翻訳用語では見えない 礼拝という意味は? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

礼拝という言葉で、何を考え、想像しますか?

西洋宗教のキリト教の礼拝式とか、歌、賛美、みんなで集まりやる

礼拝〜と漠然と考えていませんか?

 

翻訳で表す言葉は、ヘブライ語の元の本当の意味を反映しませんし、

古代ヘブライの世界の、トラーを生きていた人たちのことが書かれた内容を、西洋宗教の伝統、慣わし、儀式や記念日を想像のフィルターを通して考えても、そこに書かれていることが正しく見えてきませんし、聖書に記された内容から、ずれてしまうのです。

 

1世紀のヘブライの世界に生きた人たちが、日曜日に十字架が屋根についた異教徒寺院に集まり日曜礼拝をしていたと空想する。

日曜日には、誰かが説教するのを聞いて、そして献金を募る人が

来て、お金集めをする、最後に今週のアナウンスをするなどなど、

自分の宗教体験から、聖書を考えてしまっているのです。

 

西洋宗教の教えや記念日の実践、日曜礼拝や、12月25日の

クリスマス、キャロリング、クリスマスツリーや、ヤドリギ、

赤や金の飾り物、春にはイースターエッグ🐣やイースターウサギ、

その他諸々聖書の登場する人は、誰一人としてそれを知りません。

 

西洋宗教の文化、教えで聖書を考えると、聖書に記述された事柄を

別物として捉えてしまいます。

日曜礼拝、クリスマスもイースターも、由来が異教神、異教徒、

異邦人の祭りであり、それらを西洋宗教の要素、意味合いを付け足して、アレンジし、自分達の宗教風に作り変えた記念日であり、聖書ではありません。

 

イースター 異教の女神の名の付く、多産を祝う祭りは復活祭などと

いう名前で、新しい命〜復活の命を記念する日を、聖書では

イースターという名では呼ばれていません。

 

聖書は、春に過越の祭りを祝い、出エジプト〜奴隷から子羊の血の

代価で贖い出され、それは地上でイエシュアが証明された贖いの血の

代価を最初から表し教えている預言的記念日であり、その日から、

7日間、種無しパンを食べる日を過ごすのです。

種無しパン〜罪〜ハメッツ〜パン種〜要らないものが削ぎ落とされた罪が削ぎ落とされた新しい人にされた事実が、種無しパンで表されている、しかも、「7」完全、完了、完結の数字で表しているのです

使徒20:6で、パウロが日曜礼拝をしていると、勘違いした解説を

されてしまっている箇所は、正に、パウロが過越〜種無しパンの祭り

の7日を終えて!と書いてあるのに、クリスチャンには、そこにか

書かれている祭りの意味が見えてないのです。

 

使徒20:6 わたしたちは、除酵祭(過越の祭りから7日間の種無しパンの祭り)が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した。

20:7 週の初め(の日)に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。

 

除酵祭とは、酵母〜パン種を除去した種無しパン〜マッツアを

食べる7日間であり、それは、過越の祭りの初日から7日を

そう呼ぶのです。

ヘブライ語では、ハグ ハマツオット חַג הַפֶּסַח‎と呼びます。

詰まり、パウロは、レビ記23章、神の呼出日〜聖別された主日、

聖日、それらはシャバットを中心に、1年に渡り全ての神の創造された記念日、祭りを祝っているという意味なのです。

神の祭りを祝うとは、シャバットを毎週7日目に祝っている証拠が

書いてあるのに、クリスチャンにはそれが読み取れず、日曜礼拝を

している証拠が書いてあると7節を解説しているのです。

この日が、どの日か、ギリシャ語原典には、「日」という言葉は

無いのに、翻訳では、「日」という言葉を挿入されているのです。

週の初めとは、過越が始まってから、次の安息日とありますが、

はっきり数え方はそれぞれ解釈があるのですが、過越から7週間が

「穂」を数える週、小麦の穂〜初穂〜呪われた大地から、イエシュアが復活し、その「初穂」に新しくされた人たちの命が連なり、

イエシュアの似姿に成長して行くことを、考え、実践する7週間の

強化週間なのです。そして、その7週間、7回のシャバットが過ぎた次の日が、シャヴオートの祭り(第50日目、ペンテコステ)であり花嫁として正式に神の前に立ち、イスラエルの神の家に属する

聖なる民として、正式にイスラエルの神の家、夫の家の家訓、婚姻

契約を渡された祭りがシャヴオートであり、小麦の収穫祭なのです。

もし、使徒20:6のこの日が、仮に週の初めの日だとしても、

この時は、土曜日の日没なのです。

理由は、幾つもあります。

聖書の暦の週の初めの日、日曜日の始まりは、土曜日の日没なのです。だから、グレゴリオ暦では、この箇所は、土曜日の晩から夜中にかけての出来事が書かれているのです。

そして、諸外国では、土曜の昼間は労働日です。だから、土曜日の

昼間、労働でトラー朗読、祈りや交わりに集まれない人は、日没以降に集まる習慣があったのです。今でもあります。

世界中に散るトラーを知る、ガードして生きているユダヤ人、異邦人

一般的に習慣として、シャバットが終わる土曜日の日没にも、

金曜日の日没同様集まり、シャバットを閉じる儀式と食事をするのです。そして、パンを割くとは、シャバットの晩餐の儀式でしますし、

この場合、イエシュアがされた過越の祭りの晩餐の儀式の種無しパンを裂いて、3杯目の食後に飲む「贖いの杯」と呼ばれる儀式をしているのではないのです。

その理由は、過越〜種無しパン〜ハグ ハマツオットが終了した!

と書いてあるからです。

聖餐式とは、カトリックが、過越の祭りで行われる儀式を、パクリ

変えてしまった、コピー品の儀式なのです。

過越の祭りの晩餐〜セーダー(順序)という名の晩餐、出エジプト

6:6−7にまつわる食べ物を通して、出エジプトした事実を、晩餐を囲み、夜通し皆で集まり、食べて飲んで、トラーを考えて語る祭りの晩に行われる儀式なのです。

それを、カトリックが聖餐式という名前に変えて、種無しパンを、

種ありパンに変え、イエシュアの命じた仰せを捨てて、過越を祝わず、日曜礼拝という西洋人が作った宗教記念日の日、日曜日に種ありパンと、ワインジュースで行う儀式に、変えてしまったのです。

だから、パンを裂いて食事をする、イコール、日曜礼拝の聖餐式と

空想を膨らまし続けて、この箇所を間違った情報を空想、想像して

読んでいるのです。

聖書に書いてあることを、自分の中のキリスト教の宗教の伝統文化慣わしや教えの空想で読むと、誤解したまま、その人の中にある宗教の教え、慣わし、体験〜、日曜礼拝と聖餐式を空想して読んでしまっている、使徒20:6−7は、良い例になる箇所です。

過越の祭りから始まる種無しパンの7日間、その真ん中の日が、復活を表す「初穂」の記念日なのです。

これは、神が創造の最初から設けられた、イエシュアの贖い、救い、復活、新しい命を表す全てが教えられている、神が創造された記念日神の子ら全員で祝う記念日、祭りなのです。

そして、過越、種無しパンの祭りは、第一の月の15日から、7日間です。

これを、異邦人は捨てたのです。なぜ?ローマ帝国の迫害と、そして

モーセの五書を生きる事を禁じる!とした、ローマ帝国に迎合し

賛同したカトリック教父達が神の教えを捨てるように、決めたからです。それに乗ったのが、異邦人イエシュア信者達だったのです。

でも、ローマ帝国の支配下にはない地域では、異邦人も5世紀頃まで、1世紀のイエシュアや使徒達、イエシュア信者と同じように

トラーを生きて、シャバット、祭りを祝っていた事実があるのです。

やがて、ローマ帝国国教、ローマ教が出来る頃には、異邦人もその

ローマ教の教えに流れて行ったのです。

16世紀の宗教改革後、残りの民である異邦人が、ローマ教が変えてしまった教え、シャバットを元に戻そう!と運動した人たちが

いたのですが、受け入れられませんでした

つまり、事実は、神が神の教えや記念日を変えたのではなく

全ては、人間の仕業、異邦人が変えてしまったのです。

そして、神の言葉と記念日を曲げたカトリックの信仰の土台を、

プロテスタントも変わらずに同じ信仰の土台を継承し、結局、神の

言葉に完全に戻る!という、完全なる改革がなされないまま、今日に至っているから、人間の思想を聖書だと、勘違いし続けた、聖書解説がされているのです。

ダニエル書にあるように、神に敵対する物が、神のトラーと神の記念日を変える!と預言されている事が、行われてきたのです。

 

礼拝と聞くと、西洋宗教の礼拝式を空想しますが、ユダヤ人の礼拝とは、祈りが中心です。そして、トラー、神の言葉を学ぶのです。

もちろん、歌もあります。彼らの讃美歌は詩篇です。

そして、シャバット、祭りの時には、盛大に晩餐、ご馳走で祝い、

歌い、踊り、本当に楽しい時を過ごすのです。

クリスチャンの世界で教えられている献金の本当の実態は、イスラエルの国への税金、神殿を維持するための資金、そして、シャバットや祭りの時のため、特別なご馳走や普段飲めない良いお酒を買うため、お金がなくて晩餐ができない人のためにも、取り分けておく。

そして、後はお金に困った人のために確保しておく、それが聖書に

書かれた十一献金の本当の意味です。

キリスト教の礼拝式は、ステージで代表者が演奏し、歌い、踊り、

人が叫んだり、そして、倒れたり〜様々なパフォーマンスをしていますが、西洋宗教文化の自分の体験や考えから想像しても、見えません。毎日記念日だったら、特別の日の意味がなくなるでしょう?

特別の日を迎える為の、準備もできない。毎日が祭り、止まる日、

休む日?そんなのは神の創造のデザイン、人の生き方でもない、

教えではありません。

神は、6日の間、労働、活動、創作して、そして7日に止まるという

聖別した日を与えました。その日だけを、特別に聖別し祝福しているのです。そして、その他、新月、祭りを設けてイエシュアの業、福音を網羅する預言的祭りを人に与えました。

それらの日が、聖別された日であり、それ以外は、普通の日、活動日、労働日なのです。

一方、神の性質〜教え通りを、生きる事は、365日です!その違いが分かりますか?アヴォダ(礼拝)〜神の性質通りを生きる事は、

365日毎日!全ての時間、アヴォダ、神の意図通りを生きる。

イエシュアの性質通りを、贖われ、新しくされた人は生きる!

これは、絶えないのです。

メラハ=創造の業、活動、労働、学業、その他は、神の聖別された日以外にする。

神は特別に取り分けた日〜聖別された日に、神の子ら全員を呼び出し

会見して祝う日を、創造されたのです。

それは、人間が勝手に決めた日とは、異なる日なのです。

人間が決めた日〜宗教が作った神の記念日、それはイスラエルの神に

属さない、神の仰せではない、神が造った日ではない、神は神の子らをその日に呼び出していない、その違いを理解しないとならないのです。いつでも安息日、主日、礼拝日、いつでも良いというのは、神が言われたこととは、真逆の教えです。神が伝えた聖別された日以外に集まる〜それは普通の日と神はみなしていますから、主の日などではないのです。人間がそう思ってやっているだけで、神の目にはその日は聖別された日ではないのです。

2つ別の教え、概念を、混同しているから、神の教えを変形させてしまうのです。

礼拝という言葉の意味を、誤解している事もあります。

礼拝という、本来の意味は、「生きる」という事です。

エデンの園で、アダムは神が伝えた通りに、園をガードし耕すという仕事を与えられました。

その「耕す」という言葉が、礼拝と訳されている言葉なのです。

神の意図通りに、ガードし、生きる事、それが礼拝の本当の意味です。日々、1秒1秒、生きる全てが、神の前の礼拝です。

それは、礼拝という意味が違うので、本来の言葉、アヴォダと書きます。それは、四六時中、歌う、はねる、賛美する、踊るなどではないことが分かるでしょう。

生きる全て〜神の伝えた通りの性質=トラーを生きる、それが生きることはキリストという意味なのです。

アヴォダは、何をしていても、アヴォダなのです。

スポーツ観戦で楽しむのも、友達と会って会話するのも、家事、育児をしていても、何をしていても、イエシュアの性質通りを生きている、それが神の前に生きる本当の礼拝の意味なのです。

 

一方、worship,ワーシップという言葉で考えられているクリスチャンの概念は、聖書ではこのように書かれています。

 

1)נוֹדֶ֣ה

詩篇44:8  われらは常に神によって誇り、とこしえにあなたのみ名に感謝するでしょう。

 

ここにある感謝と訳されているものは、נוֹדֶ֣ה ナワダという言葉で

元の言葉は、手を表すヤッドです。

手を差し出す、放つ、告白する、賞賛する、矢を放つ、感謝する、という意味の言葉なので、ここでは、感謝すると訳され、英語ではプレイズ〜賛美すると訳されています。

だから、手を挙げて賛美というのをやるのでしょう。

 

2)שַׁבַּ֣ח

詩篇145:4 この代はかの代にむかってあなたのみわざをほめたたえ、あなたの大能のはたらきを宣べ伝えるでしょう。

שַׁבַּ֣ח シャバ 大きな声で話しかける、叫ぶ、称賛する、栄光を与える、勝利を得る

 

3)תּוֹדֹ֣ת

詩篇56:12 神よ、わたしがあなたに立てた誓いは果さなければなりません。わたしは感謝の供え物をあなたにささげます。

感謝、トダです。

手に繋がるもの、延長、そして、未だ受け取っていないものに対する感謝、賛美のコルバン

 

4)תְּהִלּ֥וֹת

詩篇22:3 しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは

聖なるおかたです。

この言葉の元はテフィラ 賛美、感謝、プレイズ、そして祈りの語源にも繋がるものです。

 

5)בָּרֲכִ֣י
詩篇103:1 わがたましいよ、主をほめよ。

わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ
ほめよの語源は、祝福〜バルフという言葉です。
その言葉の意味は、「膝」です。人を祝福する時に、ひざまづき
その人の前に忠誠を誓い、全てを捧げることを表すこと、
それがひざまづくという意味であり、祝福の言葉の語源です。

 

6)אֲזַמְּרָה־

音楽を奏でる、歌と音楽で祝福する

詩篇 144:9 神よ、わたしは新しい歌をあなたにむかって歌い、十弦の立琴にあわせてあなたをほめ歌います。

ザマル

 

7)הַֽלְל֣

詩篇149:3 彼らに踊りをもって主のみ名をほめたたえさせ、鼓と琴とをもって主をほめ歌わせよ。

ハラル

自慢する、祝う、褒める、取引する、作る、愚かな栄光を与える、光を与える、光を与える