クリスチャンは、2000年前に初めて人類に、メシア、キリスト
救い主、イエシュアが伝えられて、その教えが、キリスト教として
初めて人に教えられ、伝えられたと、完全に誤解しているでしょう。
全く違います。福音、メシアはエデンの最初から伝えられていたのです。それを、理解していた人、理解してない人が、居ただけです。
いつの時代も同じ。神の言葉、教えを正しく理解して生きる人
残りの民と、神の教えを正しく理解しないで、混ぜ物の教えを生きる人、無法とあるのがそれです。
イエシュアが、復活されて過越の祭りから次の祭り〜シャヴオートの
祭り迄の穂を数える7週間の間、弟子達に肉体を取って現れ出た事が記されています。
ルカ24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。
<預言者たちが説いた全てとは、モーセの五書、預言書、諸書に記
されている、メシア、イエシュアは最初から教えられていると書いてある通りなのです。それを理解しない、信じられない、愚かで心の
鈍いものとは、神のトラー〜タナック=モーセの五書、預言書、諸書に記された事、神の伝えた言葉を正しく理解しない頭脳!正しく理解するに疎いとイエシュアが言っているのです。>
24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
<イエシュアの苦難、処刑、そして昇天する事、全てタナックに記されているのです。それをイエシュアが、タナック=モーセの五書、
預言書、諸書に記されている全てを説明しているのです。
イエシュア、メシアがされる事、永遠の中に屠られた子羊の血の贖いは、最初から教えらていたからです。それらを、実際に神のミシュカン〜移動式神殿、そして固定式神殿の中で、創世記、出エジプト、
特に細かくレビ記には、儀式の意味が記されています。
民数記、申命記に記されているコルバンの儀式の意味、イエシュアの贖い、救いの業、そして聖別された人たちは、どのような状態で神に近づくのか、どのような状態が神の命から切り離されている事なのか、五感を通して、動物のコルバン、作物のコルバンを通して実際に教えられて、イエシュアの贖いの意味を知っていたのです。
それを、どの程度聞いた人が理解していたのか、それは個人個人により理解の差があるだけなのです。神は最初から神の教えの全貌を伝えているのです。何も欠けがない、完全版なのです。>
24:44 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセのトラーと預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。
24:45 そこでイエスは、聖書=モーセの五書、その解説の預言書、諸書を悟らせるために彼らの心を開いて
<心とは、頭脳です。頭脳で神の言葉を理解するからです。感情、
フィーリングの話ではないのです。そして、聖書とは、100%
タナックのみ!ここを、新約聖書を解説しているなどと考えていたら、事実は見えません。
福音書以降は、イエシュアが昇天、復活された時は、未だ記されてもいないのです。そして、福音書以降には、イエシュアが教えられた
トラー=父の教え=婚姻契約=モーセの五書とは別の新しい教えや
モーセの五書が無効、無用になった教えは記されていません。>24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
24:49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。
だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。
過越の祭り、そして種無しパンの7日の真ん中にある「初穂」の日にイエシュアが復活されたのです。そして、イエシュアが「都に留まりなさい」と言われたのは、過越から、次の都上りの祭りの7週間
ガリラヤに帰らずにそのまま、エルサレムに留まり、イエシュアの
処刑、そして大ラビが、自分たちからいなくなってしまった事、
様々な傷、痛みからお互い励まし合い、イエシュアの約束を待って
修復する期間でもあったのです。この7週は、復活の命〜新しくされた人、呪われた大地からイエシュアが実際に地上で復活した、
穂を数える7週〜罪削ぎ落とされ(マッツア〜種なしパンの7日間で表されて教えられている新しい人が与えられている事実)そして、
新しくされた人が次の祭り、シャヴオートで神から正式に婚姻契約をもらった事を祝う祭りまでの間、新しくされた人を考えて、小麦の穂〜イエシュアに連なる新しい人とされた事を、考えて生きる7週間なのです。
弟子達の中には、もちろん既に聖霊が与えられていました。
そうでなければ、イエシュアがメシアとは認識できないのです。
そして、新しく力を受けるとは、弟子達はこれから特別なミッションが、与えられていたからです。タナックに記されているメシアが実際に地上に来られて、永遠の中に屠られた子羊の血の贖いが真実であると言う証明を、イエシュアが地上でされたのです。
そして、イエシュアが到来した事実と、神の教え=トラーを世界へ
伝える幕開け、終わりの時代が来たのです。
使徒達は、モーセの五書、預言書、諸書に記されたメシアが
イエシュアである事実、そしてトラーをイエシュアが教えられた通りに教える事、そして使徒として、タナック=モーセの五書、預言書、諸書に記されたイエシュアの記録、そして、使徒により人々にメシア、婚姻契約の生き方が伝えられ、使徒の書簡は婚姻契約=トラーをどのように生きるかの記録、最後は、婚姻契約=トラーが世界中の
人に認識され、完全に理解されるエデンに戻る時代が来る、そのような書簡を書くミッションが与えられていたのです。
聖霊により聖書は書かれているのです。その神の言葉モーセの五書、預言書、諸書の最後の短い後書きを、正しく書くには、聖霊の特別な
力が必要だったのです。
1世紀イエシュアを信じたユダヤ人達は、タナックに記されたメシア
イエシュアを知っていて、待望していた人たちです。
イエシュアが誕生する時、ヘロデ王でさえ約束の救い主を怖がって
いたとあります。そして、ヘロデは、約束の救い主であるイエシュアを密かに殺そうとしていた事が書かれています。
そして、バプテスマのヨハネの父親である、大祭司ザカリヤ、
そしてその子バプテスマのヨハネも、大祭司であり、神殿で捧げる
子羊のコルバンを判定する大祭司でした。
イエシュアを見て、傷のない「世の罪を除く子羊」と宣言した通り、イエシュア〜メシアであると知っていた人〜残りの民は、どの時代にも存在しているのです。
エデンから出て、創造された世界が洪水で一掃され、創造の最初から
リセットされた後、ノアも同じ神のトラーに記された神の義を教えられ、神の義=トラーを生きていたとあります。その時代唯一、同じ
贖い、救いを信仰により受け取り、神のトラー=教え=義に忠実に
生きて聖霊を内側に信仰により受け取っていた人でした。
アヴラハムも、イエシュアを知っていた!とあるでしょう。
それが、創世記に記されています。そして、イエシュアも言われました。信仰により義とされるとは、アダムとハヴァから同じです。
ヨハネ8:55 あなたがたはその神を知っていないが、わたしは知って
いる。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。
しかし、わたしはそのかたを知り、その御言を守っている。
<神の言葉を分断し、神の言葉が歴史の中で変化するという人間の
思想を信じる人の頭脳には、神の言葉は正しく伝わりません。
御言とは、100%モーセの五書=父の教え=トラー=婚姻契約の
ことを指してイエシュア、神、聖書話している事実を先ず理解しないと、聖書解釈が完全にずれます。
イエシュアは父が語られたこと=御言=トラー以外に語らない!
と言われた通り、神の教えの完全版は、モーセの五書以外にありません。その神の言葉は変化、進化しない教えであり、黙示録に至るまで、神の言葉、教えは、モーセの五書以外にはありません。
8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして
楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。
<アヴラハムもイエシュアを知っていた。聖霊を内側に受けて、
神の言葉を理解して生きていたことが記されているのです。>
創世記26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。
わたしのことば、さとしと、いましめと、さだめと、おきてetc これら全てトラー=モーセの五書に記された父の教えの事を指して言っている言葉なのです。
福音書以降に、同じくわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきとあれば、それらは100%モーセの五書の教えのことなのです。
聖書を、人間の思想=宗教の神学、教えで解説しているから、何が
聖書に書いてあるのか、意味が違う、別の教えの解説にすり替えられてしまっているのです。
聖書は、聖書で解説しなくてはならない原則があるのに、異邦人は
聖書を、人間が作った宗教の編み出した思想や伝統文化、記念日で
解説しているから、聖書には無い教え、解説がされてしまっているのです。
ベツレヘムにいた羊飼いたちは、普通の羊飼いではない、神殿に仕える祭司であり、神殿の祭壇にコルバンとして捧げる羊を飼っていた
人たちです。その人たちも、イエシュアが救い主である事を、
タナックから知っていたのです。
幼児イエシュアが初子を捧げる儀式をするために、両親により神殿に連れて来られ時、シメオンがイエシュアを見て、神が伝えていたメシアであると分かったとあります。ルカ2:29、
アヴラハム、イサク、ヤコブ、ヨハネ、預言者たち、そしてルツの
ような異邦人も、イエシュアを知って聖霊が内側に住まわれていたのです。残りの民は、どの時代にも存在するのです。その人達も、
永遠の中に神から選び出されていたからとある通りです。
神=聖霊=イエシュア=言葉、同じ、1体なのです。
タナックを正しく知る人は、約束のメシアが来られた事に気がついたのです。
同時に、神により覆いをかけられて、あのイエシュアがメシアであると分からなかった、分からないユダヤ人もいたのです。
神はエハッドであり、どの名で呼んでも同じイスラエルの神です。
父、子、聖霊が別の存在だと思うから、事実が見えないのです。
同じです。理解不能、人間の頭脳の理解を遥かに超えた事実が
イスラエルの神だからです。
イザヤ45:22「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」
神=イエシュア=言葉=聖霊、一体なのです。
ここにある「救い」とはイエシュアという言葉と同じ語源なのです。
除酵祭と訳されている箇所を読んで、即座に、過越の祭り、
種無しパン、初穂=復活の祝いがある7日間の神の聖別された呼出日、アポイントメントの日と、理解するクリスチャンなどいないでしょう。そして、それらの祭りは自分には関係のない、祝うものではない古い記念日と考えているのです。そしてそれらをどう祝うのかも
全然知らないのが普通です。不思議でしょう。イエシュアが、言われた言葉、遺言とも言える言葉、「過越の祭り」を祝うたびに、過越の祭りでイエシュアがされた晩餐=セーダーという名のついた、出エジプト、贖い、イエシュアの業を表す一連の教え、出エジプト6:6−7に書かれて事を思い出して、イエシュアがされた業を皆で思い出して!過越の祭りを祝うたびに!とイエシュアは遺言したのです。
種無しパンと葡萄酒=3杯目の杯=贖いの杯、食後に飲む杯を取って
イエシュアが言われた事、それが本物のイエシュアが伝えた儀式であり、普段の週の普段の日=日曜日にする「たねありパンの儀式〜聖餐式」に変えられてしまいましたが、「種ありパン」では、新しくされた人〜罪が削ぎ落とされた人を表す教えが別物になるのです。
種無しパン〜マッツア、パン種=ハメッツ、過越では、パン種は
「罪』を表すものであり、マッツアは、「要らないもの=ハメッツ=パン種=罪」が削ぎ落とされた事を表す食べ物なのです。
イエシュアが言われた事、神の祭り、聖日を祝う
という意味は全く通じないままになっているのです。
ユダヤ人の教え、ユダヤ教は、異邦人のように神の言葉が廃れた
終了などという教えはありません。中には変な思想を持つユダヤ人も
大勢いますから、1世紀当時と同じく、異邦人は野生動物、犬、豚と同じ〜神の契約の民ではないから、蚊帳の外の部外者と考えていた
今もそう考える人達がいるのです。ノアの法則〜これだけを異邦人は
やっていれば良いとかいう教えもあります。
だから、神の国の正式なメンバーになるには、ユダヤ人になる改宗儀式をしないとならない!という教えやルールがあった、今でもあるのです。でも、それは神のトラー=教えとは真逆の人間の考えなのです。
クリスチャンの間で浸透している、昇天以降神の教えが変化した、
神のシャバットや祭りが今は無効になり、別物となったと言う教えは、聖書ではない人間の教えです。イエシュアが再臨されたら、
シャバット、新月、神の祭りを全世界が祝うようになる、皆が頭脳に割礼されてトラーを生きる!という預言、今の時代だけ、神のトラーも、神の記念日も停止状態?そんなこと聖書には書いてありません。
それは、特にパウロの書簡に記された内容を取り上げて、変化したと思い込んでいるから、そう空想しているですが、パウロが書いた内容から完全に逸脱していることと、そしてパウロが何を話しているのか正しく理解していないことが、聖書を誤解して読んでいるん本当の原因なのです。
パウロの書簡の内容が難しいとペテロが言った理由は、パウロは
トラー学者であり、一般の人より遥かにタナックを理解していること
そして、当時パウロが書簡を当てた群れの中に、何の問題が蔓延っていたのか知らないと見えない内容だからです。そして当時のユダヤ人の世界の宗教用語、慣用句、神の教えとは違う、伝統の教え、先祖の言い伝え、
戒めの律法〜今はタルムード、ミシュナという書になっていますが、それらの伝統の人の教え=トラーをどう生きるか?の人間の解釈の
根強い教えが神の言葉、教えの他に存在していて、それが浸透していたのです。
ペテロでさえ、その人間の教え〜ユダヤ人の伝統の教えに縛られて
生きていた記録が、使徒10章の幻と、パウロにも直接指摘されているズレた意識、行動があったので分かるでしょう。
それは、「割礼」という名の付けられた、ユダヤ人になる宗教儀式を
していない異邦人とは、一切関わってはならないという、戒めの
律法〜神の教えではない、先祖の言い伝え、慣わしがあったのです。
だから、ペテロもユダヤ人の手前、異邦人と関わっているのを知られることを、恐れていた、躊躇していたのです。
パウロにペテロはその事を厳しく指摘、言及されています。
続く