているとするならば、罪と死の支配=律法が良いものであると、認めてしまっている事になる。

次の節はまさにそれについて述べています (7:14-25)。

パウロは、100%トラーは完全であり、良い=トオヴであり、

人の生きる道である事を語っています。神の教えの方に、何の違反

矛盾、欠け、落ち度などない!人間の側〜罪の性質に引っ張られる

肉の自分=死んで葬られたのに、記憶だけは頭脳にあるから、その

思考回路、行動パターンに引っ張られて、葛藤しているのです。

 

私達の現実、実態、天の性質に属する霊はキリストの中で生きていますが、私たちの肉体は依然として罪に屈することがよくあります。

それは、ズレた人で生きてきた記憶があり、その記憶、思考回路、

行動パターンで生きているからです。

しかし、私たちはいつの日かキリストの中で罪からの解放を完全に経験するという確信を持っています。

 

7:17 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、

わたしの内に宿っている罪である。

<本物の自分〜イエシュアと共に復活した自分ではなく、イエシュアと共に死んだ自分の中に、罪が宿っている。でも死んだ人は葬られていない。でも記憶が脳の中ににあり、それが支配しているのです。>

 

 7:18 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが

宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。

 

<パウロは、以前の自分〜イエシュアと共に葬られた人の話をしているのです。これは、アダムに遡って、パウロが考えていることを話しているのです。肉の人、エデンから出て、神〜命、本来の自分と切り離されたまま生きていた偽物を学習した自分には、どんなに頑張っても罪=ズレの性質に引っ張られてしまうからです。>

 

7:19 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。

<これは誰でも経験していることです。でもよく考えて下さい。

私達が、どうして本来の性質とズレたことを、考え、発言し、行動した時、後悔し、悲しく、傷つくのか。それは、その行動は本来の自分の性質とは異なる、ズレ人〜イエシュアと共に死んだ偽物の自分だから、違和感感じて、悲しくなるのです。もともとの成り立ちが罪人なら、罪を生きることが本来の性質だから、何も違和感ない、悲しくもありません。>

 7:20 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

<イエシュアと共に復活した自分ではない、死んだ自分の中には

罪の性質をたくさん学習してきました。その人はイエシュアと共に

死んで葬られているけれど、記憶があるのです。脳回路の枝に実際に

搭載されているから、その脳回路の思考回路を、切り替える必要が

あるのです。>

7:21 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。

そうです。罪の支配の法則=ノモス=律法が、古い人の中の記憶を

支配し、救われた後も、私達を縛り続けようとしているのです。神の伝える罪の基準があるから、人が縛られるのではありません。

罪の性質、記憶が未だ脳回路に定着しているから、それらが本物の

自分を生きる邪魔を常にしているという事。>

 

7:22 すなわち、わたしは、内なる人としては神のトラー、ノモスを喜んでいるが、

うちなる人〜イエシュアと共に復活して新しい命とされた、本物の自分は神のトラー=教えを喜んでいる>

 

7:23 わたしの肢体には別の律法=罪の下に留まり引っ張られる傾向があって、わたしの心の法則=イエシュアの性質の本当の自分に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしを

とりこにしているのを見る。

<別のノモス〜罪の支配にある以前の自分がいる!そして、イエシュアの性質通りを生きようとする時に、ズレ=罪、的外れ、以前学習してきた生き方に、引っ張られてしまう。>

 

 7:24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。

だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

 7:25 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法=トラーに仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

<イエシュアに属する本物の自分は、本当は神の教え=トラーを喜び、それを生きようとしているのに、以前の自分=イエシュアと共に

死んで葬られた自分が、未だ自分に影響を及ぼしている。>

 

これを、読んでいるだけで、ノモス=律法という言葉が、多面的に

別の言葉、内容を指してパウロが書いている事に、はっきり気がついて、識別し、正しく把握して下さい。

神が人に生きる事のできない厳しい律法を与えた!とクリスチャンは

言い続けていますが、神は、逆を言っています。

厳しい律法を与えたから、イエシュアが来られて、それを十字架に

つけたという空想ファンタジー話を作り上げていますが、本当に

そのような聖書から完全に外れた作り話の教えを全て削除しないとならないのです。

神の教えは、トラー以外に無い、神の教えは昇天前後で変化していないという、神の言葉の事実をどれほどのクリスチャンは理解しているのでしょうか?神は神の言葉を一点一画どこも、変えていないという事を、クリスチャンは正しく理解していません。

モーセの五書を学ばない人には、分からないのです。

なぜなら、福音書以降だけ読んでも、それは分からないからです。

福音書以降は、使徒が書いた注解書であり、神の教えの完全版では

ない、抜粋にしか過ぎないからです。

だから、人の生きる詳細の全ては書かれていないでしょう。

そして、パウロの書いたものは手紙です。

パウロが書いたものは、トラーを塗り替える教えではありません。

誤解が誤解を生み、神の言葉の方を破棄、曲げた思想から、聖書を

読んでいるから、真実が見えないだけなのです。

 

申命記 30:11 わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、

むずかしいものではなく、また遠いものでもない。

30:12 これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。

30:13 またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。

30:14 この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。

30:15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。

30:16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。

それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。

30:17 しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、

30:18 わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう。

30:19 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。

あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう