使徒21:25 異邦人で信者になった人たちには、すでに手紙で、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、慎むようにとの決議が、わたしたちから知らせてある」。
<この箇所は、使徒15:29のパリサイ派の長老であるイエシュア信者達の提案でした。何が書かれていますか?この箇所何度も書いていますが、クリスチャンには全く意味が通じていない箇所です。
つまり、イエシュアを信じた後も異邦人は、トラー=モーセの五書
神の教えを知らないままでした。その結果、偶像に備えたけがれた
動物、豚〜きよくない動物、そしてその血を飲み、そして、しめ殺す
儀式〜これ悪魔教と同じ儀式ですが、その儀式をすること、そして、神殿娼婦と交わり多産を願う儀式をしていたのです。
クリスチャンは、神殿娼婦と交わる不品行は理解する、異教の神殿の
祭壇に捧げ物をするのは、偶像礼拝と理解すると思いますが、
けがれた動物を食すること、その血を飲むのは、神が伝える罪であると聖書に記されているのを知らない、理解していない、今は関係ない教えと思っているのですが、使徒15章は、イエシュア昇天後です。
聖書に書かれている教えは、100%モーセの五書であり、その中に記された罪の定義を、彼らは知って話しているのに、クリスチャンには通じていません。今はなんでも食べて良いと勘違いしているから、
ここに書かれている意味が通じてないのです。しかも、異邦人は
この4つの神の教えだけ守れば、後はなんでもして良いと教える人も
いますが、この4つの中で、2つは完全にクリスチャンは違反しているでしょう。
このような箇所は、何が書いてあり、何を意味しているのか、読んでも全く理解していないのです。
そういう聖書の読み方をしていることに、気がつかないとならないのです。
だから、異教徒と同じ生活をしても、それが神の前に汚れ、聖別を
犯す罪とも理解していないのです。
21:26 そこでパウロは、その次の日に四人の者を連れて、彼らと共にきよめを受けてから宮にはいった。そしてきよめの期間が終って、
ひとりびとりのために供え物をささげる時を報告しておいた。
<パウロは、自分自身が、モーセの五書を違反していないことを、
公に証明しているのです。それなのに、パウロがモーセの五書に
違反する、終了した教え、割礼を禁じて、汚れた動物を食し
シャバットは、今はいつでも良いという、パウロが言ってもいない
無理な聖書解釈を施し続けていることに、気がついてください。
矛盾だらけでしょう。パウロは、100%モーセの五書に忠実に
生きていると言っているのに、クリスチャンは、パウロはモーセの
五書は廃れた、人間の意見で違反しても良いなどという解説をしているのに、聖書とはズレたその解説に何の矛盾を感じないのは、
人の思想で嘘をサポートしているからです。
しかも、神のメッセンジャーとして、トラーを異邦人に教える役割を与えられた人が、トラー=神の教えを破れなどと教えますか?
変な思想です。それが、人間の作った宗教の思想なのです。
しかも、イエシュアも神の教えを終わらせたなどというのです。
完全に聖書とは異なる人間の作った宗教の思想そのものなのです。
人間の作った宗教の教えをする人だけが、神の言葉に違反する思想を
述べているだけなのですが、それが大衆で、2000年近くも異邦人の間で浸透しているから、偽情報回収が大変なのです。
欠陥商品、偽の教えはリコールが必要なのですが、それは自分で
しなくてはならないのです。世間の聖書教師が、デイスペンセーション神学からだけ聖書を伝えているから、それが聖書ではないのに、
神の言葉終わりありき思想が、語られている。それを自分の頭脳から排除できるのは、自分だけであり、神の言葉だけに戻れば良いのです。人に頼っていてはダメであり、神の言葉に戻ることは、自分で
できるのです。中世と違い、自分の手元に聖書があるのです。
使徒21章の、100%モーセの五書に忠実に生きて、教えて、
実践しているという神殿での証明があるのです!そして、議会でも
パウロは、パリサイの子、ヘブライのヘブライと宣言し、100%
モーセの五書に忠実だ!と言っているのに、クリスチャンにはその
事実が読み取れていないのです。パウロがカメレオンで、その場限り
その人によりけれ、パウロは適当に嘘を言うなどと、信じているのでしょう。
パウロが異邦人と食事すれば、豚やエビを食べ、ユダヤ人と食事する場合には、きよい動物だけ食したと想像しているでしょう?
異邦人とは日曜礼拝をし、ユダヤ人とはシャバットを第7日目にする?もう完全に作りもの、空想ファンタジーの世界を語っています。
そんな、聖書に書いてもないことを、空想しているから、聖書に何が書いてあるのか、正しく教えていない、理解できないまま、分からないままでいるから、神の言葉を否定する冒涜を平気で言い続けられることが出来てしまっているのです。
使徒23:6 パウロは、議員の一部がサドカイ人であり、一部は
パリサイ人であるのを見て、議会の中で声を高めて言った、
「兄弟たちよ、わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子である。わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けて
いるのである」。
パリサイ人であり、パリサイの子とパウロが言っている意味は、
100%モーセの五書に忠実に生きています!という宣言であり
これを聞いた人は、パウロが言ったこの言葉の意味をはっきり理解しているのですが、現代のクリスチャンには、全く通じない言葉なのです。
神殿でのナジル人の請願の儀式で、100%モーセの五書に忠実に
生きている、議会でも、パウロは同じ宣言をしているのに、どうして
パウロが、モーセの五書を捨てて、別の教えをしているという誤解をしているのか?パウロが書いた書簡の意味を、理解していない人が
勝手な解釈を施し続けて、パウロが言っている意味とは全く別な解説を施し続けているせいなのです。
そういう非聖書的解説の1つ1つを全部一掃して、神の言葉が永遠普遍である事実を、はっきり突き止め続ける必要があるのです。
偽の聖書解説とは訣別、さようならをしないとなりません。
2ペテロ3:2 それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである。
<ペテロが解説しているのは、預言者〜トラー、預言書です。
イエシュアが教えられたのは、モーセの五書だからです。
その神の言葉、戒めを思い出せるためとあるのに、クリスチャンの
世界の教えは、そのモーセの五書=神の教え=父の教え、イエシュアが教えられた教えを捨てよ!廃れた!律法に戻るのか、恵を捨てる
生き方だという、非聖書的人の思想を唱えているのです。>
3:16 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。
人間の作った宗教の神学の思想に熟知して、神の教えを知らない
無学〜心とは頭脳であり、何を信じて考えているのか、神の言葉ではない人間の教えを信じて、頭脳が正しく定まらない人への警告なのです。それが今も浸透している人間の教えであり、その果ては、神の創造のデザインに反する生き方を奨励する、LGBTQを教師、牧師が賛同している。
この罪の根は、神の言葉を曲げる、エデンの園の蛇の声と同じであり、神の言葉のどの箇所も、人間が否定する行為をしているから、
果ては普通の人でも理解できる、人の道から外れた生き方OKという
思想を牧師、教師が平気で語り、神の言葉方を疑え!という蛇の声そのものを主張しているのです。
神の言葉のどの箇所、一点一画も人間が手を加えるな!それは、DNAを破壊する行為だからです。
偽教師の偽の教え、非聖書的教えは、自分の中から排除できるのです。
教師の言うことを、信仰の土台としてはならないのです。
聖書に戻り、自分で確認しないとなりません。
そして、どんな人も、神の言葉のどの箇所でも否定するなら、その教えは、神の教えからずれている!と、神の言葉から理解すれば良いのです。巷には、偽情報が蔓延し、純粋に神を愛していると思いながら
人として良い人として生きながら、同時に神の言葉に反する生き方を
信じて生きれるものなのです。