ステパノはモーセの五書 預言書を実行して生きない人へ警告している | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イエシュアの完了の業は、永遠の中に既に完結していて、その贖い、救いはどの時代のどの人にも同じであり、神は永遠の中から選び出された人たちに対して、差別ない、それぞれに分かるようにアプローチして、近づいてきてくださるのです。

イエシュアは永遠の中に存在し、神は分裂の神ではなく一体。

神をどの名で呼ぼうとも、神は1つ〜エハッド、1つ以上で全く一つの神なのです。

 

コヘレト3:15今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。

神は追いやられたものを尋ね求められる。

 

エペソ1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、

1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

 

福音とは、神のもとに修復されること、元の状態に戻る事です。

その唯一の方法は、イエシュアの贖いの血の代価により、神のもとに戻る。そして、神が創造された本来の姿〜イエシュアの性質通りを

生きれるようになったのです。

救われる手段は、人の手柄、行い、努力は得られません。

これは、メシアを知らない人に伝えるべき内容です。

この点を、クリスチャンは完全に誤解しているのです。律法主義と

語られている言葉は、その言葉自体聖書にはありません。でもその

意味する所は、自分の行いで神の義を得ようとする事であり、神の

教えを生きることが律法主義などと聖書には書かれていません。

神が人に、神の教えに生きることからズレるな!と教えているでしょう。聖書の最初から最後まで、同じ警告です。

そして、救われた人も、神に対するアプローチする方法がずれれば、

神の言われた通りでなければ、神とズレた関係になります。

異教の神々〜上から睨んでいる、常に点検している神を空想しているのです。神に対してズレた意識で関わりることです。

一生懸命何かをして神を喜ばせなければならない意識、自分の一番

大事なものを神に捧げて犠牲にしなくてはならないと、教えられているでしょう。これって異教の神に自分の子供の命を屠って捧げたことと同じ意識なのです。

神が人に必要な全てを与えて下さったのに、神に対して、人が犠牲を払わなくてはならないという意識、異教の神々を礼拝する意識で、神と関わらないで!と、イスラエルの神は人に伝えているのです。

人は、神が造られたデザイン通り、意図通りを生きること!それが、神の前の礼拝であり、神のみ旨なのです。

何時間祈らなければ十分ではない、常に祈るという意味が伝わっていないのです。

祈る〜神の言葉に照らし合わせて、神の意図、考えとぴったり1つに

なって留まる続ける事が祈りなのです。それが、祈りのヘブライ語の意味です。神の考えにぴったり一致し、考え、意識を照らし合わせる。

神が一方的に与えた譲渡、贈り物、イエシュアの贖いの血を通して

神のもとに戻り、新しくされ、内側に神が共に住まわれる、私達も

神の中、天の御座の中に今存在していると、教えられています。

そして、新しくされた人、イエシュアの命を内側に受けた人は、

イエシュアの性質通りを生きる。それがモーセの五書に記された

イエシュアの性質通り!神の教えを生きるということを、理解しないと、始まらないのです。内側に住まわれるイエシュアは、神の言葉

父の教えに反した生き方を教えない、神の教えに反する生き方は、

聖霊=神=イエシュアに反する性質を生きることである!という事実を、聖書から正しく捉えて下さい。

犬が犬だから吠える。鳥だから飛ぶ。当たり前でしょう。それと同じなのです。新しくされた人は、イエシュアの性質通りを生きる。それを、西洋宗教の教えは、新しくされた人は、モーセの五書に記された神の教えとは別の教えを生きる!神の教えに反した罪を今は犯して良いと教えています。聖書に書いてもいない教えを教えているのです。

神の言葉に違反する行為を教えているのに、それが恵、正義だと

完全に勘違いしているのです。なぜ?聖書に書かれてもいない、人の思想を、新しい神の教えなどと、教えられ続けているから、聖書に書いてある事が読み取れないのです。他の書に書かれている事は、その通りに読むのに、聖書に書いてある事は、人間の思想で塗り替えている。目の前に書いてあっても、その通りに読まない。それは、人の

思想で、神の教えを、人間の教えに変換して読んでいるからです。

そして、聖書、神の言葉に対して、自由自在の勝手な解釈を施しているのです。

聖書に登場する人達は、100%モーセの五書を土台として考え、

語り、教え、生きているのです。聖書のどこにも、モーセの五書とは違う教えや、モーセの五書を否定したり、捨てよ!破棄せよ!などということは記されていません。神の言葉が昇天以降、終了、変更

別物の新しい教えが出現したという勘違いした聖書の読み込みは、

やめないとならないのです。それに気がつかない場合には、何を

言っても通じないと、イエシュアがラザロのたとえ話で言った通りになるのです。今モーセ=トラーを信じないならば、 何を言っても

無駄!通じません!とイエシュアが言ったのです。

 
ルカ16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』
これが、宗教の教えが浸透した人の間で、起きた、起きている、今も
同じように、神の言葉を退けて、人の教えに固執している事が続けられているのです。神の言葉、教えの永遠普遍である真実に気がつかないからです。

そのような読み方を続けている限り、神が伝えている真理の全貌は

見えてこないまま、人の思想で、神の言葉を曲げて、別物の教えを

信じる、異教の神々の教えを崇拝するようなことをしてしまうのです。

使徒7:24 ところが、そのひとりがいじめられているのを見て、これをかばい、虐待されているその人のために、相手のエジプト人を撃って仕返しをした。

 7:25 彼は、自分の手によって神が兄弟たちを救って下さることを、みんなが悟るものと思っていたが、実際はそれを悟らなかったのである。

7:26 翌日モーセは、彼らが争い合っているところに現れ、仲裁しようとして言った、『まて、君たちは兄弟同志ではないか。どうして互に傷つけ合っているのか』。

 7:27 すると、仲間をいじめていた者が、モーセを突き飛ばして言った、『だれが、君をわれわれの支配者や裁判人にしたのか。

7:28 君は、きのう、エジプト人を殺したように、わたしも殺そうと

思っているのか』。

7:29 モーセは、この言葉を聞いて逃げ、ミデアンの地に身を寄せ、

そこで男の子ふたりをもうけた。

<<出エジプト2:11-22>

7:30 四十年たった時、シナイ山の荒野において、御使が柴の燃える炎の中でモーセに現れた。

 7:31 彼はこの光景を見て不思議に思い、それを見きわめるために近寄ったところ、主の声が聞えてきた、

7:32 『わたしは、あなたの先祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』。モーセは恐れおののいて、もうそれを見る勇気もなくなった。

 7:33 すると、主が彼に言われた、『あなたの足から、くつを脱ぎなさい。あなたの立っているこの場所は、聖なる地である。

7:34 わたしは、エジプトにいるわたしの民が虐待されている有様を

確かに見とどけ、その苦悩のうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下ってきたのである。さあ、今あなたをエジプトにつかわそう』。

 7:35 こうして、『だれが、君を支配者や裁判人にしたのか』と言って排斥されたこのモーセを、神は、柴の中で彼に現れた御使の手に

よって、支配者、解放者として、おつかわしになったのである。

7:36 この人が、人々を導き出して、エジプトの地においても、紅海においても、また四十年のあいだ荒野においても、奇跡としるしとを

行ったのである。

7:37 この人が、イスラエル人たちに、『神はわたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟たちの中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう』と言ったモーセである。

<出エジプト3:1−22>

7:38 この人が、シナイ山で、彼に語りかけた御使や先祖たちと共に、荒野における集会にいて、生ける御言葉を授かり、それをあなたがたに伝えたのである。

<出エジプト19:3-17 20:19-20,21:1-11>

7:39 ところが、先祖たちは彼に従おうとはせず、かえって彼を退け、心の中でエジプトにあこがれて、

 7:40 『わたしたちを導いてくれる神々を造って下さい。わたしたちをエジプトの地から導いてきたあのモーセがどうなったのか、わかりませんから』とアロンに言った。

7:41 そのころ、彼らは子牛の像を造り、その偶像に供え物をささげ、自分たちの手で造ったものを祭ってうち興じていた。

<出エジプト32:1-35>

 7:42 そこで、神は顔をそむけ、彼らを天の星を拝むままに任せられた。預言者の書にこう書いてあるとおりである、『イスラエルの家よ、四十年のあいだ荒野にいた時に、いけにえと供え物とを、わたしにささげたことがあったか。

<エゼキエル14:7-10,20:25,39、アモス5:25−26、

エレミヤ19:13、詩篇81:11−12、申命記4:19、17:3

イザヤ42:23,63:10、ヨブ31:20−28、ホセア4:17、

エゼキエル8:16、イザヤ66:4、ヨシュア24:20

2列王記17−16>

7:43 あなたがたは、モロクの幕屋やロンパの星の神を、かつぎ回った。それらは、拝むために自分で造った偶像に過ぎぬ。だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう』。

<1列王記11:7>

7:44 わたしたちの先祖には、荒野にあかしの幕屋があった。それは、見たままの型にしたがって造るようにと、モーセに語ったかたのご命令どおりに造ったものである。

<出エジプト25:4 26:30>

7:45 この幕屋は、わたしたちの先祖が、ヨシュアに率いられ、神によって諸民族を彼らの前から追い払い、その所領をのり取ったときに、そこに持ち込まれ、次々に受け継がれて、ダビデの時代に及んだものである。

<ヨシュア3:6−7、11−17、18:1, 23:9,24:18>

 7:46 ダビデは、神の恵みをこうむり、そして、ヤコブの神のために宮を造営したいと願った。

7:47 けれども、じっさいにその宮を建てたのは、ソロモンであった。

<1列王記8:17−19>

7:48 しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、

 7:49 『主が仰せられる、どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。

7:50 これは皆わたしの手が造ったものではないか』。

<イザヤ66:1−4>

7:51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと

同じである。

<申命記10:18、レビ記26:41、イザヤ48:4、

63:10、エレミヤ4:4,6:10,17:23 出エジプト32:9、33:3, 5、詩篇 78:8エゼキエル2:4,44:7、9、申命記31:27、ゼカリヤ7:11−12、>

7:52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。

<2歴代誌38:16,1列王記19:10、エレミヤ2:30>

 

7:53 あなたがたは、御使たちによって伝えられたトラーを受けたのに、それを守ることをしなかった」。

 

<ステパノは、何を伝えていますか?トラー=神の教え=モーセの五書=婚姻契約を受けたのに、あなたがたはそれ=トラーを守ることをしなかったと言っているのです。使徒の記録が、トラー=モーセの

五書を破るように教える教えがあるならば、ステパノの発言はおかしな、辻褄が合わないことになります。そうではないのです。世間に

浸透しているモーセの五書が廃れた!という教えの方が、聖書とは

真逆、神の言葉に敵対する聖書ではない教えなのです。だから、聖書に書いてあることと、まるで辻褄が合わないのです。

ステパノは、モーセの五書から解説し、そしてその解説の預言書、

諸書から神の言葉を引用しているでしょう。

その意味は、聖書に書かれている人達は、西洋宗教の教えが解説するような、モーセの五書が廃れた、終わりだ!という思想など、持ち合わせてもない、そんな冒涜、神の前に死に値する罪など犯さないのです。

ここで、ステパノは、モーセの五書に反した教えをしているという

疑いをかけられて、モーセの五書から、預言書、諸書から、約束のメシアに関しての証言を彼らにしているのです。

ここに居た、メシアを信じない人達が、正しく、モーセ、預言書を

理解していないから、ステパノは創世記の最初、アヴラハムから

ずっと聖書=トラーの書かれた事実を話しているのです。

ここの議会に立ち会っている人達は、トラーに記された教えを知りながら、神の教え通りに信じていない、見えていない、生きていないと

ステパノは彼らに言ったのです。

この彼の発言は、今の人たちへの、同じ警告なのです。

今やもっとひどい教え、神の教えを敗れ!神の教えは終了だ!人間の意見で仕分けて良い、恵みの時代だ!神の言葉に戻って生きる人は

恵を捨てた律法主義だ!などという、神の言葉を正しく理解しない人達の教え、西洋人異邦人宗教の教えが蔓延してしまい、神の教え、

言葉に真っ向から反することを、言い続けていても、その罪に気が

つかない状態になっているのです。

7:54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。

 7:55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の

栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。

 7:56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立って

おいでになるのが見える」と言った。

7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、

いっせいに殺到し、

7:58 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。

7:59 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。

 7:60 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。