シャバットは神が人のために造られ聖別し祝福された記念日 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

グレゴリオ暦の2024年も、後4日になりました。

日本は、年末年始を一番感じられる国です。

昨日27日の日没は、ハヌカ3日目、同時にシャバットの開始でした。そして、今日の日没迄が、神が創造された本物の安息日、

シャバットです。イエシュアも弟子も、聖書に記された残りの民

全てが祝っていたのは、神の創造されたモアデイムです。

昨晩は、友人が来て楽しいシャバットとハヌカの宴会をしました。

 

世界中が、この冬至の季節、年末年始でお祭りモードになっている

今日この頃です。

一年の中に様々な出来事がありました。あります。これからもそうでしょう。

何も得に取り立てて大きな事件も、出来事もなく、日常同じように

過ごせたという人もいれば、1月1日の日本での大震災のように、

未だ助けての手が十分さし伸べられていないまま、今も避難所生活という多くの人々もいます。

何が、どうなるか、予測できる人は誰もいないという事です。

 

無病息災、商売繁盛、多産その他もろもろ、それらは人の自然な願いでありますが、人の本当に必要であるものは、神が与えるエデン、

喜び、神のみ座の前、神の中にある安息〜神によって完全に憩う

状態でしょう。

 

詩篇27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。

わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、

その宮で尋ねきわめることを。

 

神〜イエシュア〜聖霊が内側に住まわれている。私達も神の中に住まっている、目に見えない天の御座の中に今存在しているという、

贖われた人の現実は、想像、理解を超えた状態にあるという事を

神が人に伝えています。

 

ハヌカの祭りの4日目になったのですが、知り合いになった人たち

から、色々と面白い質問を聞かれます。

我が家に遊びに来る人は、家の中に置かれた色々なものに興味を

示して質問してきます。

基本的に、私は誰かを捕まえて、自分の興味ある事を、自分から話すという事はしません。自分勝手で、押し売り的、おかしな人と思われてしまうからです。大事な事は軽々しく話せません。

ブログには、直球で色々書いていますが、それは、読みたくない方

興味がない人は読まないだろうという前提で書いているからです。

同じ場所にいて、同じ事を知っている仲間内では、自由に話しますが、そうではない、西洋宗教を信じているクリスチャンの友人には、聞かれた時だけ、適切な事を答えるようにしています。

こちらから、色々言えば誤解されてしまうのと、間違いを教えてあげるというような誤解をされますし、そして、不必要な言い争いや、

無駄な会話を避けるためです。一番避けなければいけないのは、

相手との関係を壊す事です。それが蛇の作戦だからです。

 

皆、同じイスラエルの神を信じていると思っているのです。

同じ聖書=神の言葉を信じていると思っている。

でも、それぞれの中に、聖書〜神が伝えた通りのイスラエルの神像

神の言葉、教えではなく、それぞれが聞いて慣れ親しんだ教えを通して、神とは、メシアとは?と考えているのが事実なのです。

私がヘブライ聖書を学び始めてから、生活がガラッと変わったので、

家族に聞かれました。

「OOちゃんの信じているイエス様と、OOさんの信じているイエス様は違うの?それとも同じなの?」と。。。

創造主は一人しかいないのに、それぞれが解説している、考えている

イスラエルの神像が、聖書の通りか、聖書とは違う人の思想で語られている別の神像なのか、その違いがあるのです。

そうでなければ、何十万という宗派が、プロテスタントの中に存在するわけがないのです。1世紀のイエシュアが教えた教えと、プロテスタントの信仰の主張の土台がどうして違うのでしょうか?

しかも、ユダヤ人の中にも、先祖の伝統の言い伝え、人の教え、

戒めの律法なる、人間解釈の教えが存在していました。

イエシュアが地上に居られた時は、1世紀当時ユダヤ人の世界の中にあった、彼らが編み出した教え〜戒めの律法〜口頭トラー=文字で

書かれたトラー=モーセの五書ではない、人間の教えが存在していて

その人間が編み出した伝統の教えに、当時の人々が縛られて居た事をイエシュアが指摘し、正している事が、いくつか書かれています。

ペテロでさえ、ユダヤ人の律法〜ユダヤ人は異邦人と交わってはならないという掟に縛られていたのです。

その偏見を打破するために、神が見せた幻が、使徒10章のもろもろの動物が天から降りてくる幻を通しての神の教えなのです。

異邦人〜犬、野生動物、豚と、当時のユダヤ人が呼んでいた、

神は異邦人も選び出し、贖い、きよめたから、彼らが汚れた動物と

同じだという偏見を捨てよ!という、教訓なのです。

 

クリスチャンは、イエシュアがモーセの五書を否定した教えをしていると、それらを読んで誤解しているのですが、神が神の言葉を否定など1度もしていないし、するわけもないし、永遠にしないという基本中の基本の真理を知っておかないとなりません。

一人一人が、聖書だけに戻り、考えれば良いのです。

聖書を神の言葉と信じていると宣言しているけれど、クリスチャンはそのように、聖書=神の言葉を取り扱っていないことに気がついては

いません。

最近、日本の中にも、キリスト教で見聞きしてきた教え、一般に教えられている教えは、実は、出どころが聖書ではなく、異教神、異教徒の思想が混じった人の教えを取り入れて、人間が作った宗教の産物の宗教文化の教えであるという要素がたくさんあるという事に、気がつく人々が出てきました。

クリスチャンではなくても、クリスマスはキリストの誕生日ではないと多くの一般の人が今や知っています。

 

聖書は完全なる神の言葉、誤りのない言葉であると言いながら

どうして、神の言葉は廃れた、無用、今は個人の意見で神の言葉を自由に仕分けて良いなどと、聖書を読み違えて信じているのでしょう?

ぜひ、その思考が、聖書の真実に対して矛盾していると、気がつけば

良いのです。

それほど神の言葉とは、信ぴょう性なく、真実ではなく、良い加減であると思っているのでしょう?

神の言われた事は、完全、絶対という概念、理解が異邦人の中には

ないのです。元が異教徒背景の思想だからです。

 

そして、神との関係は神が提示した婚姻契約〜契り〜モーセの五書に

記された神の教えを生きるという大前提を土台に結ばれている事実に対する理解が異邦人の中にはないのです。

それは、聖書に記された神の言葉が伝える通りの意味を、正しく教えられていないからです。

だから、それぞれ今は自分が考える通り、考えるやり方、考える日に

神を礼拝すると、人が伝える教えの方を信じているのです。

交わりはいつの時にも、楽しいし良い事です。でも神のモアデイムではない日は、聖日ではありません!という単純な聖書の事実を理解してください。それは、神の呼出日だから、集まっているのではないという単純な事実。

それ以前に、今や普通の一般の宗派の日本人の牧師達が、神の言葉を神の言葉と取り扱わない教えを、堂々としているのです。

神の言葉を否定する事こそが、神に対する敵対であるのに、人間の

教えへの同化、同調、混ざり物、別物になってしまっているのです。

いや、最初から混ざり物の教え=それが人間が作った宗教の教え

なのだから、仕方ないのです。

この問題は、ある部分の教えを正すのではなく、その間違いの大元 の欠陥、ズレを正さなくては直らないのです。

 

間違い大元〜土台が、神の言葉ではない「砂」だからです。

砂〜あてにならない不真実な人間の思想を土台としている宗教の教え、それが人間が作った宗教の土台なのです。

全部砂ではなくて、半分砂=人間の教え、半分が岩=神の伝える言葉

これを全部、神の言葉=永遠の岩=救いの岩であるイエシュアが伝えた通りのトラー=神の教えを土台とする事に、戻す、軌道修正する

そのような悔い改めがなくては、結局中途半端なのです。

2つの種、別物の種=人間の作った教えと、本物の種=神の言葉は、同じ畑=頭脳に撒いてはならないのです。

人間の教えの種、根が、人の中にある限り、そこからは別もの=神の教えではないものが、必ず常に生えて来るからです。

周り見渡しても、異邦人の世界の教えは、全部混ざっています。

必ず、神の言葉終了ありきで語り、そしてそのように信仰の実践をして日々生きています。

大元から一掃する、ローマ化された教えの全てを、除去、削除して

聖書だけに戻れば良いのです。

どうして、神の言葉や教えを退けて、人間の教えを尊重しているのでしょうか?いや、人間の教え、イコール神の教えと信じているからです。ペテロが自由に神の言葉を仕分けて良いという権威を与えられたと、カトリックが教えているのですが、それって聖書ではないでしょう。人間至上主義。人間が神のどんな教えも改竄、変形、削除、付け足しされている事を許されていないという、神の言葉の大事な事実を、クリスチャンが理解していないから、勝手に色々神の言葉、教えを変えているのです。

 

人が喜び、楽しむために、神が全てを創造されて、神が人のために

神の記念日を創造して与えてくださいました。

神との特別な祝宴、会見の時を下さったのです。

シャバットはその中心であり、福音の中心です。

神が造られた週一度の聖別された記念日は、第7日目であり、第1日目などではありません!第1日は、安息日ではなく、普通の日です。

1〜6日は、普通の日、第7日目だけ、神が名を付け、聖別され、

祝福された日なのです。

でも、1世紀後半以降、異邦人は神の教え、神の記念日から離れて

人間が作った〜西洋人が作った宗教の教え、宗教の産物である記念日を祝う事に移行してしまったのです。それは、迫害、同調圧力による

それを回避し、命乞いするために、同調したからです。

 

聖書に記されているのは、昇天以降も、同じ神の教えと、神が創造された記念日を祝っている事だけです。読めば誰でも、分かります。

グレートリセットは、イエシュアが戻られた時に起きます。

全ての人が、神のオリジナルの生き方に戻る!全ての人が、神の

創造されたモアデイムを祝うと預言されているからです。

それが、新しい契約〜再更新される同じシナイ山で与えられた婚姻契約を、全ての人が生きる時が来るからです。

 

今の時代、日本でも聖書とは完全にズレた教えに、人が疑問に思うはずです。でも、そのおかしさ、違和感に疑問を持って、もっと元まで遡り、全ての問題の根に気が付く、それは、人が神の言葉を曲げた、変えた、人間が神の座に座り神の言葉に物申し、自分の意見で判定する事が、恵の時代であるなどと、聖書とは全く違う危険な思想〜

人を偽りの教えに導く扉を開く教えに誘われていた事に、気がつけます。

細かい事は分からなくくても、人の教えの嘘と、聖書に記されている真実を識別する方法は簡単です。

どんな聖書解説でも、神の言葉が昇天以降変わったのですという教え

それら全ては神の言葉ではなく、人間の意見、主張、教えであると

覚えておけば、見分けられます。そして、神の記念日〜レビ記23が終わり、今は日曜礼拝になり、クリスマス、イースターになった、

レビ記23章に記されたシャバット、新月、過越、仮庵は、古い律法の教えなので廃れたから今は祝わない、それらは、神の言葉を退けた

異邦人の主張、意見であり、神の言葉、教えではないのです。

簡単に分かる事なのです。聖書に照らし合わせれば分かるからです。

神は、神の口から、永遠普遍である神の言葉、神の記念日とはっきり

教えているでしょう。人間=異邦人が勝手に神の言葉は終了、破棄、無用と言っているだけです。

そんな簡単な事も分らなくなるほど、頭脳が盲目、闇になっているのです。聖書を読めば分かるのに、分からない。

小学校の教科書に、第7日目とかいてあるのを、第一日目と読み替える

ような、異常な読み込みをしていると気がつけば良いだけです。

 

神の言葉に逆らう、敵対する、否定する事、イコール=聖霊=イエシュアに反する行為をしている!と、気がつけば良いのです。

神が大事にし、ガードしなさいと人に教えている、その声、言葉を

退ける行為、そんな事していないと思うかもしれませんが、実際に

しているでしょう。イスラエルもそう思っていたでしょう。

1000年近くも、異教の神の礼拝場で、彼らのシンボルや儀式を

通して、異教徒のやり方を学んで取り入れて、イスラエルの神を拝んでいたのです。全ての人に対する、神の警告なのです。

でも、イスラエルの神は何も言わなかった。でも遂に、約束の地から

彼らが追放されたのです。その教訓は、異邦人に対しても、同じです。長年、神が何も言わない、皆がそれを支持し継承している

イコール、それが神の教えている願っている生き方や、やり方ではないという事が、聖書に記されているからです。

人間が全て神の創造されたものを、変形し破壊しているのです。

人は神が言われた事ではない事、付け足し、削除、アダムとハヴァが

やった罪を繰り返しているのです。

イエシュアを信じる人は、そんな事したいなどと、思わないでしょう。それには、イエシュアが何を教えたのか、イエシュアが父の言葉を教えた事を、はっきり知れば守られます。