殆どのキリスト教、西洋宗教のパスターや教師は、パウロがトラー
モーセの五書(律法と訳されて、ヘブライ語ではトラー=神の教え、インストラクション)に対して反対し、神の教えは廃れた、破棄されたと主張していると教え続けています。
それが、神の言葉、教えだと信じて疑いもしません。聖書に書いてない事を、信じている事にも、聖書を教えている人が、気がついていないからなのです。その原因は、聖書、特にパウロの書簡を完全に読み間違えているからです!!!!
ヘブライ聖書の世界、古代のユダヤ人、イエシュアが教えられた
同じトラーを、イエシュア昇天以降も支持し、信じて生きていた
世界しか、聖書には書かれていません。
しかも、福音書〜黙示録は、100%モーセの五書を土台とし、
そして、その解説の預言書、諸書のみが、聖書であり福音書以降は
1世紀には、存在していません!
普通の人は、使徒達が書いた書簡など読まない、手書きの手紙や書簡は出回らない、それらが書かれたのは、紀元56年〜100年頃です。
手紙を受け取った人たちしか知らない書なのです。
福音書以降を、異邦人は新約聖書などという勝手な名前をつけていますが、それらは新しい別の契約書ではありません!そしてその箇所には、モーセの五書を否定する教えは、1つたりとて記されていません。
パウロの書簡を勘違い、無理な読み込み、ズレた解説を施して、神の言葉が終わった根拠としていますが、それら全てを正しく理解しなおして偽情報、偽の解説を一掃しないとならないのです。
神学校で教えられているのは、ヘブライ聖書を正しく学び教えられる事ではなく、人間が編み出した神学が教えられ、教会経営その他が
教えられているのです。どれほどの人数の異邦人が、オリジナル聖書に戻りそれを探究し、正しく学び、人にそのように教えているのか?
今迄は聞いた事もない、そんな事は以前は出会った事はありませんでした。今は大分変わって来ています。
日本の学校で、英語を学ぶのに、英語のNativeの教師がいない時代と
同じ状態なのです。
パウロのような、トラー学者、教師がいない。1世紀にイエシュアが
教えた、トラーがその通りに教えられない世界、それが異邦人の
聖書の解説、教育の世界なのです。
パウロが、エルサレムの神殿でした請願の儀式は、動物のコルバンを
祭壇に捧げる事も含まれていたのです。しかも、パウロの他に4人の
人達の請願をする費用までパウロが負担したのです。使徒21:21-26
生贄と訳されていますが、祭壇に捧げる動物、食物、コルバンは、
仮の罪の赦しの為のものではないのです。しかも、昇天以降も、
変わらず神殿は機能しており、神殿中心に、シャバット、祭りが祝われていたのです。神殿では、毎日二十四時間、コルバンが祭壇で
燃やされていた、それが子羊のコルバンです。
イエシュアの贖いを、ずっと古代から同じように教えられてきたのです。同じ福音、同じ救いの方法、同じ神の言葉、教えを、イスラエルの神の子らは全員生きる!神の前に、人種により分け隔てなど、ありません!使徒2章のシャヴオートも同じです。
都上りのシャヴオート(ペンテコステ)は、春の最後を締めくくる祭りであり、イエシュア昇天直後のその祭りも、エルサレムの神殿で
祝われた事が、使徒2章に記されているのです。
西洋宗教の聖書解釈は、全部辻褄が、合わない事に気がついてください。古い教えが消えて新しい教えが出現した?これは、ちゃんと聖書を知れば、最初から最後まで、同じ教え、1つの救いの方法=イエシュアを通して以外誰も父の元には戻れない、この世の礎が創造される以前の永遠の中に既に屠られた同じ贖い、子羊の血を信仰により受け取るだけ。
同じ福音が、エデンの園の最初から記されて、教えられているのです。読む人、その個人が理解しているのか、していないのか、その
違いがあるだけで、神が伝える真実は永遠であり、神の言葉は永遠から永遠に同じなのです。
クリスチャンは、古い神の記念日は呪いの律法なので、祝うものではないと、その神の創造された祭りの意味さえ、聖書に記されているのに知らないのです。イエシュアが過越の祭りを祝うたびに、皆で過越の晩餐でする儀式を通してイエシュアがされた業を思い出して、祝ってと言われた、そのイエシュアの遺言の意味さえ、全く理解していないと思います。
使徒20:7で、パウロ達が人々集まって夜中まで語り合った箇所で、
パンをさくために集まったというのを、キリスト教〜カトリックが
作った聖餐式を考えて、想像しているでしょう?
だから、聖餐式〜日曜礼拝〜安息日は日曜礼拝だ!という、連想ゲームで空想をしているのですが、それは聖書の事実とは全く違います。
聖餐式というものは聖書にはありません!過越の晩餐の中でやる
「種無しパンの儀式と、4つの杯」出エジプト6:6−7に基づく儀式を、カトリックが、種ありパンと葡萄酒、それを日曜日にやるという事に変えたのです。オリジナルとは違うのです。変えた!
聖餐式という名は、異邦人がつけた名であり、本物、オリジナルは、「過越の祭りの晩餐」の中でされる儀式なのです。それをクリスチャンは聖書に書かれていても、読みすごすだけで、知らないと思います。そして、パンとは、種ありパンではありません!それが大きな
違いです。
種無しパン、マッツアとは、1コリント5:6-8、11:23-25、この
箇所は、パウロが過越の祭りの意味、新しくされた人〜罪がそぎ落とされた人は、種無しパン=マッツアで表されているのです。そして、
イエシュアが過越の祭りを祝うたびこれをして、イエシュアの業を
思い出してと言っているのに、クリスチャンは過越の祭りは祝わないで、種ありパンと、ワイン、ジュースで、日曜日に毎週(カトリック)月1の日曜日に(プロテスタント)やっています。
日本ではお正月で、お屠蘇を飲む儀式があるけれど、それは毎週やりませんよね。それと同じ事なのです。オリジナルではない事を、やっている。やる時ではない時にやる。
パンを割くとは、今でも食事、晩餐、シャバットで集まれば、種ありパンを割くのです。でもそれは聖餐式などではありません。
シャバットでは、2日分のパンを表すハーラーのパンを焼いてそれを
食卓で皆でさいて食べる儀式をするのですが、これはユダヤ人の世界にある慣わし〜パウロ達がやっていた事が分からなければ、自分たちの宗教、西洋宗教の聖餐式、イコール日曜礼拝と勘違いする良い例なのです。
ヘブライ、聖書の世界は、ローマ化けした宗教の教えは、1つも教えらていません。
8日目に男の子に施すアヴラハムの契約の割礼を、男女幼児洗礼式にカトリックが変えたのと同じです。
宗教は、聖書のオリジナルの意味、言葉、儀式、記念日を、人間が
作った宗教の儀式と、すり替えてしまっているのです。
前に書きましたが、この使徒20:6には、「日」という言葉はギリシャ語にはありません!過越の祭りから始まる、次の祭のシャヴートまでの7週間、小麦=初穂の穂を数える7週の最初、週の最初と考えるのが妥当だと思います。
この箇所、たとえもしこれが日曜日だとしても、それは、聖書では、土曜日の夕方の事なのです。
シャバットが終わった後、シャバットが始まる金曜日の日没と同じく、家族や仲間が集まってシャバットを閉じる儀式をするのです。
今でも、それをしているのです。
そして、トロアスは、イスラエルではありませんから、土曜日に働いている人がいたのです。その働いていた人達が、パウロが次の日に
旅立つので、そのお別れで来て集まった、だからユテコという若者が三階から落ちて、それで生き返ったとあります。
労働の後夜は疲れて、窓際に座りうとうとしてしまったのでしょう。
キリスト教、カトリック教の礼拝式や、聖餐式を空想して、聖書の世界、ヘブライの世界を考えているから、聖書に書かれた事実とずれてしまうのです。ユダヤ人の世界の、「パンをさく」とは、カトリックでやる聖餐式のことではありません。
パウロが使っていた言語、慣用句を、現代のキリスト教という西洋宗教の神学、思想や、慣わし教えや伝統儀式や記念日に置き換えて読んでいるので、パウロが語っている内容を、完全に逸脱し、パウロが
語っていない聖書解説だけが施され、教え続けられているのです。
しかも、コンテキスト〜内容から逸脱した、違反的読み方を施しています。聖書解釈は、聖書でしなくてはならないのに、クリスチャンの教師は、聖書を、人間が作った神の言葉を否定した思想、神学で
読み解いて、神の言葉を曲げた聖書とはズレた教えを解説しているのに、全くその誤り、間違いに気がついていないのです。
⑴律法は、厳しい呪いの掟であり、神が人に生きることができない
律法を与えたのだ、⑵キリストが律法を十字架につけたので、古い律法は終わったのだ ⑶律法の下ではなく、今は恵の下にいるのだ、
⑷ユダヤ人だけは引き続き律法の下に生きて、クリスチャンはキリストの律法、愛を生きるのだ
⑸信じたらユダヤ的なこと(古い教え)を一切やめよ
これら、全て聖書とは真逆な、2世紀以降、西洋教父や、ローマ帝国が作り出した宗教の教え、スローガンを、神の言葉であると勘違いして、語り続けられているのです。
その根拠は、使徒行伝や、パウロの書簡に書いてあることを根拠に
神の教えが昇天以降、変更された!ということを、主張していますが
それらは、100%勘違い、誤解、間違った聖書の読み込みと、
人の編み出した神学〜モーセの五書は廃れたという教えのせいでパウロが書いた書簡の内容を完全逸脱して曲げて解釈しているのです。
聖書の記述に対して、聖書の事実に基づかない、こじつけの解説ばかりが、されてしまっているのです。
日曜日が、昇天した日だから、日曜礼拝が新訳時代の安息日に変更になったのだと、聖書に何の根拠、記述もないのにそう言うのも、
その代表例ですが、イエシュアがいつ昇天しようとも、安息日は、
永遠に第7日目であり、変わらないのです。
クリスチャンはカトリックが、安息日を、第7日目から、日曜日に変えたという永遠の事実をまず知っておかないとなりません。カトリックの質疑応答の書にも、はっきりその事実が記されているのです。神は今も今日も、神の創造された記念日の暦、意味〜レビ記23章を変えていません!「永遠に祝われるわたしの記念日」と何度も人に教えているでしょう。
カトリックの信仰会議の数々は、全て異邦人だけで行われて、聖書ではない色々な教えを作り、その取り決めが作られましたが、それは
聖書とは関係のない教え満載です。
詰まり、聖書、神の教えではなく人間が決めた事が、使徒信条になっているものなのです。
だから、「安息日を聖なるものとせよ」という神の言葉を、退け、
踏みにじり、安息日に働け!と紀元364年のラオデキヤ会議で決めたのです。
プロテスタントの宗教改革の後、プロテスタントは、カトリックが
変えた日曜礼拝を、元通りの事実、神の言葉、聖書の通りに第7日目にしようとした人達がいたのですが、それが実現しなかったことを、
知っていますか?
神に対する冒涜、人間が神の座に座り、神の言葉を自由自在に勝手に変え続けているから、今やもう何が神の伝える罪なのかも分からなくなっているのです。きよいものと、きよくないもの、聖別を教えなければならない教師が、聖別が何かも分からないまま、聖書を解説しているのです。
聖書に照らし合わせると、それらの解説が全て聖書とは真逆な解説であり、神が伝えた永遠普遍であるという事実、神ご自身の性質、
神の言葉も永遠に変わらないという、その1つの永遠の証拠である
神の言葉に照らし合わせても、上記の異邦人思想は聖書ではないことは、明らかなのです。
パウロの書簡の間違いの読み込みが、神の教えが変化したと、信じ込んでいる一番の原因であり、その根は、人間の思想〜モーセの五書に記されたユダヤ色の教え一切を生きる事、祝う事を禁じるとした、
ローマ帝国の勅令に基づいているからです。
パウロのローマ人への手紙の内容も、多大に誤解されているものです。
神の言葉は、変わらない、変化しない。イエシュアもパウロも、神の言葉を終了などさせていない!という事実に、完全盲目になっているのは、人の編み出した神学、思想という覆いをかけられて、それが
神の言葉だと完全に勘違いしているからです。このように集団で、
1700年以上、異邦人の世界では、神の言葉が終了したという
聖書に記されてもいない、神の言葉とは真逆の嘘を土台に、様々に
聖書とは関係のない教えを編み出し続けているのです。
異常な状態とは、正常が何か分からないと、異常だという事にも
気がつけません。神の言葉を、正しく知る事をすれば、聖書とは異なる思想は、見えてきて分かります。そんなに難しい事が、最初から
分らなくても、神の言葉が廃れた、終了、人種、時代により別物の
神の言葉や教えという、そういう人間が主張する教えは、聖書ではない!という事を、神の言葉に立てば、それらの嘘は排除できます。
そして、神の言葉の事実だけに立って、聖書には本当は何が書かれているのか?という事を知っていけば良いのです。人間の創作の教えではなく、神が直接伝えている神が教えようとしている、神の言葉、教えを知る必要があるのです。エデンの園のあの蛇は、神の言葉を錯乱させれば、人間を破壊できる事を知っていました。神のデザインに
反する生き方をさせれば人を破壊できるからです。
事実、その通りのことが起きたでしょう。
それがずっと続いている事に、気がつけば良いのです。
赤ずきんちゃんのオオカミはお母さんではありません!本当の親では
ない、その声を聞き分けるのは、聖書!神の言葉に戻り、人の教え
神の言葉をどの箇所でも否定する人の教えは、蛇の声、それが出どころである事を知ってください。
今や牧師が、神の言葉の方を疑え!LTBTQ擁護する!と堂々と人に教え、主張しています。それは、ローマやコリントのパウロの書いた
内容を読んでも、どれほど悍ましい行為、生き方か、パウロは、
レビ記、申命記、モーセの五書に書かれた人間の生き方を話しているのです。
もしクリスチャンが言うように、神の教え=トラーが廃れた!というならば、これは、罪の定義が全て廃止され、無法地帯となった!
個人で、罪の定義を考えれば良い。それなので、罪を定義する基準が消えたため、誰も罪を犯さない、それなので、イエシュアの贖い、
救いも無用になりました!と言っている大矛盾にも、気が付いていないのです。
全部、聖書とは辻褄合わない、矛盾、イロジカル、非理論的な支離滅裂、意味不明な事を主張しているのに、全く気が付いていないのです。
盲目とは、人を真実を見る事から遠ざけ、偽もの、嘘を信じさせる事ができます。進化論と同じ、神の性質、神の言葉の進化論、それが
人間が編み出した宗教の教え、神学、思想なのです。
多大の誤解されている、パウロの書簡の内容、ローマ人への手紙を見て行きたいと思います。
続く