パウロの書簡に書かれているノモスというギリシャ語、その翻訳は、「律法」と訳されていますが、ノモス=律法とは少なくとも7種類別のことに関して、パウロが語っている言葉で、同じノモスという1つの言葉で記されているのです。
神の教えと、その他、別の事柄を指して語っているのに、全部神の
トラー=モーセの五書を、「律法」という同じ1つの翻訳で一括りにされているので、7つ別の事柄が、神の教え=律法と語られていると誤解して読んでいるのです。
7つ別の事柄が、正しく区別されないまま、空想の読み込み、早合点神のトラー=モーセの五書=律法が廃れたと、完全に誤解した解説がクリスチャンの間に浸透してしまったのです。
分かりやすく言えば、山田さんという同じ名の人が、クラスに、
7、8人いる場合、「山田さん」とだけ言っても、どの山田さんなのか、不明、誰の事を言っているのか分からないでしょう。
山田さんがそのクラスには7、8人いると知っている人には、
どの山田さんのこと?というように考えられるでしょう。
そして、名前とその人の特徴を話せば、どの山田さんか特定出来ます。
それは、下の名前で、太郎、花子、善子、恵子、健太、雄二
美恵子と呼べば、それぞれ7人別の人を指していると分かるからです。でも、山田さんが7人いると知らない人は、山田さんと聞いただけでは、一人の人のことを話していると勘違いするのです。
それと同じことが、パウロの書簡のギリシャ語のノモス=「律法」と訳された言葉により誤解が生じたのです。聖書に書いてもない、神の教えが廃れた、変化したと、パウロの語る内容を、神の言葉=ノモス=トラーに関して話していないのに、神のトラー=律法のことを言っているのだと、早合点しているのです。
今は人間の意見で自由に神の言葉を仕分け、選り分け、選択して、
生きても、生きなくても良い〜これ100000%完全に神の
言葉に違反した、罪に人々を導き続けている教えであり、聖書の定義では「無法」の生き方を教えてしまっているのです。完全に正されなくてはならない、偽、嘘、反神の教えの思想だと聖書から知って下さい。
人間が神の上に立ち、神の権威を勝手に使用、悪用、乱用し、神の
言葉を仕分けるという、その思考回路、行為こそが罪、無法であり、
異教徒上がりの思想であることを、自覚した方が良いです。
人間が教皇〜神と同じ権威にあり、教皇が神の言葉を自由自在に解釈する権威を与えられているとカトリックは言いますが、プロテスタントも、聖書が絶対の基準である!!!と言いながら、同時に大矛盾〜神の言葉は昇天以降変化したという、支離滅裂な分裂思想〜人間が
編み出した嘘を、神の言葉を退けて信じているのです。
結局、同じ主張をしているのです。神に対して、人間が上になる行為
これが、罪、冒涜だとも、全く気がついていないのです。
神が、神の性質、神の言葉は永遠に変わらない、廃らない、固く立つ
というその神の宣言、言葉が耳に、頭脳に届いてないことに、気が付かないのです。
神の言葉を読んでも、その通りに受け取らない、とっても不思議な
現象、状態なのに、神の言葉の進化論を刷り込まれ、洗脳された脳回路の枝は、神の言葉を正しくキャッチできなくなっている状態なのです。
異邦人の編み出した宗教、そして神の言葉を捨てよ!という、ギリシャ帝国や、ローマ帝国勅令、その思想のおかげで、聖書とは違う教えが異邦人の世界に浸透してしまったのです。でも、それは終わりの時代に正される、元に戻る〜神の言葉、トラー、婚姻契約の生き方に
皆が戻ることが預言されているのです。
それが、エレミヤやエゼキエル、イエシュアが言われた再更新される
新しい契約〜同じ婚姻契約が再更新され、皆が頭脳に割礼を受けて
神の言葉、教えを正しく知って理解して生きる状態になる日が来るという預言なのです。
ノモス(ギリシャ語)翻訳では律法という言葉は、少なくとも7つの別の意味でパウロが使っている言葉なのです。
誤解の原因は、ギリシャ語の言葉の意味、それに対応する様々な別の意味の言葉=翻訳ではあるのです。
それらが何か知らないまま、ノモス=律法=神の言葉という間違った聖書の読み方をしているから、パウロの書簡を誤解しているのです。
プラス、人間の作った宗教、そして人間が編み出した思想、1世紀後半から出現した、モーセの五書を生きる事を禁じる!と言ったローマ帝国の勅令と、処刑。それに便乗した西洋教父の教え。
異邦人は、ユダヤ人と同じとみなされてローマ帝国から処刑されないように、ユダヤ人とは違います!という別のアイデンティティを行動でアピールし、ユダヤ人とは別の宗教のIDを確立した異邦人は、
モーセの五書を捨てた!神のトラーを捨てた!それが、黙示録2:4の「はじめの愛」を忘れた!という、ヨハネの警告そのものなのです!
パウロが使っている「律法」と訳された裏にあるギリシャ語ノモスは
どのような意味の言葉に使われているのでしょうか?
1. 神のトラー(ローマ3:31;7:22-25; 8:7)
2.罪の法則(ローマ7:23-25)
3.罪と死の法則(ローマ8:2)
4.聖霊にある生き方の原理、本質(ローマ8:2)
5.信仰の原理、法則(ローマ3:27)
6.義の本質 原理(ローマ9:31)
7.キリストの教え(クリスチャンが言うキリストの律法)
(1コリント9:21)
キリストの教え、イコール父の教え=トラーのことです!
そして、マタイ5章のイエシュアの言葉を完全に誤解して、
イエシュアがトラー=婚姻契約=父の教えを破棄しに来た!
成就〜終了などという、言語の意味とは全く異なる勝手な思想を
施して、聖書とは真逆な神に対して罪を犯すことを促す教えに
作り替えているのに、全く気がつかないまま、間違った聖書解説を
信じ続けているのです。
このように、パウロは同じ「ノモス」というギリシャ語で、全く違う7つの言葉、概念を話しているのに、それらを全て「神の教え」
=律法と一括りにして考えている間違い、誤りに先ず気がついて下さい。
しかも、不適切な翻訳のせいで、人の中に神の教えに対する歪んだ
概念を刷り込み続けているのです。
そして、神の言葉に対して、「律法」という言葉で表されている言葉は、1つもないのに、「律法」と訳し、古い、悪い、廃れた教えという聖書とは異なる人間の解釈〜宗教の教えを施して解説し続けている為、とんでもなく、神の教えを誤解し続けているのです。
これを、日々コンスタントに頭脳に植え続ければ、当然神に対して
歪んだイメージを持つことは免れない事なのです。
怒りの神、恵の神、怒りの時代、恵の時代、神の性質と神の言葉が変化すると言う、そんな聖書に書いてもない、イスラエルの神像を完全に歪めている人間の思想で神を語り、パウロが語った言葉を完全に曲げて解釈しているから、次から次へと、聖書とは異なる思想、神学を異邦人は編み出し続けてきてしまったのです。
言葉の、性質上、ノモスを、律法という同じ翻訳を使っていますが、
ギリシャ語を理解し、文章の内容を把握する当時の人には、これらが全て別の事を話している事を理解しているのです。
ここで、考えて下さい。異邦人が編み出した西洋宗教、西洋というだけで、ヘブライとは違う!聖書とは違う味、匂い、中身、雰囲気と
気がついて下さい。アメリカ人が作ったアレンジされた和食と同じ。
違う〜見かけてが似ていても、本質、中身、食材料、味が違う。
そして、人間の編み出した宗教は、神の教えや言葉とは異なる思想が
ふんだんに盛り込まれ、究極は神の言葉を人間が曲げて、神の言葉とは異なる教えや解釈を施し続けているという大罪に全く無感覚のままでいるのです。
それは、神の教え=言葉を捨てる、イコール神が人に伝える「罪」の
定義、基準も人の都合で仕分け、選り分け、選別しているから
分からないのです。
1つのズレ、ボタンの掛け違えが、大きな罪に導く!と警告されているでしょう。
だから、今や日本人のプロテスタントの牧師までもが、そしてクリスチャンと名乗る国会議員が、LGBTQ賛成という、罪を人に奨励する誤りを教え、人を偽者の教えに扇動している!発表している。
神の言葉は1つである、神の言葉、教えのどの箇所でも人間が手を加える行為、これが、罪とも気が付かないそんなところまで、行き着いてしまうのです。
クリスチャンの中でよく語られるスローガン、神の律法、トラー=
古い教え=モーセの五書に記された神の教えは破棄されたという思想を語るために使っている、パウロの書簡に書かれた言葉がこれです。
ローマ6:14 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、
恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
この箇所は、よく引用されて、今救われた人は、神の教えの下にはない!などというパウロが言った意味を正しく理解しない解説がされている箇所です。
これは、いくつか指摘できることがあります。
律法=神の教えの下にいないと読むならば、それは聖書で言う、
イエシュアも警告された、「無法」トラーを捨てて生きる、無法者という意味になり、罪を自由に生きること、安全な囲いから飛び出た生き方を奨励していることになるのです。矛盾しているでしょう。
神の教えから外れる?それって、聖霊を拒否し、聖霊が書いた神の
言葉を捨てる無法なのです。ではその人は一体何を生きると考えているのでしょうか?聖霊に導かれて生きるから、神の言葉はいらない?
聖霊=神の言葉であり、聖霊は神の言葉、真理とピッタリなこと以外
人に教えません。神の言葉を無視し、罪を犯すよう、聖霊は人に
そのようなことは教えない、導きません。
辻褄が合わないことに気が付きますか?
しかも、最後の部分を読んでも分かるでしょう。
「罪に支配されない」とは、罪の定義が消えたから罪に支配されないなどと言う意味では、あり得ないでしょう。
それでは、殺人、盗み、姦淫、偽証、嘘、きよくない動物を食べ、
今はシャバットも破り、同性愛、同性婚、LGBTQなんでもあり!
人間〜クリスチャンが考える、その人が受け入れられることを自由に生きる自由?とでもパウロが言っているのですか?
神の律法が終わる、神の律法の下にいないと言うならば、それは
聖書、神が警告する無法〜罪を犯しても今は罪にはなりません!
と言っている大矛盾に気がついてください。それならば、恵も許しも
イエシュアの贖いもいらない!ということになること、気がついて
言っていますか?罪の定義がないから、罪に定められない、だったら
何をしても、許しも、恵もイエシュアも必要なくなりました!
なぜなら、罪が何かの定義=神の教えが消えたからです!となるのです。
恵の下にあるとは、罪でもなんでも犯して良いという意味などでは
ありません。
ここでパウロが言っているのは、新しくされた人は、罪の法則に縛られていたことから、解放されたから、罪、ズレを生きない!という
自覚、選択が与えられ、イエシュアの性質通りの新しい人の実態を
与えられているから、イエシュアの性質通りを生きる〜イコール罪に支配されない生き方ができるのだ!と言っているのです。
だから、この文章の最後に、律法=ノモス=罪の法則の下にいない!とパウロが話していることでも、明らかでしょう。その人は、罪の
法則=ノモス=律法に縛られないから!と最後パウロがはっきりと
解説しているではないですか?
パウロの解説している内容から完全に逸脱して、神の言葉が今は破棄され終了という人間の作った神の言葉に対する冒涜を教える神学を
神の教えだなどと信じ込んでいるから、聖書とは違う、勘違いした読み込みができるのです。
パウロが言っている意味を注意深く読めば、分かるのに、正しくパウロの言葉を理解できていないのです。神の教え(律法)は廃れた〜とクリスチャンは教師筆頭、こぞって言い続けているからです。
神は、神が禁じる「無法」トラーなしを言いながら、同時に人に
無法、トラー無し!などということを教える、精神疾患、精神錯乱、分裂症、嘘つきの神などではありません。
神の言葉は絶対であり、言葉=イエシュア=聖霊である。私達は神の
言葉=実態の中にいて、神の言葉、声の下に留まれ!と書いてあるのです。フパコウ=従うというギリシャ語の意味は、「(神の声、言葉)の下で聞いている』という意味なのです。それを、神の言葉が
廃れた〜!? 聖書とは何も関係のない人間の作った教えであり、
神の言葉と人の教えとの区別が聖書から出来ない状態なのです。
こうしてパウロの書簡を誤解するようなことを教えられ、何が人の
作った教えで、何が神の伝える真実、言葉なのか、その区別、識別が正しくできない状態になっているのです。
盗むな!と神に教えられ、でも今は恵の時代だから、盗んでも良い!
と言うクリスチャンはいないでしょう。
律法の下ではなく、恵の下にいるのだから、今は盗んでも良いのだ!
殺人も、罪、神に反する行為であるけど、今は殺人して良い、今は
律法の下にいないから、殺人して良いのだ!恵の下にいるから、
それもOKだと言いますか?おかしいでしょう?
しかも、道徳的な教えだけ生きてれば良いと主張します。
それでは、神を知らない善良な人たちだって、腹に書かれたトラーを
生きている人は大勢いるのです。
神の言葉、教えはどれも同じで繋がり、1つなのです。どこも切り離せない性質のものなのです。道徳も儀式も何もかも区別などないのです。それは、神が創造された人間の性質、神の似姿に造られた人=
イエシュアと同じ性質に造られた本当の人は、これこれを生きて、
これこれを生きるように造られていないと神が教えている、それが
丸ごとでシャローム、完結であり、本来の人間の生き方を、神が人に教えているのに、創造されたに過ぎない人間が、神が教えない限り、何が本来の生き方なのかも知りもしないくせに、勝手に神の言葉を
捨てている、曲げているのです。
聖別を汚す行為〜きよくない清掃動物を食べ、体を、環境を、聖別を汚染、汚す行為、それは神の中では最も忌み嫌う!というほど重たいズレ、罪であるのに、クリスチャンには神の言葉は正しく理解されていないのです。
イエシュアが内側に住まう神の宮である人は、けがれたものを一切
取り入れてはならない、それらの汚れた動物で身を汚して聖別を
汚してはならない!と教えられているのに、神の言葉は全く通じていない状態になっているでしょう。異教徒と同じ生き方をしていた
異邦人イエシュア信者達と全く同じ罪を今も気が付かないまま
繰り返しているのは、神の教えは廃れた!と言い、都合悪い箇所は全て、律法は廃れた、恵の下にいるからなんでもあり!などといっているのです。使徒15章
人間が神の教えを破ったり、変えたり、差し引き、付け足ししてはならないと神に警告され言われているのに、神の言葉に完全に違反しているのが、人間が作り出したローマ帝国の宗教なのです。