イエシュア、パウロ、ペテロ、ステパノ、皆、モーセの五書とは違う
教えをしている!と疑われ、1世紀当時、それはそれは大きな問題に
なってしまいました。投獄や処刑されるほどの、大問題だったことが記されているでしょう。
事実は、イエシュアや弟子達は、モーセの五書に反した別の教えなどしていませんでした。もしモーセの五書とは違う教えをするならば、それは聖書で警告された、偽の教え、偽預言者、偽教師、偽メシアであることを、知って下さい。聖書を、正しく理解すること、それには人の思想、1世紀後半から出現した、モーセの五書を生きるな!と
いうローマ帝国の勅令と、それに乗った西洋教父達の思想を信仰の
土台としていることが、本当の問題、白蟻の巣発見!そこを、駆除しない限り、LGBTQの問題だけ追求しても、本当の問題〜人間が神の
言葉を勝手に仕分けることをしている、宗教の教えを根こそぎ遮断、駆除しないとならないのです。
使徒に書かれている、モーセの五書とは違う教えをした!とされた
ペテロやヨハネ、ステパノやパウロは、100%モーセの五書から
引用して、そこに記された事実、約束のメシアに関して、証言して
いることを、正しく理解して下さい。
前回使徒4章で、ペテロが、トラー、預言書を引用し、約束のメシアがイエシュアであること、復活の命の事実を話した箇所を書きました。
ペテロ達は、モーセの五書とは違う教え、そして偽のメシアを伝えているという嫌疑をかけられていたのです。
5章では、今度はイスラエル議会に迄、使徒達のことが伝えられて
いることが、書かれています。
ここに、パウロの教授である、ガマリエル大ラビがこの議会にいて、
発言しています。このガマリエルは、パリサイ派であり、当時のユダヤ人の世界ではパリサイ派が主流だったのです。そして、多くのパリサイ派の人たちがイエシュアをメシアとして認識し、信じたのです。サドカイ派は、神殿を司る役割を主にしていた人たちであって、彼らは復活を信じないと言っていました。
当時のユダヤ人は、ほぼパリサイ派です。
だから、イエシュアの教えも、パリサイ派の流儀に則り、たとえ話を通して、モーセの五書を解説していたのです。パウロの書簡も、
エルサレム拠点のパリサイ派の教授であるパウロと、地方、近隣国に
いる人たちが、パウロに対して群れに起きている諸問題に関して、
モーセの五書の教えから、どのように実際に適用し、生きるのか?の
質疑応答の記録が、パウロの書簡なのです。これは、当時のパリサイ派の教育ツールであったのです。今で言えば、メールで医者や教師に
質問し、回答、解決策を頂くというのと同じことなのです。
さて、ここに出てくるガマリエルは、パリサイ派の国の最高幹部、
議会司法を司る役割の職についた人です。
パウロもそのような政治家になれる教育を受けていたのです。
このガマリエルは、イスラエルの国全体の人々から尊敬されていたと
あります。大多数の人に支持されている、イコール偽善者などでは
ない事実が、記されているのです。クリスチャンの世界の偏見、固定概念では、パリサイ派イコール偽善者というでしょう。本当に早合点している思想を聞かされているのです。あなたの群れで一人暴君、
独裁者がいたとしたら、その群れの全てのクリスチャンがそのような人に嫌われる人、違反した生き方をする悪い人だとはならないでしょう。聖書に登場する、イエシュアと議論していた人は、ある一部の人たちであり、神の言葉を正しく理解していない人が書かれているから、そう勘違いしているのです。
使徒5:34 ところが、国民全体に尊敬されていたトラー学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、
ペテロに関しても、おちゃらけたアホちゃうの?みたいな解説をされていますが、ペテロは12弟子の中のリーダーなのです。それは、
ペテロは神の教え=トラーを理解し、イエシュアの問いに真っ先に
答えることができる知識を持った人だったからです。
だから、イエシュアは必ず、最初にペテロに質問しているでしょう。
それが、当時の教師、弟子の関係だったからです。トップの弟子に
質問し答えさせるのです。タルミッドハハンというのです。
神の教え、トラーに精通した人をそう呼んだ、それがペテロです。
クリスチャンの中で語り継がれている教え、解説は、空想がたくさんあります。聖書ではない、自分たちの読み込み、自分たちの宗教文化を想像して、1世紀のヘブライ思想、ヘブライのトラーを生きている、全く別世界の人が語る内容を、ズレて解釈しているのです。
この全国民に尊敬されているパリサイ派のガマリエル教授、議会を
司る政治家が、人々にこう言いました。
使徒 5:35 一同にむかって言った、「イスラエルの諸君、あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい。
5:36 先ごろ、チゥダが起って、自分を何か偉い者のように言いふらしたため、彼に従った男の数が、四百人ほどもあったが、結局、彼は殺されてしまい、従った者もみな四散して、全く跡方もなくなっている。
5:37 そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった。
5:38 そこで、この際、諸君に申し上げる。
あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。
その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。
5:39 しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、
5:40 使徒たちを呼び入れて、むち打ったのち、今後イエスの名によって語ることは相成らぬと言いわたして、ゆるしてやった。
ガマリエルは、神の教えから、知恵を語っているのです。
所詮人間から出たことならば、やがて消える、なくなる。
でももし、それが神から出たことならば、それに反対することは、
神に敵対することになる!からやめよ!と理解しています。
この時点で、ガマリエルはイエシュア=約束のメシアであることは
はっきり理解していませんが、神の言葉に基づき考える人である
ガマリエルは、メシア=イエシュアを発見したことは、疑う余地は
ありません。
7章では、ステパノが神のトラーに反して語っている、タナックに
記された約束のメシアではない、人をメシアだと言っていると、疑われて、それに関して、トラー=モーセの五書から解説している件が
書かれています。
よく読めば分かります。使徒たちは、当時の人たちは、イエシュア
信者だろうが、そうではなかろうが、100%モーセの五書を信じて、生きていた!その事実に目が開かれないとなりません。
彼らの間で問題になっていたのは、イエシュアがタナックに記されたメシアであると認識できない人には、イエシュアがただの人だから
その人をメシアというのは冒涜だ!と考えていたのです。
なぜなら、多くの人は、メシア、ダビデの家系の王の王は、
イスラエルの国の復興をする人であると考えていたので、それが実現しないまま、イエシュアが処刑されてしまい、イコールイエシュアはメシアではないという早合点、神の伝えた預言を正しく理解していない人がそう考えていたのです。王の王どころか、人に蔑まれてそのような処刑をされてしまったからです。
メシアがイエシュアであるということに、目が開かれていない人の
理解なのです。
でも、イエシュアが約束のメシアであると、目が開かれた大勢の人
何百万というユダヤ人が当時イエシュアをメシアと気がついて、信じたのです。そのユダヤ人達は、タナックに書かれたメシアを、イエシュアが来られる前から知っていた、信じていた、待望していた、内側に聖霊を頂いていた人たちです。
アヴラハムと同じ、イエシュアが来られる以前から、信仰により義とされ、贖いの血で新しくされ、聖霊を受けていたのです。だから、
まだ見ぬイエシュアを未来へ遠く見て、アヴラハムはイエシュアの日を楽しみ、喜んだとイエシュアが言われたのです。
歴史線上の時系列に考えないで、同じ救い=イエシュアが、イエシュアが来られる前の人々〜残りの民〜この世の礎が造られる前から選び出された人たちに神が示したからです。
ステパノは、トラー、モーセの五書、諸書、預言書=タナック=聖書から全てを解説しています。
モーセの五書、諸書、預言書=それが聖書です。
クリスチャンは、聖書は神の完全な言葉と言いながら、その言葉を聖書から引用しながら、同時に神の言葉は廃れた!という大矛盾を信じて、考えていますが、聖書に登場する人で、西洋宗教の思想〜モーセの五書は昇天以降、廃れた、変化した、人間の意見で仕分けて良いなどという、冒涜罪を考えている人は一人もいない!という事実に、
聖書の記述に目覚めて下さい。
M.テニー氏、聖書教師が言うように、使徒行伝は神の教えが変化する過渡期の記録などではありません!聖書教師が、聖書に反する教えをしていても、それが聖書の事実などではないのです。神の言葉の進化論は語る教えは、聖書ではない!という単純な事実、永遠普遍の神の言葉は変わらないという揺るがない土台=岩の上に立ち考えて、
砂の上に家を建て続けるのをやめれば、真実が見えて来ます。
タナックを引用しながら、神の言葉のある部分を否定する、消去する
思想=神の前に死に匹敵する冒涜の罪であることを、聖書に登場して
記されている人は、誰一人として考えもつかない、異邦人西洋宗教思想なのです。
使徒 7:1 大祭司は「そのとおりか」と尋ねた。
7:2 そこで、ステパノが言った、「兄弟たち、父たちよ、お聞き下さい。わたしたちの父祖アブラハムが、カランに住む前、まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて
7:3 仰せになった、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。
7:4 そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだのち、神は彼をそこから、今あなたがたの住んでいるこの地に移住させたが、
<創世記12:1−4>
7:5 そこでは、遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、
与えられなかった。ただ、その地を所領として授けようとの約束を、彼と、そして彼にはまだ子がなかったのに、その子孫とに与えられたのである。
<創世記15:1ー21>
7:6 神はこう仰せになった、『彼の子孫は他国に身を寄せるであろう。そして、そこで四百年のあいだ、奴隷にされて虐待を受けるであろう』。
7:7 それから、さらに仰せになった、『彼らを奴隷にする国民を、わたしはさばくであろう。その後、彼らはそこからのがれ出て、この場所でわたしを礼拝するであろう』。
<創世記15:14−16>
7:8 そして、神はアブラハムに、割礼の契約をお与えになった。こうして、彼はイサクの父となり、これに八日目に割礼を施し、それから、イサクはヤコブの父となり、ヤコブは十二人の族長たちの父となった。
<創世記17:1−27>
7:9 族長たちは、ヨセフをねたんで、エジプトに売りとばした。
しかし、神は彼と共にいまして、
<創世記39:1ー2>
7:10 あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で恵みを
与え、知恵をあらわさせた。そこで、パロは彼を宰相の任につかせ、
エジプトならびに王家全体の支配に当らせた。
<創世記41:12-46, 42:6,44:18, 45:8-9 >
7:11 時に、エジプトとカナンとの全土にわたって、ききんが起り
、大きな苦難が襲ってきて、わたしたちの先祖たちは、食物が得られなくなった。
<創世記41:54−57、42:5、43:1、45:5−6、11、
47:13−15>
7:12 ヤコブは、エジプトには食糧があると聞いて、初めに先祖たちをつかわしたが、
7:13 二回目の時に、ヨセフが兄弟たちに、自分の身の上を打ち明けたので、彼の親族関係がパロに知れてきた。
<創世記42:1−24、43:2>
7:14 ヨセフは使をやって、父ヤコブと七十五人にのぼる親族一同とを招いた。
<創世記 45:9-11, 46:12,26−27>
7:15 こうして、ヤコブはエジプトに下り、彼自身も先祖たちもそこで死に、
<創世記46:3−7、49:33,出エジプト1:6、ヨシュア24:4
申命記10:5、29:5、民数記20:15>
7:16 それから彼らは、シケムに移されて、かねてアブラハムがいくらかの金を出してこの地のハモルの子らから買っておいた墓に、葬られた。
<出エジプト13:19、創世記23:16、33:9−20、34:2−31、49:26−32、35:19 50:3ヨシュア24:32>
7:17 神がアブラハムに対して立てられた約束の時期が近づくにつれ、民はふえてエジプト全土にひろがった。
<創世記15:13−16、出エジプト1:1−17、20>
7:18 やがて、ヨセフのことを知らない別な王が、エジプトに起った。
<出エジプト1:8>
7:19 この王は、わたしたちの同族に対し策略をめぐらして、先祖たちを虐待し、その幼な子らを生かしておかないように捨てさせた。
<出エジプト1:9−22>
7:20 モーセが生れたのは、ちょうどこのころのことである。彼はまれに見る美しい子であった。三か月の間は、父の家で育てられたが、
<出エジプト2:2−10>
7:21 そののち捨てられたのを、パロの娘が拾いあげて、自分の子として育てた。
<出エジプト2:2−10>
7:22 モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、言葉にもわざにも、力があった。
<1列王記4:30>
7:23 四十歳になった時、モーセは自分の兄弟であるイスラエル人たちのために尽すことを、思い立った。
<出エジプト2:11-12>