ローマ3章 パウロは100%モーセの五書支持している立場で話している | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の教え、トラーは丸ごと全部でシャローム、完全版です。

神の教えの全てを通して、人の生きる全貌を教えているからです。

この教えは、要らない、あれは自分には関係ない、そのような意識、思想で神の言葉を捉え、考えているのは、人の体で、手は要らない、

髪の毛もいらない、内臓も頭も要らない、足は要らないというのと

同じ事を言っているのです。

全てが揃って、神の意図通りに機能する!という、それが神の言葉

教えなのです。

 

全部が揃って完全なエハッド、1つ、ワンセット、シャローム、欠けのない完全な状態だからです。

神が創造された人の生き方を、神が伝えている、それを人間が端折る捨てる、無視する、理解しないままであると、人は本来どう生きるのかが分からなくなってしまいます。

 

神の教えに人間が手を加える行為は、それがたとえ小さいことでも、死に匹敵する罪と神が人に伝えていることを、異邦人は、神の言葉を捨てているから、罪の基準を捨て、何が神の前に罪、ズレなのかも

分かっていないと思います。

人間が神の言った言葉を変えるという行為は、人が神を退けて、神の

座に座る、人間が神になることなのです。なれませんが、神の権威を

勝手に奪い、勝手に神が言ってもいないことを、主張し続けているのです。神のある教えだけ、同意、賛同しながら、神のある教えを退ける、そのように神に敵対する違反行為をイエシュアを信じる人が

やり続けているのです。

神は、人間が考える道徳的な違反以外に、神の子らの生き方で、

何がズレているのか、詳しく教えているのです。

ズレ、罪は人を破壊するものなのです。それが肉体的でも霊的でも

ぴったり一枚岩。神がデザインされた通りからずれたら、人は破壊に導かれるのです。

神の言葉〜神の国の家訓、憲法、法律、神の意図通り、デザイン通りを生きるために必要な全ての教えが、トラーなのです。

 

1ヨハネ3:14すべて罪を犯す者は、不法=トラー無視、無し

行う者である。罪は不法である。

 

罪〜神のトラー=教えに反すること!とはっきり書いてあるのに、

この箇所読んでも、クリスチャンは書かれた言葉の意味通りに

読み取り、理解していないのです。

不法〜犯罪行為程度に考えているでしょう。まさか、神の教えのどの箇所にも違反する事!などとは、考えてもいません。

なぜなら、律法は廃れた〜という人の教え=嘘を信じているから、

神の言葉、真実が通じていないのです。

罪とは、普通の人でも分かる、道徳的なことだけが、罪ではないのです。神の定義する罪とは、神の意図から外れていること全てが罪、

的外れ!と神は言っているのです。それは神が創造された人間の性質

デザインとは外れているから、的外れなのです。

シンプルな事実でしょう?それを律法主義だ〜などと、意味不明なことを言い続けているのは、クリスチャンの考える自由とは、神の教えに束縛されずに自由に生きるという、無法=トラー無し、神が警告している人間の教えを信奉しているから、神が伝える事実が覆い隠されて、盲目状態になって、蛇の声を代弁していることに気がついていないのです。

特にクリスチャンは聖別の意味を正しく理解していません。聖別の

定義を捨てているから、自らきよめ〜とある通りの、自己基準の聖別を聖別と考えてしまっているのです。

聖別の定義は、トラーに記されているのです。

 

人は罪人〜救われてもずっと罪人だから、神の教えを生きるなど無駄無理!というのを聞きます。これは、イエシュアがされた業を、それこそ台無しにしている、恵を捨てている宣言なのです。

人が神の性質を生きているのか、いないのか、イエシュアの実態を

生きることに成熟している達人なのか、赤ん坊レベルなのかに関わらず、復活の命を頂いている事実があるのです。

復活の命を頂いたという事実を、罪人という言葉で帳消しにし、

イエシュアの贖いの代価で、新しくされている事実を否定し続けている発言、行動をしているのです。

人は絶対にズレないと言ってなどいません。アダムとハヴァもズレたでしょう。神の似姿通り完全に造られていたのに。

新しい命を頂いた〜これは赤ちゃんが生まれたのと、同じ。

赤ちゃんでも、小さくても人間でしょう。

新しい命=イエシュアの命を頂いた人は、成人として歩むようになるため、地上での訓練が残っているのです。

それが、聖なる者となった人を、神の教え、イエシュアの性質を神の伝える言葉から学習しながら、実際に生きて、身についていく、これを端折っているのです。信じたら、神の教えは生きなくて良いですとまで、言っています。そして、人はずれます。

以前の記憶、思考、行動パターンが頭脳にあるからです。

だから、パウロも言ったでしょう。自分=新しくされた人が罪を犯すのではなく、イエシュアと共に死んだ以前の自分がゾンビ〜イエシュアと共に葬られた人が罪を犯すと書いてあります。

イエシュアと共に復活した人を生きる、訓練、練習があるのです。

それは、神の言葉を捨てる場合には、できません!

自分の自己像〜神が伝える人の生き方とずれてます!ズレたらすぐに戻れば良いのです。本物の自分で生きることを、常に頭に置いて

行動する。それがパウロが説明した2コリント2:5です。

 

2コリント10:5 神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を

打ちこわし、すべての思い(ノエマ)考え、思索、頭脳をとりこにして

キリストに服従させ、

 

神の性質〜教えに根付いて生きる訓練をし続けている成人は、

新しい人を生き続ける練習をして行く中で、本来の性質通りを

考えなくても、生きれるようになるのでしょう。

それが約束の地を所有するということにも、繋がっている事です。

本来の自分を取り戻す!

それが、よちよち歩きの赤ちゃん〜1歩1歩、神の言葉、教えから

ズレていないか注意を払い、気をつけながら歩む事なのです。

神の教え、トラーは、神が創造された本来の人の性質を伝えている

イエシュアの性質通りの人が生きる全てを教えているのです。

あなたは、〜〜〜〜するように造られているので、〜〜〜〜を生きる

あなたは、〜〜〜〜するように造られていないので〜〜〜を生きない。シンプルでしょう?神の教えを掟リスト、律法などと考えているから、神の教えに敵対心を持たされているのです。

神の教えは、人を守る鎧兜!と書いてあるのです。

アヴラハムのその鎧兜としてのトラーを理解していたことが、書いてあります。

 

創世記26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。

 
神は、御言葉を守り、約束(祝福又は呪い)を人に対して果たすことによって、その忠実さを実証します。
これらは、その約束は「神の預言、補償、契約」である婚姻契約=
トーラーに、全て含まれています。
神は、神ご自身が、神の言われた御言葉に忠実であることを人に証明、示すために、あらゆる努力人に示しています。
ヘブル人への手紙の著者は、次のように書いています。
 
「神はアブラハムに約束をなさったとき、自分より偉大な者をさして誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓われたのです」
(ヘブル 6:13)神の言葉は、神が忠実である正義、義の基準です。
神が神の言葉、教え、契約の内容を途中で変えたという、異邦人の
思想は、聖書とは全く逆な事、神の言葉に反したことを、言い続けているのです。
契約とは、2人以上の間で結ばれるものです。
神の契約は、神と神の民〜その代表であるイスラエルと結びました。
神は異邦人と契約を結んでいません。異邦人も、同じイスラエルの神がイスラエルに与えたこの婚姻契約に加わることで、神との関係を
補償している!という事を、理解しないとなりません。
神は神が人と結んだ契約のどれをも神が破ることはなく、神ご自身が
神の約束、補償をずっと忠実に神の民に施し与え続けています。
一方、人の側で神が与えた契約〜神が伝えられた通りを生きることを
違反し続けて来ました。これは、イスラエルと同様、異邦人も同じ事をし続けているのです。異邦人クリスチャンは、神がイスラエルに与えた契約は、異邦人には関係ないと、聖書とは関係のない教えばかりを聞かされています。だから、聖書を正しく理解していないのです。
神は2つ別の契約を、人種ごと、時代事に人に対して与えてなど
いません!証拠として、聖書とは別の神の契約書はありません。
福音書以降は、モーセの五書とは違う教えの新しい契約書でもありません!モーセの五書=トラー以外の教えなど、聖書には1つも書かれていません!この事実に完全盲目のまま、翻訳聖書を、人間の作った宗教の思想、神学で聖書を曲げて読み続けているのが、残念ながら
クリスチャンの世界で教えられて来た教えなのです。聖書ではない。
 
イスラエルの犯した違反〜神の契約を破る行為、それに関する警告は、異邦人も、今も同様、有効であることに気が付かないと、本当に危険な状態なのです。神のデザイン、創造された人間は、創造の最初から同じ、変化していません。
人の生きる性質〜神の性質=イエシュア=トラーに記された人の生き方をする、これは永遠に変わらない事実なのです。
そして、異邦人が勘違いしている事とは異なり、エレミヤ31章に
ある契約は、モーセの五書〜トラー=婚姻契約=はじめの愛の内容と違うものではありまん。これは、契約とは何なのかという、古代中近東に存在した契約の性質を学べば、はっきりとその事実を知ることができます。
そして、書いてある通り、再更新され続けている同じシナイ山で与えられた契約は、未来も再更新され続ける、それがエレミヤが預言した新しい契約=再更新される同じ婚姻契約、イエシュアが過越でされた、同じ契約の再更新〜新しく再更新される契約だったのです。
そして、異邦人に対して、別の新しい契約が与えられたのではない
証拠が書いてあるでしょう。
エレミヤ31:31は、誰に対して、契約を再更新すると言われましたか?ユダの家と、イスラエルの家です。異邦人ではありません。
新約聖書という異邦人が作った聖書タイトルを聞いて、福音書以降が、新しい異邦人に対しての契約などと空想していると思いますが、そこに書かれている内容は、契約書形式の神の契約ではありません。
しかも、失われたイスラエルの羊の元だけに、イエシュアは来られた
と言われたのです。同じ婚姻契約=トラーを、イエシュアは失われた羊であるイスラエルに対して、語り、教え、生きて見せているのです。
福音書以降は、新しい教えでも、契約書でもない、使徒が書いた、
トラーの抜粋、モーセの五書、預言書、諸書に記されたメシアが
神の言葉が預言、伝えた通りに地上に来られて、神の婚姻契約の
姿をそっくりそのまま生きて、見せた記録なのです。
その中には、神の教えを塗り替える、変更する、そして聖霊が初めて人の内側に住まう事が始まった記録ではありません。
聖霊=イエシュア=神はエデンの園の最初から、信じる人の内側に
共に住まっていた事が、創世記の最初からマラキまで、ずっと記されているのに、読者の方が気がついていないだけです。
ミシュカン〜移動式神殿、固定式神殿は、神の家、神の臨在、神の民が神を囲んで共に生きる全てを、地上で教える、地上の実体験型学習施設でもあるのです。目に見えない神、目に見えない天の国の神の家を、物理的に地上でそっくりそのまま作らせ、神の子らにイエシュアを教えていたのです。
メシアを知っていた、残りの民のことが、タナックにずっと記されているのです。彼らの方がよっぽど、メシアーイエシュアの実態を
知って生きていたのです。
 
 
そして、過越の晩餐の席に居たのは、12使徒、全てユダヤ人です。
そして、イエシュアは裏切ったユダは、多分イエシュアをメシアと
分かってない人だったのだと思います。そして、この裏切り者になった、ユダがその過越の晩餐の席を退席した後、イエシュアは、
過越の晩餐の儀式、種無しパンと3杯目の杯〜贖いの杯で、この同じシナイ山でモーセのに託した契約の再更新を宣言したのです。
出エジプトの意味〜子羊の贖いの血の意味、そして実際に今迄
エデンの園から伝えた、同じ子羊の血〜イエシュアの贖いの事実を
実際地上で証明したことを、過越の祭りを祝うたびに、皆で思い出してと、イエシュアは遺言されたのが、この再更新された同じ契約なのです。

シナイ山で、ブリット(契約)に忠実であると約束し、誓ったのは神だけではありませんでした。

イスラエルとイスラエルと共にエジプトを出た異邦人達もまた、

「主が言われたことをすべて行い、従います」と誓いました。

出エジプト 24:7。

出エジプトした最初の世代のイスラエルと異邦人は悲しいことに、

彼らの言葉、約束に忠実ではありませんでした。

パウロはこれに気づき、彼らを対比して「彼らの不忠実さは神の忠実さを無にするのでしょうか?」とローマの群れに尋ねます。

別の言い方をすれば、「もしある人々が神の命令を守ることに忠実でなかったらどうなるでしょうか?彼らのトラーに対する違反行為は、これらの命令を与えることに於いて、神が何らかの形で忠実でない、または不義であることになるのでしょうか?」と彼は答えます。

 

3:4 断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、

義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。

<パウロは詩篇51:4を引用しています。>

3:5 しかし、もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。怒りを下す神は、不義であると言うのか。

3:6 断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、

どうさばかれるだろうか。

 

神の教え〜言葉、トラーは、人が神の言葉、教えに聞いて生きるか

生きないかに全く関係なく、神の教え=トラーは、完全であり、

神の教え、言葉がどれほど素晴らしいものかを、神の教え自体が

証明、示しているのです。人が無視しても、神の言葉は完全であり

永遠に固く立つと神が言われた言葉が真実だからです。

 

続く