ダニエル7:25彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時とトラーとを変えようと望む。
聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。
書いてある通り、紀元前167年、ギリシャ帝国〜セレコウス朝、
アンテオコス4世エピファネス〜現人神という名の王がしたことが
預言されているのです。
そして、それは1世紀のローマ帝国でも、同じです。
ギリシャ帝国、ローマ帝国は、何をユダヤ人に強要しましたか?
ギリシャ帝国は、エルサレムの神の神殿にゼウス神像を持ち込み、
神の聖なる祭壇を、豚とその血を捧げて汚し、そして、ユダヤ人に
トラー=モーセの五書を生きる事を禁じ、シャバットを汚し、豚を
食べるように強要しました。子供に割礼を施す親を、残酷な方法で
みせしめに殺害したのです。ハマスと同じ、残忍な殺戮。
そして、トラーを生きるユダヤ人は、全て処刑されたのです。
あるラビは、無理やり豚を口に突っ込まれ、それを拒否して殺されたのです。クリスチャンには、理解し難い、分からない世界だと思います。そして、ローマ帝国でも同じです。
1世紀、ローマ帝国も、同じようにモーセの五書=トラーを生きるのを禁じ、割礼を禁じ、汚れた動物を食し、そしてシャバットや祭りを祝う事を禁じたのです。
だから、マカバイ戦争と同じく、1世紀もトラーを生きる事を禁じられたユダヤ人がローマ帝国に反撃、反乱を起こし、110万人が殺され、9000人が捕虜、奴隷、そしてその他ユダヤ人は国外へ離散して行ったのです。
神のトラー=モーセの五書を生きることを、ギリシャ帝国同様、
1世紀後半のローマ帝国も禁じたのです。
このような歴史的背景を知らないまま、黙示録を読んでも見えません。
だから神のトラー=教えを、本物、オリジナル、生粋の神の言葉、教えを
異邦人イエシュア信者は捨てたのです。
それは、トラーに根付かない異邦人は神の教えを生きて処刑されるのは回避したいからでした。
そして、ユダヤ人とつるんでいたら、ユダヤ人とみなされるから、
ローマ帝国支配下の国に住んでいた異邦人はユダヤ人と神のトラーを生きる事から離れて行ったのです。
だから、神の教え、シャバット、祭り、割礼、食生活、神の教えで
異教徒とはダントツに違う、際立った教えの全てを生きるのをやめたのが、異邦人イエシュア信者なのです。自分達は、トラーに記された安息日を祝いません、割礼もしません、豚でも何でも食べるし、ローマの神
太陽神の日を尊重しますという、ユダヤ人とは別のアイデンティを
確立して、迫害、処刑を逃れるために、ローマ帝国に証明する必要があったのです。
考えてみたら、分かるでしょう。どうして、聖書に記されている
1世紀、イエシュアが教えたトラー、そして使徒達が生きていた
トラー、神の教え、シャバットや記念日とは違う、宗教の教えを
4世紀以降の異邦人クリスチャンはやっているのか?
どうして聖書に書かれた事と違う教えや違う記念日をクリスチャンはやっているのか?と考えてみれば、良いのです。
聖書に記された1世紀の人たちが信じて生きていた、イエシュアが
教えた神の言葉、教え、シャバットや祭りと、今のクリスチャンの
実践している事とは違う、変だと思いませんか?
ユダヤ人だから違う?聖書が閉じられた後、違う教えを神が
誰かに伝えたから?これこそ危険な思想です。
異邦人だから違う?トラーとは違う神の教えなどはありません。
聖書に書いてもない、儀式や記念日、そして神の教えは廃れたとまで教えている。何か変!と思わないのは、人間の思想を神の言葉にすり替えているから、聖書に書いてもない事をしていも違和感ないのです。聖書ではない、人間が作った宗教の実践、宗教文化を生きているのです。
クリスチャンは、聖書〜神の言葉、教えではなく、ローマ帝国が
作った宗教の教えを信じて、実践している。その中には、神の教えもあるけれど、神の教えを殆ど知らない、学ばない状態なのです。
ヨハネが黙示録を記しているのは、隠語、コード化した言葉、
トラーを知るユダヤ人にしか分からない言葉で書いているのです。
これが、書かれたのは神殿崩壊の時代です。
これ、今のクリスチャンにも当てはまるでしょう。
神のトラー、古い律法に戻るな!とは、この1世紀後半に遡る
このような歴史的背景があるのです。神が神の言葉を終了などしない
ローマ帝国の勅令に、異邦人は屈服したのです。
黙示録2:4しかし、あなたに対して責むべきことがある。
あなたは初めの愛から離れてしまった。
はじめの愛〜シナイ山で与えられた婚姻契約=トラーを指して、
ヨハネは語っているのです。ふわふわ、フィーリング、感情の熱心さを、愛などと言っているのではありません。
トラーを捨てた!捨てよ!廃れた古い教えに戻るな!とクリスチャンの教師はそう教えているでしょう。その警告が、2:4なのです。
愛の定義は、モーセの五書、トラーに根付いた生き方を、聖書では「愛」と定義しているのです。
だから、神を愛する人は、神の仰せ〜トラーを生きる事をする人!
とイエシュアも言ったでしょう。
トラーを捨てたら、愛の定義も全部吹き飛びます。罪の定義も消えて、イエシュア=救いも必要なくなります。神を愛するとは、神の
伝えた教え、生き方に忠実に根付いて生きること、それが聖書で語られている「愛」それ以外にはない。神の教えを捨てて生きることは、神が伝えている愛ではないからです。
クリスチャンは、イエシュアが来られて、神の教えが廃れて、別物の新しい教えが出現し、そして、メシアを人々が初めて信じることが
始まり、罪の赦しは動物のコルバンを通してではなく、イエシュア
昇天以降から初めて、イエシュアの贖いの血の代価により許されることになって動物のコルバンが廃止されたのだ〜と考えていると思います。
聖書に書かれていることを、正しく理解していないから、そう考えているのです。
動物の血は、人の罪を消さない!そう神が伝えているでしょう。
神の前に、仮の罪の赦しという、事実、概念はありません!
エデンの園から、同じ!人のズレ、罪を神が負った事が書かれています。そして、子羊は、永遠の中から屠られていると書いてあるでしょう。アダムとハヴァが神の前に罪を告白して許されて、神が屠った
動物の皮=イエシュアを表す義の衣を着せたとあるでしょう。
レビ記を、ヘブライ語で書いてある意味通り、当時の人たちが、神殿で体験していた通りと重ねて、学ぶと、それは、地上での神の家
天の現実をそっくりそのまま地上に反映し、表す物理的神の家であり、それが、神の子らの住まう生き方〜修復の仕方、許しの意味、
癒される方法、神への近づき方、命からきり離れた状態はどのようなものか、イエシュアの業の全て、様々な事が教えられているのです。
特にシャバット、ハギム〜祭りを神の家で、イエシュアそのものを
体験する幸い。
これは、ごく少数の人、エルサレム周辺に住む人、エルサレムまで
徒歩で旅する事ができる人以外、可能ではなかったのです。
そうすると、動物の血で過去は、許された〜というのは、聖書の教えではない事は、分かるはずです。
神は時空に制限されない、どこでもアクセスできるお方であり、
少数の人しか得らない、罪の許しなどケチくさい事をする神ではないからです。神は神の方から人へアプローチしてくださっているのです。いつの時代にも!
そして、ユダヤ人への、許しの方法、時代ごとに違う救いの方法、
そんな事は、聖書には1つも書いてないのです。最初から同じ。
神の家は、イエシュアの業、神の家に住まう事を、実体験を通して
学習できる施設だったのです。ユダヤ人が体験した事を、神の教えを世界へ教えるため、ユダヤ人は選ばれたのです。
目で見る事の出来ない神、そして目で見えない天の家、それを
地上で反映させて、人に神とは、神の臨在、神と神の家族との場所
で、親しい交わりをする場所を与えたのです。
しかも、神の家の至聖所には、神の言葉=10の言葉の石の板
モーセが神から受け取ったものが入っていて、神の臨在があったのです。神の言葉=神ご自身=臨在と教えているのです。
聖霊=言葉です。だから、神の言葉に触れると人は命の源泉に触れることを体験するでしょう。
だからクリスチャンも聖書を読むのではないのでしょうか?
その他、勘違いしていることがあるのです。
ローマ14章で、パウロがいつでも安息日、それぞれが考える日が大事とパウロが、断食の日がいつが良いのかと議論していたローマ人達に対して、パウロの意見としてそれぞれが考える事をすれば良い提案をしたのです。なぜなら断食は、神の教えで命じられていないからです。だから人間の考えでやりたい人がやる。レビ記23章の
神のモアデイム〜アポイントメントの日聖別された日の祝宴の話を、人間が勝手に自分の意見で仕分けて良いと、パウロが言ったと勘違いして、いつでも安息日などと、クリスチャンは言っているでしょう!
ローマ14章は、その日は、普通の日〜定冠詞のつかない、普段の日のことが書いてあり、神の定めの日〜定冠詞がついている、レビ記23章のモアデイムのことなど、1つも書かれてなどいないのです。
本当に勘違いした、間違いの読み込みを続けているのです。
そして、礼拝という言葉を、西洋宗教の礼拝式と勘違いしているのです。
日曜日は神の定めた安息日、シャバットではないと発見した人が、
今はいつでも礼拝できますと言っていましたが、神はいつでも、シャバット〜聖別された日であるなどと、言っていないことを、はっきり区別してください。
毎日が、聖別された日ではありません。それは、区別、識別、境界線がなくなるということになるのです。
いつでも、神のモアデイムではない!毎日が元旦ではない!
毎日が、結婚記念日、誕生日、還暦の祝いではないでしょう。
神の呼出日は、365日毎日ではありません!
もし、いつでも聖日、いつでも安息日であると言うならばその場合、
聖別の意味が消えます。区別、識別がなくなる状態になります。
聖別とは、普通とそうではない、神の特別の目的の為に、分たれているという意味なのです。
昼と夜、水が下と上に分かれたとある通り、区別があるのです。
普通と、聖別の日が分かれているのは、神は神が定めた特別な日と
普通の日を、神が分ている!という永遠の事実を理解しないとなりません。
毎日が、シャバット=休みの日なら、労働する日がなくなります。
人間が勝手に神の記念日を決めるとは、人間が神になり代わるということなのです。創造されたに過ぎない人間なのに、神になり変わってあれこれ、神の言葉やモアディムを塗り替えることは、金輪際一切やめないと
なりません!
こういう違反をクリスチャンがしているから、神が伝えていることを、人間が曲げて、人が神の真理を知ることを妨害しているということにも、
気がつけなくなるのです。
神の言われた事だけに、戻る!人間があれこれ神に対して口出しし、神の教えを塗り替えることを、神が禁じています。
それは、遺伝子組み換え操作と全く同じ行為をしているのです。
オリジナルを破壊する行為です!絶対にやめる。
添加物〜人間の教えを神の教えに混ぜない!
神の記念日〜呼出日〜アポイントメントの日と、クリスチャンが考える、いつでも礼拝できるという言葉を、混同していることに気がついてください。
礼拝という言葉の意味を、とても誤解しているのです。
賛美や、感謝、祈りはいつでもどこでもできます。自分一人でできます。それらは、神に対する神への表現、コミュニケーションの方法だからです。一週間7日間、24時間いつでもできます。
でも、それは神が呼び出している日〜聖別された日に皆と、集まり祝い行うということではない!という区別、識別をしないとなりません。個人個人が自由に神との対話、関わりはいつでもできる!ということなのです。
でも、一方神の子らが、家族、友人、仲間全員と集う神の定めた日
聖別されたは、神が定めた日だけなのです!
一週間いつでもOk、いつでもシャバット、記念日などと、神は言いません。それならば、なぜ神は神の聖別された日を汚す、破る事は、
死に匹敵するなどというのですか?それほど重要である!という事を、人が分からないだけなのです。
呼び出し日は、神の暦にはっきりいつであるか、どんな目的なのか
神が人に伝えて、その暦、日程表が記されているのです。
人間がいつでも今は安息日、記念日などと、主張しても、それは
神の教え、言葉、聖書ではありません。神とは何も関係のない
人間の主張です。
神の聖別された日〜特別な呼出日の特別に聖別された日と、
いつでも神を礼拝できますという、概念を2つ別のものであるという事実として分けて、認識、識別してください。
続く