人造宗教は神の純粋な教えではない 人の思想が混じった作り物 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤでも、パウロは、アヴラハムの契約の印である割礼はもう

意味がない、無効なった、又はそれを行う人は、行いで義とされるのか?などと言っているのではなく、内側に聖霊を受けて、頭脳の割礼がないならば、外側の改宗儀式や肉の割礼=印があっても、それ自体だけでは、救われていない人の内側には何の実態もないから、無意味であると言っているのです。

クリスチャンも洗礼しても、実際には内側に、救い=イエシュアを

受けていなければ、洗礼は単なる儀式に過ぎず意味はないでしょう!

という事と同じ事を、パウロは言っているのです。

 

その人の内側に贖い、救い、新しくされた命は、何かすることで獲得できない!というのと同じことをパウロは言っているのです。

肉体の割礼は、内なる割礼が実在して、つまり割礼を受けた心の外的な印であるはずです。重要なのは、この内なる割礼が先ず最初にあることなのです。パウロの取り扱っている問題と、その論点を正しく理解してください。

クリスチャンの中には、神の教えを生きる!と聞いて、即座に、

古い律法に戻るのは、恵を捨てた生き方である!と条件反射的に

発想するのですが、本当に人の思想は障害物です。

 

1ヨハネ3:4 すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。
罪は不法である。
 
ヘブライ人には、これはどう聞こえて、理解していると思いますか?
罪〜ズレ〜トラーに記された、神が伝える罪の詳細全てです。
人のデザインを神が伝えている、それとズレる、罪です。
神の子らは神が伝える通りを聞いて生きると教えられています。
神は、人の思想ではなく、神の言葉に聞いて生きよ!と教えているのです。
罪〜神の言葉、トラーを捨てる行為は罪である!!!と言っているのです。神の言葉を捨てて生きよ!と教えられているでしょう?
そんなダイレクトな言い方ではないけれど、神の言葉は終了、破棄された、無用、異邦人には関係ない、これこそが聖書で伝える「無法」の生き方なのです。
クリスチャンの世界では、イエシュアが伝えたシャバットを祝う事
それが、神のみ旨であり、今も同じ仰せであるなんて、考えの中にも微塵にも浮かばないと思います。今はいつでも聖日という人の思想を
信じているからです。本当に聖書とは完全にずれた思想が浸透しているのです。
神の教え、神が永遠にガードして祝う!と伝えた記念日を生きる事を、蔑ろにする、破る事も、同様に罪〜ずれ、的外れ、神のデザインに反している行為です。
しかも、人には理解できない程、この神のシャバット、モアデイムは重要である事を、神が何度も伝えています。
死に匹敵する!と、警告しています。
これ、自分の理解で考えると見えないものです。
神が言われる事は、絶対です。死に匹敵する、断たれると言われたら
それほど、シャバットが重要で、重大なものである事を、神が人に
伝えていると理解しないとなりません。
それを、こわ〜い神、呪いの神などと、子供のような幼稚な思考回路で、神の言葉を理解しようとしない、目の前で神の言葉を遮断して
拒否する事をしているのです。
神の言葉を捨てる、蔑ろにして神の教えに注意を払わない人には、
神の中にある深い思想、考えが理解できないだけなのです。
でも、神の言われた事、それをやって行くうちに、神が言われた意味が、どんどん体験的に理解できるようになっているのです。
それが神の創造された記念日であり、神が伝える教えなのです。
分からないけど、神が言われた通りにやっているうちに、分かってくるのです。
みよう見真似でやって行くうちに、身につくというのと同じ事です。
 
異邦人は得に、自分に理解できない教えを、即座に律法、古い、悪いと考えるのですが、それは自分の都合を全ての思考、行動の土台と
しているからです。
神に言われる事が理解できない、いや理解しようともしないで遮断しているのです。それは神の教えに馴染みなく先祖代々別の教えに根付いて育って来ているからです。
異邦人の中で、クリスチャンで、聖書に書いてあるような、イエシュアやパウロや使徒、当時の人々が生きていたヘブライ語のトラーに
熟知し、先祖代々、トラーを教えられ、シャバットや新月、過越、
仮庵を皆で祝って成長したなんて人は誰もいないと思います。
ユダヤ人の家庭に生まれた人以外にはない体験です。
 
イエシュア信者のユダヤ人は、イエシュアと同じように、神のトラーをヘブライ語で教えられ、シャバットや記念日、祭りを生きて成長した、これは大きな違いがあるのです。
神の言葉、実践に対する理解の深さや広さが違う。
体験的に違うからです。歌舞伎の伝統芸能の家に育った人が、幼い頃からその世界、歴史、しきたり、振る舞いの様々を体験的に学び
知っていて、その世界の芸能に達者になる。
外から大人になっていきなりその世界にゼロから入っても、分からない、身に付くのが遅い、それと同じような感じです。
先祖代々馴染みがない。
クリスチャンの世界は、西洋宗教〜西洋人が作った西洋宗教の
伝統の文化、教え、記念日を生きている宗教実践です。
聖書のようで、聖書ではない教えを実践しているのです。
 
もちろんイエシュアを信じて、救われている、でも、その後の生き方が聖書とは異なる、西洋人宗教文化の教えを生きているのです。
日曜礼拝、クリスマス、イースター。そして、神の教え破棄された!今は自由に人の意見で、神の教えを仕分けて選んで良い。
だから、今はなんでも食べる!いのれば、汚れた性質の動物が変化して清くなる〜と聖書に書いてもない事を信じているのです。
パウロの書簡が、曲げられて別物の教えに解説されている、
それが全て非聖書的聖書解説の原因だからです!!!
プラス、翻訳聖書には、不適切な翻訳、用語、そして、原典聖書には
ない文章が加えられています。
その上、聖書とは異なる神の言葉ありきの思想で、聖書〜神の言葉の方を曲げた解釈、解説を施しているのですから、正しい聖書解説が
伝えられていないままなのです。ある部分は真実でも、ある部分は
聖書ではない教えを伝えられてしまっているのです。
これは、聖書に登場する人が、もし今の時代のクリスチャンが語る
教えや実践を見て直面したら、ドン引きしてしまう世界なのです。
人間が神の言葉を否定する死に匹敵する冒涜を平気で語る世界!
イエシュア信者が?
神が伝えた汚れた動物を食する事も、今現在今日も、神の前に変わらずにずれ〜神のデザインではない罪であり、神が忌み嫌うと言われたおぞましい行為であり、聖別そのものを汚す行為だからです。
聖書を読めば、書いてあるでしょう。未来にも、ネズミや豚を食らうものは、全て耐え失せる!イザヤ65:4 66:3, 17それ嘘ですか?
神は嘘を人に言うとでも信じているのでしょうか?
誰の言葉を信じますか?クリスチャンは神のいう事=聖書を信じると
宣言しているのではないのですか?
なぜなら、神の言葉は永遠に変わらない。
動物が進化して、別物になりません。
豚など100以上の病原菌、ウイルスを保有している、とても汚い
動物です。豚は汚れた動物の代表として聖書に書かれています。
聖書にも記されている通り、悪霊が豚に入り込み、そして、豚の餌を食べるほど落ちぶれた放蕩息子のたとえ話、豚に真珠と、豚で表されている意味を、異邦人は理解していないのです。しかも、神の宮で
あると言いながら、その聖なる宮に汚れた動物の代表〜これは自分たちの文化に馴染みがあり、普通の食べ物だから、取り入れて食べるのです。
使徒15章で豚を食べ、血を飲んだ異邦人と同じように、神の教え
トラーを知らないからです。でも、使徒15の異邦人らは、毎週土曜日、シャバットで会堂で、パリサイ派のイエシュア信者の長老達に
トラーを教えられて行くから、そのうち神の言葉を理解するだろうとパリサイ派の長老が提案したのとは、今違う環境なのです。
なぜなら、異邦人は、神の言葉を終了!とした、聖書ではない、
西洋人が作った人間の思想を聞き続けて、信仰生活をずっと今に至るまで、継続してきたからです。この代償は大きいのです。
神の宮の祭壇の上には豚は捧げられません。神の前に神が伝える汚れた捧げられない動物だからです。そして、神の宮である人の体も、
神が禁じた清掃動物、ゴミ、ウイルスを食して汚してはならない!
食べる事、飲む事、全てに於いて、神に栄光を表さしなさいという
意味意味が通じていないのです。なんでも食するから。
それらは、毒であり、人間の食べ物ではない!と教えているのに
今は罪は罪ではなくなりました!とクリスチャンは主張します。
ヨハネが言う、イエシュアが言われた、「不法」とは、トラーなし!
神の教えを生きない人!であり、神の教え〜モーセの五書を無視する人たちに対する警告であると、クリスチャンの目に耳に頭脳に全く
響かないのは、神の言葉ではなく、神の言葉を捨てよ!と教え
終了、破棄といっている人の思想を信じているから、神の言葉が聞こえないのです。ヨハネは、トラー=神の言葉無しを生きてやっているのは、罪!と書いているのです。
罪〜ズレ〜的外れ。そうです。神が創造されたイエシュアと同じ
性質の人の生き方とは違う事をしたら、ズレるからです。
何も犯罪だけではありません。悪とは、ヘブライ語では、神の意図
デザインとはズレているという意味であり、それがどんな事であれ
神の意図とはズレた事をすれば、ズレている、的外れ、罪なのです。
その罪が何か、神の言葉を捨てる人には、理解できないまま、勝手な
自分定義の罪の定義を作り出して、それを基準に考えている。
結局人間至上主義、人が作った宗教の教えを生きている事に気がついていないだけなのです。
ユダヤ主義者〜人間が編み出した思想を生きよと教える人達は、
改宗儀式を異邦人に強調していましたが、皮肉なことに、これは彼らの頭脳の割礼を受けていない状態を露呈していました。
強制的な割礼を含む人間の編み出した改宗儀式に従うことでは、
救いを得ようとしながら、ガラテヤ人は同時に、お互いを傷つけるような行動をとっていました (15)。
彼らは外的な印、ユダヤ人になる改宗儀式 を強調しながら、その本質を表すはずの心、頭脳の内側は、それは、神の教えを生きて、
お互いを愛することで示される事を、無視していました。
神は、割礼を受けた者たちがお互いを憎んでいる時、割礼を受けた
肉体を望みません。上辺ではなく、中身が大事!
これは、詩篇 51 篇でダビデがコルバンについて述べていることと
似ています。
詩篇51:16 あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。

51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。

神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。

 

でも、よく注意して下さい。パウロは、改宗儀式ではない、アヴラハムの割礼、契約の印は無効、無用などと1言も言いません。
それは、神が与えた永遠の印であり、神の言葉を理解する人なら、
神の意図がはっきり理解でき、それを継承し続けるからです。
 
儀式的な意味、契約の印と理解しない人でも、アメリカのように
トラーに記された教えを、普通に行います。
病院で生まれた男の赤ちゃんに皆、割礼をするからです。
肉体と、霊とは一体です。割礼の意味は深いので、別のトピックで
書かないとなりませんが、境界線が敷かれている、肉という時に
肉の生き方という場合、この割礼の絵画的言語で語っているのです。
私達の本当の姿、実態、アイデンティティは、イエシュアにより新しくされた人です。でも以前の死んだ自分の記憶がありますから、
その包皮に覆われてしまうと、肉のまま、以前のままの生き方になるとあるのです。でも、贖われた人は、本当の自分は罪人ではありません!イエシュアと共に葬られたズレ人は、修理不可能だから、永遠に葬らた!と書いてあります。
ズレた生き方の記憶を取り入れ続けない、新しい人として肉をめくって生きよ!と書いてあるのです。
そして、割礼は、親が子に授けて、知らない間につけられています。
アヴラハムは信じた後に、割礼を受け、アヴラハムの周りにいた異邦人にも同様に割礼を授けたのです。
 

創世記17:9 神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない。あなたがたのうち

17:10 男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。

17:11 あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。

それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。

17:12 あなたがたのうちの男子はみな代々、家に生れた者も、また異邦人から銀で買い取った、あなたの子孫でない者も、生れて八日目に割礼を受けなければならない。

17:13 あなたの家に生れた者も、あなたが銀で買い取った者も必ず割礼を受けなければならない。こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠の契約となるであろう

<アヴラハムが、全世界の民族の父とされたから、異邦人もアヴラハムに連なり神の民となったら、同じ教えが適用されるのです。>

 

割礼は神が、一方的に与えた譲渡契約の印です。
そして、肉体的にも、割礼がある方が、健康にも良いのです。
これは、男の子の子供を持つ母、男性ならば、誰でも分かる事です。
最初から知らない間に、割礼を授けられていたら〜と思う人は多いはずです。
だから、契約を継承していない異邦人には、不都合が多くあり、神の教えを知らないから、なんでもかんでも取り入れて、自分の肉体にも
危ないもの、汚れたもの、そして霊的にも聖別を汚す行為が何で
あると神が教えているのかも、クリスチャンでさえ知らないのです。
クリスチャンは、聖書を読みながら、神が伝えている罪の全貌を
知りません。なぜだと思いますか?神の言葉は終了したという
人間の教えを信じて、神が言われる事を聞いてないから、知らないままなのです。
神の目に何が罪で、何が聖別を汚す生き方なのか、異邦人は知らないのです。イエシュアを信じながら、知らない!不思議でしょう。
イエシュアを信じながら、イエシュアが教えていた教えを否定し、
イエシュアが祝って教えていたシャバットや過越、仮庵を知らない
教えられない、祝わない、不思議に思った方が良いです。
なぜ?そう神の言葉、罪の全貌が書かれているのに、それを勝手に
自分で仕分けているから、神の言われる事が通じていない状態であり、それでOkと考えているのですが、それは実は危ない状態なのです。蛇はたくみです。信じるものの口から、神に敵対する教えを
語らせているからです。そうして、足元で転げ回って大笑いしている。本当むかつきます!気がついたら、それをかかとで踏みつけるのです。
神はどの神の教えも、人を守る為に、与えています。それは、
神が創造された人間の生き方そのものを教えているのからです。
それを捨てたら、神が人をどう造られたのか、知る手がかりを捨てる
知恵を捨てる行為は、愚かな行為であり、自分を破壊する、他者を
破壊する、それが、関係、自然環境破壊、その他諸々全てに繋がり
不具合が起きているのです。
人間が神のいう事を無視しているからです。だから、イエシュアを信じる、愛する人が、どうして神の言葉を無視するのが、恵、正義などと思い込めるのか、人の思想の洗脳とは本当に分厚い鉄の壁と同じで
頭脳を、神の言葉、真実を聞く事から妨害する以外の何ものでも
ないのです。
 

続く