使徒 9:4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
9:5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
イエシュア、メシアに語りかけられて、パウロは気が付くのです。
サウロ=ヘブライ語読みの名です。シャウール。パウロ=ギリシャ語名、パウロはローマ市民でもあります。ポロスがギリシャ語名です。
ある有名伝道師が、サウロがパウロになって、ユダヤ教からキリスト教に改心し、古い教えが、新しい教えになったなどと、聖書ではない意味不明な創作解説をしていますが、パウロの呼び名が違うのは、
ヘブライ語読みと、ギリシャ語読みでは違うだけです。両方の呼び名をパウロは使っていたのです。ユダヤ人には、シャウール、ギリシャ語の人には、ポロスです。
メアリー、マリア。リヒャルト、リカード、リチャード。同じ名でも、言語で読み方が違うのです。
聖書には、ユダヤ教、キリスト教など書いてありません。聖書には、4世紀以降人が作った、モーセの五書を否定した宗教、ローマ教の
教えは書かれていません。
イエシュアがタナックに記されたメシアであると、パウロは目が開かれるのですが、肉の目が閉じられたことが書かれています。
これは、ユダヤ人にイエシュアが現れるのと全く同じ現象です。
言葉=神=イエシュアです。ある異邦人達が、聖書を一緒に読んでいて、シャバットがずっと繰り返し記されているのを読んだ時、一人が
気がついた、イエシュアが語りかけたからです。シャバットは永遠普遍です!と。そして、そのグループに居た人全員、その事実に目が
開かれ気がつき、神の言葉、教えが普遍だという事実に同時に目が
開かれたことがあることを聞きました。
聖霊=神の言葉、聖霊が神の言葉の事実に目を開かれるからです。
ある宣教師は、キリスト教を伝えていたのですが、ある時神の言葉
トラーは、永遠に変わらない、創世記〜黙示録まで同じであることに
目が開かれて、それからは、聖書を学び直し、キリスト教が教える、神の言葉が変化したという聖書ではない教えを全部一掃して、神の言葉が1つであり変化しないということを、自分がイエシュアに導いた現地の人々に、正しい神の言葉、教えを語り直したそうです。
そのようなことが始まり、それがやがて大きなことに繋がって行ったことを知りました。神は、盲目の目を開かれます。嘘から真実に人を気が付かせることをするのです。それは、聖書を読んで、神の言葉の通りに神の言葉を曲げない。
詳しい意味が深く分からなくても、神の言葉は、神が伝える通り永遠普遍であるというその事実から絶対にずれないで、神の言葉を読み続ければ良いのです。
そうすると、世間一般のクリスチャンの世界で語られる、神の言葉が変化したという箇所、主にそれはパウロの書簡の中に書かれている
内容ですが、その臭い箇所の解説、読み違いがあるということに気がつけます。なぜなら、神の言葉は永遠普遍、変化しない、神も変化しないという事実と、変化するという解説が、ずれていることが分かるからです。
書かれている内容、意味がはっきり分からなくても、パウロが正しているのは、モーセの五書=神の教えではなく、人が神の言葉を間違った理解をしていること。
主に、1)改宗儀式により異邦人は救われる、改宗儀式で神の前に
義とされる。それが1世紀当時のユダヤ人の間にあった、人間が作った戒めの律法だったのです。その改修儀式を、「割礼」と呼んでいたので、それで、アヴラハムの割礼、トラーに記された教えが廃れたと
とんでもない勘違いをしているのです。
2)改宗儀式の他にグノーシス主義、禁欲主義、神秘主義、スピリチュアル交信、天体信仰などなど、偽の教えが蔓延していた、それを
パウロが正しているのです。
3)そして、当時の人の中で、ローマ14:5などでは、断食をする人がいたからです。でもそれは神の教えではありません。だから、
そのような人間の教えをいつ、どうやろうと、人がとやかく言う必要がないというのが、パウロの意見なのです。
だから、パウロの考えを述べていて、彼の意見としてと提案しているのです。
神の言葉をパウロが勝手に否定したり、作り替えたりしません。
神の教えではないこと、他人には意味ないことを、ある人がやっていても、それをとやかく他人が言ってもしょうがない。
そのうち神の教えに気がつけば、意味ないことはやめるからです。
簡単に言うと、ある人は1日何キロ走るとか、何々ダイエットを
いつの日にしているとか、週のある日は、プチ断食するとか、あるでしょう。そんなのは、その人が考えでやれば良いことで、他人が
とやかく口出しすることではないでしょう。その人の考えることで
やれば良い。いざこざが起きて、関係が壊れるのはバカバカしいからです。それを、パウロが話しているのです。
ローマ14章は、ある日とは、当時断食をする人がいて、その日は
月木が良いと考える人もいれば、日曜水曜が良いと考える人がいたのですが、そんなのは、神の命令、仰せ、教えでもない。
この箇所は、記念日、レビ記23章の日の話をしているのでもない。
普段の日のその人の食生活やダイエット、断食だから、どの日を尊重しても、それは、その人の意見で決めれば良いことだからです。
神の記念日は人間が決めることではありません!神が指定している
聖日〜呼び出し日がある、それを完全に無視しているのが、人間が
編み出した宗教の教え、記念日なのです。
神のもの、神の教えではないものに、一生懸命にさせられることを
教えられ、本物の神の言葉の意味が通じてない。神は今は自由にいつでも、シャバットにして良いなどと、そんないい加減なことを人に伝えてなどいません。
死に匹敵するほど、神の記念日は大事!と言われた指定日〜アポイントメントの日、人間にはそれがどうしてその日が重要なのか、分からない、理解しない人は理解できてないだけなのです。理解できてないこと、それが問題であり、神は神の伝えた聖別された日を変えてなどいません!
分からなくても、少なくとも、神の言葉を塗り替えることが、罪
冒涜であることに、神の言葉〜聖書から気がつかないとなりません。
そして、パウロは人間の意見で、シャバットはいつでも良い、きよくない動物を、その人が選んで食べて良いのだなどという、罪を犯すことを人に教え、そのような冒涜を神対して言うわけがありません。
なぜ?そう言えるのか?パウロ自身が、証明し、パウロがモーセの
五書を否定せず、100%完全にガードし、生きて、実践し、
人にモーセの五書を教えているその証拠を残しているからです。
使徒21:20 一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんなトラーに熱心な人たちである。
<聖書に記されている、聖書、神の教えとは、モーセの五書=トラーのみなのです。その他の書、ヨシュア〜黙示録は、全てモーセの五書を解説している書なのです。ギリシャ語のノモスを、律法と訳して、
神の言葉、律法、律法と言っていますが、神の言葉、教えをさして
律法という言葉は、ヘブライ語には書かれていません!
トラーは、神の教え、インストラクションという意味であり、
律法ではありません。1世紀の人たちは、皆モーセの五書の教えに
熱心に学び、モーセの五書に記された神の教え通りに生きていたことが書いてあっても、クリスチャンの耳には、西洋宗教が教える、
律法は廃れて別の教えを生きている!と完全に誤解しているでしょう。聖書に登場する人で、神の教えを捨てて、人間の作った宗教、
ローマ教の教えを生きている人のことなどは、記されていません。
聖書には、日曜礼拝も、過越の祭りの晩餐の儀式を変えた聖餐式も、
幼児洗礼も、クリスマスも、イースターも、レントも、人間が聖なる父と呼ばれることなども、書かれていません。
1つ1つ、嘘、誤解、偽情報を、聖書に記された正しい情報、解釈に変換してください。>
この箇所何度も書いていますが、クリスチャンにぜひ事実を読み取ってほしい箇所です。パウロは、モーセの五書とは違う教えをしている
と嫌疑をかけられたのです。ステパノ、イエシュアと同じく、トラーとは違う教えをしている!と疑われて、それが大きな噂になっていたのです。
どうしてだと思いますか?1つは、メシアを信じたということで、
イエシュアがメシアであると、タナックに記された事実を知らない
人が違うメシアを伝えていると思われたことと、そして、当時の
ユダヤ人の間にあった伝統の教え、口伝律法、戒めの律法、先祖の
言い伝えと言われる、ユダヤ人が、モーセの五書とは別に、文字で記されていない神からの解説があったという解釈が施された教えが
あったのです。それらは、神の言葉をどう生きるか?ということに
関してでしたが、神の教えでもないことに、変えられてしまったものが多くあるのです。何度も書いていますが、その一つが「手洗いの
儀式」であり、シャバットに人を癒すなとか、空腹でも、畑に入り
穂を拾うなという様々な規定です。そして、異邦人には、彼らの編み出した厳しい改宗儀式をしないと、神の国の一員になれないとか
それ以上に、彼らの教えで、改宗儀式をしたら、異邦人の世界と
一切関わるなというような、教えまでもあったのです。
そうすると今で言えば、親戚と交流できない、異教徒の結婚式や
葬式にも出られないとか、宴会にも出られない、様々なルールがあったのです。だから、自分たちでさえ、家族や親族と縁を切れなどという、負えないくびきを負わせたことが書かれているのです。
パウロは、アヴラハムの割礼を禁じてなどいません。
異邦人が改宗儀式をすること、それを、「割礼」という名で呼んでいたのです。そこをはっきり理解してください。
割礼は永遠普遍であり、信仰義認が継承される「印」でもあるのです。しかも、体にも理に適うものなのです。アメリカ人は、儀式ではなく、子供が生まれたら病院で普通に割礼を受けるのです。
それは、ユダヤ人からトラーを教えられた痕跡でもあるのです。
でも、日本人には馴染みがないでしょう。
聖書で言っているのは、割礼が人を贖い、救うのではないということ。しかも、割礼は親の意思で授けているという点があるのです。
でも、一方アヴラハムは、大人になって神から契約が与えられて
割礼を受けているのです。そして、アヴラハムと共に住まう異邦人も受けているのです。これは、別のトピックなので、今は省きます。
とにかく、割礼~無効、やってはならないと言っていた、伝道師がいましたが、聖書を理解していないということは、見えます。
意味が分かってないのです。パウロが禁じた割礼とは、義とされるため、改宗儀式をしても無意味!と話しているのです、
クリスチャンで言えば、洗礼をすれば、救われるというのと同じことです。
順序が逆!、信じた、義とされた、救われた、聖霊を受けた!だから
洗礼を受けるのであり、割礼は、それを肉につけていても、新しくされた実態を生きてないなら、無意味!とパウロが言っているのです。
21:21 ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは
異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。
パウロが、モーセの五書に記された神の永遠の教えを否定していると
嫌疑をかけられ、割礼を禁じている、モーセ、トラーに背くことを
教えているとここに書いてあります。
その結果、提案されたのです。
21:22 どうしたらよいか。あなたがここにきていることは、彼らも
きっと聞き込むに違いない。
21:23 ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。
わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。
21:24 この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたはトラー=モーセの五書を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。
<はっきり書いてあるでしょう。トラーに根付いて、トラーに反しているという疑いを晴らすことをする。パウロが、トラー=モーセの
五書に違反した生き方や教えなどしていない!ということを証明するために、神殿で清めの儀式を行った事実が書かれているのです。
そして次の章を読むと、トラーを破って生きている異邦人も、
同じようにきよめの儀式を行ったのでしょう。>
続く