今年の12月25日は、8日間のハヌカの祭りが始まる日であり、
そしてクリスマスの25日と重なります。
ハヌカは、聖書の暦の第九月、キスレブの25日である理由は、
その日に、セルコウス王朝、ギリシャ帝国に、エルサレムの神殿を
剥奪され、汚された日であり、同時に、同じ日に、マカバイ兄弟率いるイスラエル軍が、異教徒ギリシャ帝国から、エルサレムの神殿を
奪い返した、神が勝利をもたらした日だから、キスレブの25日に
祝うのです。毎年、11月〜12月にハヌカの祭りが来ます。
その日が、グレゴリオ暦では毎年違うのは、神の祭りも、ハヌカも
聖書の暦を基準にしているからです。
8日間祝うのは、それまで、仮庵の祭りの8日間を祝えなかった為
そして、8日間かけて、神殿を修復し、豚の血で汚された祭壇を新しく建て直し、そして、宮を清めたからであると言われています。
クリスマスは、どの年も12月25日と、人が決めたから設定されていて、その日は、キリストの誕生日ではないけれど、クリスチャンの間では、それがキリストの誕生日とされて、伝統としてそれが継承されています。でも聖書には、キリストの誕生日の時は記載されて
いません。そして、キリストの誕生日はレビ記23章に記された
神の都上りの時と一致していると考えられます。
ハヌカの祭りの裏にあった出来事を理解しないとは、聖書を理解する上で正しい情報に欠如して、聖書を読んでいるという事であり、
しかも、クリスチャンは聖書の最初の部分を学ばないまま、ただ福音書以降ばかりを読むので、聖書に何が書いてあるのか、書いてある
内容を、全体として正しく学ばず、把握せず、しかも、神の言葉ありきという人造思想を土台としてしまっているので、神の言葉の方を、勝手に変えて、神の伝える真実を歪め、曲げて読んでいるのです。
聖書ではなく、人の思想で歪んだ神の言葉の解説だけを聞いてしまっているのです。
つまり、聖書を正しく読み、把握し、理解していない事が起きている。
これでは、聖霊が神の言葉から正しい事を教えようとしても、読み
込み激しく、神の言葉の事実からズレていて、聖霊が伝える通りに
把握できない状態になっているのです。聖霊は、神の言葉に反する
事は1つも語らない!という、大原則に立って、神の言葉=聖書を
読み直す必要があるのです。
マラキが記された後、イエシュアが誕生するまでの間、約400年間の空白の沈黙、空間の時代があります。
聖書が記されていない時代があったのです。
その時代に起きたギリシャ帝国からの、ヘレニズム化をさせる同調圧力。神に敵対するもの〜反キリスト。
それは、アレクサンダー大王が、支配した国の全てにおいて、
ヘレニズム化、ギリシャ哲学思想、異教の神々、宗教を、支配した
国の全の人々に浸透させようとしたのが、大王の目的であったから
です。この目的は、アレキサンダー大王が若くして死去した後も、
継承されているのです。
アレキサンダー王は、広範囲を支配していました。
マケドニア、ギリシャから、エジプト、果ては中央アジア、インドに至る迄の広範囲を支配していたのです。
一番下に地図を貼りますが、黄緑色の地域が、王が支配していた帝国でした。
そして、アレキサンダー大王死去後、この地域が4つに分割されました。主に、北のセルコウス王朝と、南のプトレマイオス王朝が
イスラエルを挟み、大きな権力を持っていました。
この2つが、イスラエルを支配する権力争いと、同時にイスラエルをヘレニズム化する事に挑んだのです。
この預言がダニエル書11に、詳細な預言されて書かれています。
タナックに記されたイスラエルと関わった国は、バビロン、メディア・ペルシア、ギリシア、ローマです。
預言者ダニエルは、バビロン時代に活躍しました。
ダニエル書では、ギリシャの出現と、その衰退を預言しています。
その内容は、正確に詳しく記されています。
そこに書かれている名が、固有名詞ではなく、彼などという代名詞で書かれているので、その名の意味を知識がないまま読んでも、何が書かれているのか分かりませんが、その時代に生きていた実在した支配者〜王達の名を当てはめて読めば、ダニエル書の預言は、ぴったり
歴史の中で起きた事と一致し、正確に詳細が記されている事が読み
取れます。
マラキ書から、イエシュア誕生の400年の聖書の記録がない沈黙の期間、その時代に起きた歴史の出来事の情報を知らないままですと、神のされる事は時代、歴史の中に起きた出来事を通して教えられているのですから、よく見えないままになってしまうのです。
その理由からも、マカバイ戦争の裏にあった背景〜荒らすもの〜
ヘレニズム化、神の教えを捨てさせ、イスラエルを偽の教えに同化
同調させようとした事、そして、このアレキサンダー大王がどれほど残虐な王であったのか、今の時代のテロリストに匹敵する、又はそれ以上残忍な王であったことなどから、イスラエルに対しての迫害〜トラーを生きると、残忍な方法で処刑されてしまった、このハヌカの祭りの裏にあった当時の荒らすもの〜反キリストのやったことを知ることは、必要不可欠なことなのです。
反キリストの特徴は、神の教え〜トラーを生きることを禁じること
そして、この世の教えに同調させること、これがローマ帝国による
迫害、モーセの五書を生きることを禁じられた1世紀後半神殿崩壊の
時代にも起きたのです。クリスチャンは、神が神の言葉や教えを終了させたという嘘を信じていますが、そうではなく、ローマ帝国〜人間が、神の言葉、教えを生きて、実践することを1世紀に禁じたのです。
そして、ギリシャ帝国と同じく、その勅令に従わない人は、重税、
投獄重税〜金80万円相当を支払わない人は、餓死刑で処刑されたのです。そして、その圧力に同調した、異邦人イエシュア信者、西洋教父達は、ローマ帝国の思想=反モーセの五書に同意した発言を皆が
したことが、書物としても記されているのです。
黄金の口と呼ばれた、クリソストムも反モーセの五書、反ユダヤ思想の酷い説教を書いていますし、ルターも晩年同じ罪を犯したのです。
「ユダヤ人と嘘」という書物で、ユダヤ人は滅びるのが神のみ旨、
ユダヤ人を滅ぼすことが正義などと、ユダヤ人の書物は燃やせ、彼らの住居を破壊せよと、悪魔の口が語るようなことを書物に書き、それがヒットラーがホロコーストをする教科書になってしまい、ルターが書いたユダヤ人に対する破壊がその通りに行われたのです。
彼らの住居、店を破壊し、彼らの権利を剥奪し、そして命まで奪う。
そんなことなど、クリスチャンの間では教えられることもないのです。
人は、神の言葉から離れたら、罪の道〜思想が、神の考えと必ずズレます。ある部分は真理でも、ある部分は神に反逆する思想を持ちます。だから、クリスチャンが、神の言葉、教えに敵対する冒涜のそんな酷い教えが、今の恵の時代の生き方、律法〜神の教え、指導を捨てることは正義であると、疑問も持たないまま、そう信じているのが
それです。
事実は、1世紀後半に異邦人達は、きげん160年代の、ギリシャ帝国による、ヘレニズム化、異教の神々の礼拝に同調し、モーセの五書を生きる事を禁じられたのと全く同じ事をした、ローマ帝国の圧力に同調し、ユダヤ人信者と決別し、西洋宗教という西洋人が作った宗教の教えの信仰、実践に完全に移行したのです。
そして中世で、カトリックはユダヤ人を無理やりキリスト信者にさせて、モーセの五書に記された生き方の全てを同じように禁じたのです。反モーセの五書、反ユダヤ思想です。
中世のローマカトリック教も、モーセの五書を生きる禁止令を信徒に出したのです。
彼らユダヤ人が抵抗したのは、メシアというよりも、神の言葉を冒涜的にも捨てよ!と教える、ズレた異邦人思想の宗教の教えに、同調することに抵抗していたことを、覚えておいた方が良いです。
得に4年前から、この世ががらっと変わり、悪が善、善が悪
人間の生き方は、それぞれ自由〜LGBTQを堂々と受け入れ、同性婚を
承認しようという、世界の動きを知っているでしょう。
神の創造のデザインに反することを、世界が奨励、支持し、そして
それと反対意見を持つ人が異常、異端とみなされてしまう。
オリンピック競技で、DNAが男性の人が、女性の競技に参加し、
ボクシングで男なのに、女性選手に思い切り顔を殴ったので、
その女性は命の危険を察知して棄権したというのがありましたが、
当たり前です。見かけ変えても、DNAは、永遠に男は男、女は女。
人は自分を再創造することなど出来ない!こんなことが単純な真理が理解できない程、ズレたソドムとゴモラ、ノアの時代を迎えているのです。
カナダやイギリスでは、聖書の箇所を言っただけで、教師が逮捕されたり、おかしな事が起こっているのです。
人としての生き方、当然のあり方なのに、そのことに反対する人の方が批判されてしまうという事に、懸念を抱きませんか?
得に次の世代に生きる子供達が、汚染されてしまうことに対して、
本当に悲しく懸念します。
これからもっと、聖書に書いてある罪の基準、それらが無くなり、
正しい生き方をする人は、皆時代遅れ、ださいみたいな感覚にされ
黙らせられ、そして、犯罪も益々増え広がっていくでしょう。
日本の公衆浴場の問題も、言われていますよね。恐ろしい世界。
既得権益を持つ人は、犯罪しても罪に問われず、訴えられても、
影響を受けず、平気で税金を貪るようなことができてしまう。
そのような悪がどんどんと表面化しているでしょう。
そして、神のデザインを破壊する、人の健康、人体を破壊するための
目的のもの〜それの悪が善と嘘を浸透させ、人を破壊していく。
このような終わりの時代に入っているのです。
だから、目覚めていないとならない。目覚める〜神の言葉を知り
しっかり神の伝える真理に立って、この世の闇の中に光として
生きている役割を忘れてはならないのです。
ハヌカの祭りの裏にある、神からの教訓は、人の思想、異教の神々の教えやシンボル、高きところの礼拝に、神に聖別された人たちが、
同化させられていくことです。今や聖書〜神の言葉を正しく教えるはずの牧師らが、罪を奨励する時代になりましたから、世界は狂った
状態になっているのです。塩が塩気をなくしたのです。
ダニエル書11章に記された、マカバイ戦争の一連の預言は、
その警告です。
そして、知らない間に人は、人の思想に汚染されているのです。
クリスチャンの間でも、体、物質は悪い、霊は崇高、独身が清く
結婚した人は汚れているなどの思想を持っているでしょう。
だから、神に仕える人は、独身という人間の戒めの律法が、カトリックが作ったのです。それは聖書に反する教えであり、結婚を禁じるのは、禁欲主義の歪んだ思想を持つ偽教師の教えであると、パウロが
警告しているでしょう。
パウロは独身を奨励もしていませんし、結婚している人が、独身より
霊的に劣るレベルなどとも言ってもいません。
結婚は神の創造であり、最初の最初から書かれて教えられており、
産めよ、増えよ、地を満たせが神の仰せであることを、知らない人の思想です。
世の中にはたくさんの無数の神々や宗教がありますが、大元は同じです。エジプトの神〜太陽神、ラーであり、太陽神のシンボルが
どの宗教にも取り入れられています。
そして、異教の女神は、多産を願うシンボルです。
春のイースター、エストロの女神は、多産の女神であり、だから卵なのです。卵を色の付いた液に浸すのは、多産を願う儀式なのです。
知らない間に、イースターエッグにカラリング、色を塗り、卵隠して探し出すという楽しいゲームになっていますが、その大元は、多産を
異教の女神、イースターに祈願する儀式なのです。
神は神の民に、異教の神々の教えや礼拝の仕方、シンボル、儀式を
通して、イスラエルの神に近づく、礼拝することを禁じています。
ホセア14:8 エフライムよ、わたしは偶像となんの係わりがあろうか。あなたに答え、あなたを顧みる者はわたしである。
わたしは緑のいとすぎのようだ。あなたはわたしから実を得る。
申命記 12:4 あなたたちの神、主に対しては国々の民と同じようにしてはならない
エレミヤ 10:2 主はこう言われる、「異邦の人の道に習ってはならない。また異邦の人が天に現れるしるしを恐れても、あなたがたはそれを恐れてはならない。
10:3 異邦の民のならわしはむなしいからだ。彼らの崇拝するものは、林から切りだした木で、木工の手で、おのをもって造ったものだ。
申命記 12:30 あなたはみずから慎み、彼らがあなたの前から滅ぼされた後、彼らにならって、わなにかかってはならない。また彼らの神々を尋ね求めて、『これらの国々の民はどのようにその神々に仕えたのか、わたしもそのようにしよう』と言ってはならない。
ヨハネ4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
4:24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
霊とまことにおいてとあります。霊もまことも、神の言葉=教えと
一致する実態なのです。神の言葉に反した、神への近づき方、礼拝は
イスラエルの神が伝えていることではないこと、神の言葉ではっきり
伝えられているのです。
アレキサンダー大王が支配していた国々。
アレキサンダー亡き後、4つの領土に分けられましたが、その中の2つ、緑の区域が、セルコウス王朝、そして、オレンジの場所が、
プトレマイオス王朝で、この二つに挟まるイスラエルに対しての支配権力争いをしていました。
そして、セルコウス王朝が、イスラエルに対しての、ヘレニズム化、
モーセの五書〜イスラエルの神の契約=トラーを捨てて、ゼウスの神を伏し拝み、汚れた豚を食し、異教徒と同じように生きることを、
強要されました。それに抵抗する人全てが処刑されたのです。
モデイムという、エルサレムから30キロの場所、マタテイウスの
拠点であった場所でも、ゼウスの偶像を拝むようにされ、それに
ユダヤ人も同調し、ゼウスの神に伏し拝む人もいました。
ある日、ユダヤ人がゼウス像に伏し拝むのを目的した、マタテイウスが、刀でその同胞のユダヤ人を刺殺したことから、マカバイ戦争の
火種が勃発したのです。民数記に似た事件の記録があります。
ミデイアン人と、モアブ人、神殿娼婦と思うわれる人を神のミシュカンの中、神の祭壇、至聖所で、多産を願う儀式で不品行をしたユダヤ人を、ピネハスが刺殺したことが書かれています。
ピネハスは、この行動の結果死ぬことなく、この行動は神から認められたものであったことが記されています。民数記25章。
どんな宗教、文化の中にも共通する、太陽神信仰とそのシンボル。
太陽は空高くにあり、古代の人々は生命力の源は太陽にあると考えました。人々は、太陽神シンボルに、人間の顔と性質を与え、人間と同じ命と感情を持った神であると想像してそれらの偶像を作りました。それの偶像の神を信じ、崇拝し、その偽物の神に恵みと愛を求め、
罰と災難を避けてくださいと祈願しているのです。
エジプトの太陽神 ラー
仏教 仏像も太陽神シンボルがあります。
カトリックには多くの異教神の偶像が取り入れらました。
カトリックの最初の礼拝場となったのは、バシリカ〜異教神の寺を
作り替えたものです。
これから説明する、クリスマスの中にあるたくさんのシンボルも
同様に異教の神々の文化、冬至のシーズンにある祭りのシンボルで
あり、聖書ではない、異教の神々、太陽神、又は多産の女神のシンボルなのです。
この太陽のシンボルが乗っかっている棒を持ちながら、司祭は礼拝の時、会場に入り、退出します。
聖人とされた人の頭上には、必ず太陽のマーク輪っかが描かれています。マリアもジーザスの頭上も太陽神シンボルのヘーローがあります。
異教の神々の頭上にも、ヘーロー。
バチカンの町も、太陽神のマークのタワーと、そして太陽が通る道
そして、その太陽が当たる場所が、教皇の窓。
聖なる父と呼ばれるお方は、神〜以外にないのに、聖なる父と呼ばれる人間。