聖書を手に取って持ち上げて、聖書は完全なる神の言葉であると信じますとクリスチャンは言います。
ビリーグラハムも、同じジェスチャーをして、”But the Bible says”
としきりに言っていました。
「聖書は完全なる神の言葉」と言いながら、その後には、必ずその
宣言の上に人の思想信条が付け加わえた思想を主張します。
神の言葉のある箇所は、終了、得に異邦人には無用、今は自分の意見で神の言葉を仕分けて良い、今は自分の意見で神の言葉を生きるのか、却下するか自由に人が選べる恵を与えられた〜それらの思想が、
今はいつでも、聖日、安息日、今は神が禁じた食べ物でも、何でも
食べて良い、割礼をする人は律法主義だ〜、神の古い教えを生きる事に戻るな!と主張する、異邦人クリスチャンの思想がそれです。
神の言葉に対する敵対意識〜これは完全にサタンから来るもの以外の
何ものでもありません。なぜなら、言葉=神=聖霊=イエシュアであり、聖霊により書かれた、神の言葉を、どうして聖霊が否定する
終了するという非聖書的思想を信じられるのか?異邦人だからです。
生まれが、先祖代々異教徒、だから、イスラエルの神の言葉が何であるか、絶対という概念、意識が希薄だからです。
でも、聖書に戻れば、聖書にはそんな事など、1つも記されていません。神の言葉、神の罪の基準によれば、神のモアデイムを汚す事、
けがれた動物を食べる事、どちらも、神の目には罪、聖別を汚す行為であり、これは永遠に変わらない事実だからです。
では、それらの思想はどこから来たのか?1世紀後半以降から、出現した、異教徒背景、イエシュア、パウロ、テモテのようなヘブライ人ではない、聖書〜トラー、神の教えに馴染みの無い背景の人が、
ローマ帝国の勅令に同意し、同じように自分たちも、神の言葉を否定し、モーセの五書に記されたヘブライ的な教え〜異教徒、異文化育ちには全く馴染みの無い教え、そして、神の創造された記念日、
シャバット、新月、過越や仮庵の祭りを祝う事を禁じたからです。
イエシュアが来られて、これらの罪の規定が終わった、変えられたというのは、聖書に記されていない「全て完全なる空想話」です。
人の編み出した思想は、聖書に基づくと、本当に矛盾だらけです。
聖書の記述に反しているので、更に又その矛盾を解説する思想を
編み出し続けて、解説し続けているのです。
デイスペンセーション神学も、それ自体が聖書ではない、不具合だらけなので、ずっと訂正しているのです。根こそぎ嘘をやめて、聖書だけに戻れば良いだけの話なのです。
神の言葉=完全、永遠普遍が、歴史の途中で、不完全、変更になると主張しているでしょう。でも神は何と言いましたか?
神の言葉は永遠に廃らない、永遠に固く立つ!
固く立つとは、クウム、永遠に固く確立する!という意味なのです。
イザヤ40:8 草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。
口語訳では、変わる事はないと訳されていますが、この言葉は
クウムです。永遠に固く確立されるから、変わらないと訳しているのです。この言葉は神の口から直接語られた言葉です。
人は一体何を信じているのでしょうか?という問いがあるのです。
神が、言われた「とこしえ」とはオラーム、永遠、永久、恒久的に
封印され、変わらない!どうして、永遠に変わらないと神が人に伝えた神の言葉が途中で変わるという矛盾を信じているのですか?
それは、異邦人が作った神の言葉を否定した思想、神学が、神の言葉の上に覆い被さり定着して、神の伝える真実を、人の教えの解釈で
覆い隠しているからです。こんな単純な真理、事実、真実が見えなくなるほど、盲目状態になってしまっているのです。
それは、イエシュアが昇天された事で、より優れた教えが現れたと
勘違いしているからです。イエシュアが教えた、諭された、生きた
実態は、最初の最初から同じ、モーセの五書に記された教え=父の教え=トラー=婚姻契約であり、当時のユダヤ人の中にあった、神の
トラーに対してのズレた考えや、生き方を、イエシュアが天直送の
トラーの解説、神の性質を生きる事が、何かを実際に人の間に住んで示したのです。それが、誰も今まで体験した事のない、生き方〜愛〜契約の愛を実際にどう生きるかを、初体験したのです。
それは、イエシュア以外完全なる人の姿、第二のアダムを生きた人はそれまでいなかったからです。モーセの五書とは異なる、別物の教えを、イエシュアが人に教えたのではありません!
それでは、イエシュアは、父を代表として地上にこられた役割を
失敗している事になります。父の教えとは別物を伝えに来た?
空想話は、空想話を生み出すだけです。
1ヨハネ4:12 神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。
神は変化しない、イエシュアは昨日も今日も永遠に同じ!と言いながら、同時にどうして神は変化したという、人の教えを同時に信じられるのですか?神=イエシュアであり、わたし〜イエシュアを見たものは、父を見た!と言われたのです。父の教えとは、トラーであり、
イエシュアを見たという意味は、イエシュアが語るトラーの教え、
その実際の生き様に触れた事を言っているのです。目で見て、イエシュアの姿形顔を見て、父を知ったという意味ではないのです。
そして、神の言葉は変化したという人間の思想を信じる不思議。
本当に人の編み出した教え、神の言葉の真実を覆い隠す教えは、
妨害、障害物、危険物です。
そして人が編み出した非聖書的、反聖書的教えのせいで、聖書の最初の75%と、最後の25%には、それを信じる人の頭脳には、神の言葉が1つの事実に繋がらず、中身が違う教えが書かれていると信じ
込んでいるのです。
イエシュアが、古い契約より、新しい契約(中身が別の教え)を
重視、ひいきして支持しているなどという解説をしていますが、
その場合、聖書に何が書いてあるのか、イエシュアが何を教えているのか、基本中の基本が見えないままでいるだけなのです。
教える人が、そのような教えをしたら、普通の人は、もっと聖書が
分からないまま、人の思想を神の教えと騙されて行くのです。
聖書に、古い、新しい、又はトラー=モーセの五書=父の教えとは
違う教えなど、1つも書かれていないのに、書かれているかのように多くの人が語っているのです。大問題なのに、その問題に多くの人が
気がついていない!一方、多くの人が、神の言葉が同じ、永遠普遍と
気がついている、終わりの時代に、神が神の栄光、名誉にかけて、
真実に目覚めさせている事が、起きているからです。
今は信じるだけで良いんですよ〜!これどういう意味ですか?
信じるだけで良い。それは、イエシュアを信じて新しく生まれ変わるのは、信じる以外しかないという意味だけでしょう。
神の言葉、イエシュアの業を信じるだけしか、新しく生まれ変わる
手段は、他にないからです。その点を、言っている事を、確認してください。
でも、クリスチャンは、信仰義認の点ではなく、信じるだけで、
後は自由に生きて良いという意味合いで、この言葉を言う人がいます。自由に生きて良い、それは個人選択ですが、その行為は、神を
愛していない証明になるのです。神を愛する人は、神の仰せ〜トラーを生きる!とはっきり、イエシュアも教えているからです。
信じた人、コリントや使徒15章に書いてある、神の言葉を知らない
異邦人イエシュア信者は、神の前に罪、聖別を汚す生き方をしていたのです。そのままでは危険!だから、神の教えを1から知らないと
ならないのです。そして、信じた人は、異教徒であった時の生き方とは違う生き方を、神の言葉から教えられて、神の子らしく生きるという、新しい人を生きる旅路に招き入れられた事を知らないとならないのです。
それをしない人は、永遠に幼な子〜神の言葉を知らないまま、
ガラテヤ、コロサイ、ローマの信者のように、偽教師の教えや
行いにより、義を獲得するというズレた思想に浸って、神の言葉
まことの命を生きる実態が分からないまま、いつまで経っても
成長しないという事が起きるのです。
生まれても、正しく養育〜神の言葉に養われ、その実態を生きる事に根付いて生き続けなければ、何年経っても、幼な子のまま、変化なし、成長なしに留まるからです。
信じるだけでいいんですよ。それは、信仰義認を受け取る事のみ!
そして、信じるとは、何を信じるという事を言っているのか、よく
考えないとなりません。悪魔でさえ、神を信じて恐れているとあるでしょう。
信じる〜その土台、根拠は、神が人に伝えた永遠の真実=言葉でしょう?それを破壊している思想は、神から出たものではないと、聖書を読んで気が付かないとなりません。
真理エメット、アマン信じる、 エムナ信仰 アーメン確実、固定
確か。
この言葉は、全部同じヘブライ文字で、構成されている言葉です。
同じ性質、要素を示しているのです。
信仰は、神の言葉の事実=真理から離れて存在するものではないのです。神の言葉を完全丸ごととして土台としない場合、又は神の教えを生きないとは、それは不真実な生き方、それこそが偽善者的生き方であり、確定、固定された確実のものではなく、砂の土台です。
イエシュア、子羊の贖いの血の代価は、永遠の中に完結しています。
そして、タナック〜モーセ、預言書、諸書に、全て「イエシュア」
救いが書いてあるのです。だから、1世紀当時のユダヤ人、それ以前のユダヤ人も、タナックに記された「メシア」の到来を、神のハギムの時にそれが起きる事を毎年待ち望んでいたのです。
救い〜イエシュアは突然、2000年前に実現したのではありません!エデンの園から同じ!永遠の中に完結し、神は全てを造られて
人が生きるのに必要な全てを備えて、完了したから、第7日目に止まられた!とある通りだからです。何も欠けているものはない。
原始も、進化もない。最初から同じ!
歴史の史実を通して、その真実が、証明され続けているだけです。
それが、聖書に書かれたイスラエルの通った歴史です。
救い、贖い、赦しはは2000年前に初めて実現したというのは、
西洋人が考える思想に過ぎません。
西洋人による西洋人のための西洋人宗教。
イエシュアの血の贖いによる、救い、赦しは聖書の事実ですが、
それ以降、神の言葉を曲げる、歪める、否定する、終了!という教えは、神の言葉と真逆、神に反する思想です。
神の言葉を捨てるなら、神に造られた本当の自分を生きる手がかりを
失い、神と顔と顔を合わせる親しい関係から遠ざかります。
そして、神の伝える真実な教えではなく、人が編み出した人の思想を信じるて別物の実態を生きる事になってしまいます。神が伝える罪=ズレの全貌が分からないまま、自分を危険な目に晒します。
神が伝える聖別の意味を正しく理解しないまま、独りよがりの聖別を
生きて、自己満足に陥り、神の声の周波数の下からズレます。
異邦人達が拒絶した神の言葉、教えは、自分達に馴染みのない教え、異教徒文化の生活習慣とは異なる都合の悪い教えに関してであり、
ヘブライ的要素が濃い教え記念日を全て捨てた教え、人間が作った
宗教で、神の教えではない思想がたくさん含まれているイズム〜宗教です。
ギリシャ帝国も、ローマ帝国も、反メシア思想は、反モーセの五書
神の教えを生きる事を禁じた事!そして、異教の神を拝むこと、
汚れた行為を神の前にすることを強要すること。異教の神々の要素、シンボル、習わしや、祭りと融合すること。反ユダヤ思想は、神の
言葉を否定する事と、一体で密着しているのです。
その裏にいるのは、サタンだからです。神の言葉をそのまま生きたら
命が環境に溢れてしまうからです。そして、それらを生きる人たちを抹消、得にイスラエルが存在してはならないのは、神の言葉が真実であると証明されてしまう証拠だからです。
そして、イエシュアの到来を怯えつつ、最後の悪あがきの抵抗をしているのです。
パウロがどの群れに対して語っている内容は、一貫しています。
パウロは、神の言葉、トラーを否定する教えは、1つも1度もしていません!それを、パウロがあたかも、神の教え、割礼や、神の言葉を生きる事、神の記念日を生きる事、神の禁じた食規定を破る事を
教えているなどという、永遠に追放しなくてはならない嘘を捨てて
パウロは、そのような行為、神の言葉に対して、罪を犯す事を人に教えない、言わない、イエシュアも神の言葉を破り罪を犯すように人の教えたり、シャバットを破り、けがれた動物を食して良いなどと言ってなどいません!
その場合、イエシュアは神ではなく、偽預言者であり、パウロも同様に偽教師と神と人から認定されてしまうのです。
異邦人が正しく聖書を理解していないおかげで、神の言葉、永遠普遍と神がいう言葉ではなく、人間が編み出した思想〜神の言葉は終了、破棄という人間の思想の嘘を信じているせいで、そのような自由自在に神の言葉の方を曲げる、聖書解釈が浸透、横行しているのです。
続く