幼い頃の冬の思い出は、外は寒くても寒いなどと考えてこともなく
雪が降る日など、とても嬉しかったのを覚えています。
子供ってそうですよね。寒くても外に出て遊びたい。
家の中は暖かい暖房、当時はストーブの匂いや、天気の良い日に干したお日さまの匂いのするあったかい布団など。
クリスマスのシーズンには、その頃レコードというものがございまして(年代が分かる)子供が歌っているクリスマスの歌などを、母親がかけてくれていました。そのレコードの子供が歌う、歌声を今も覚えています。
そして、花壇に植えてある本物の木のクリスマスツリーを、毎年
大きな鉢に入れて、運び込み飾りも親が付けてくれて、クリスマスの朝には、枕元にデパートの包装紙が付いたプレゼントが置かれていたりと、楽しいイベントでした。
アメリカでは、クリスマス前になると、クリスマスツリーがたくさん売り出されて、家の中に飾った大きなクリスマス前にツリーの下に、家族からの、子供達や親、又は親戚、家族のお互いへのプレゼントを、それぞれ山ほど置いて、それを皆クリスマスの朝に起きて開けるというのが、伝統です。
寒くて長い冬のお祭りシーズン、イルミネーションやデコレーションで街も、お店も綺麗ですよね。
幼稚園もキリスト教の幼稚園だったので、もちろん、クリスマスの
劇やら、お祝いをしました。
小学生の時は、日曜学校に通っていたので、もちろんクリスマスも
祝っていましたし、教会にはクリスマスツリーがありました。
アメリカ人の宣教師もおられて、なんか外国みたいな感じのする
建物でした。
あの当時、トイレの中に暖房があったのを覚えています。
クリスマスの思い出は、それぞれの人に取っても楽しいノスタルジーがあり、欧米人ならば、それは家族や親戚と過ごす一大イベントの
時でもあります。アメリカ人は感謝祭と、クリスマスを盛大に家庭で祝います。お正月は1日だけで、日本のようには祝いません。
日本では、カップルで過ごすというような感じで、その日は日本では
得に休みではないですが、アメリカでは、長い休日になるのです。
クリスマスは、長い年月、幼少期からの成長の思い出、家族との楽しい思い出がくっついているものなので、複雑なのです。
しかも、それが「キリストの誕生日」などと、カトリック〜西洋宗教の教えがこじつけられてしまったのですから、その「クリスマス」という事自体が、聖書の祭り、神の仰せで祝う日、聖日とされ、
そして12月25日がキリストの誕生日と聖書に書いてもいない日に、その日を祝うことになっているのです。
皆が伝統で祝うから、12月25日は、誕生日というフリして、一緒に祝わなくてはならない?
クリスマスって一体どこから来たのか、その由来など全然考えず、
25日がキリストの誕生、プラス家族で過ごす、楽しい時という記憶が定着しているのです。
しかも、ハロウイン、クリスマス、イースターは、キリストに関係なく、世界中の色々な宗教が背景の国でも、今や祝う祭りになっているのです。
世界の中で、異邦人クリスチャンがクリスマスの由来や、今の時代のように、クリスマスは一体どこから来たのか?聖書には何と書かれているのか?などという事を、調べたり、考えたりする事など、
2〜30年前には全く無かった現象だと思います。
そんなこと、話題にしようものなら、その人が冒涜的、不敬だ!と
思われたのです。
同じように、2−30年前には、クリスチャンの世界で、ヘブライ聖書を学んだり、シャバットや過越、仮庵など、誰も聞いた事がない、
祝った事がないのと同じです。
聖書には、メシアが地上に来られた記録が記されています。
神が約束し預言されたように、メシアは地上に、人の子として誕生しました。
そして、メシアに関して、神はタナックを通して人に教え、そして
預言されたように、永遠の中に屠られた子羊の事実を地上でも証明して下さいました。アヴラハムは、イエシュアを知っていた。アダム、ノアから始まり、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、皆聖書に
登場する残りの民、預言者達は、皆今の私たち一人一人のように、
個人的にイエシュアと出会い、新生体験をし、聖霊を内側に、同じように受けていたのです。
なぜなら、救いの方法=救い=イエシュアは1つしかないからです。
イエシュアの誕生は、過越や再臨のように、大々的ではない、
ひっそりとした出来事として、記されています。
そして、ヘロデ王もメシアがいつか誕生すると言うことを、知っていて恐れていました。タナックを知るユダヤ人は、約束のメシアを知っている。でもそれが、2000年前に来られたあのお方だと、その
当時も、今も、認識できない人がいるだけです。
パウロでさえそうだったのですから。
ヘロデはメシアは、ユダ族のダビデの王の子孫であり、イスラエルの王の王となられるので、自分の地位が危ぶまれると思っていたからでしょう。
クリスチャンは、イエシュアが昇天された後、今までの古い教えが
過ぎ去り、イエシュアが新しい教えをしたから、古い教え=トラーを捨てて、別の教えを生きるのだ!と、意味不明で漠然とした、聖書に書かれている事とは違う事を信じているのです。
イエシュアは、トラー=モーセの五書を否定したり、別の新しい教えなどしてもいないのに、別の教えをしたのだ、しかも、父の言葉=
トラーを破棄したと、聖書に書いてないことを、本気で信じているのです。
イエシュアが来られて教えられたのは、父の教え=モーセの五書に
記された教えを正しく解釈させて、実際に生きて見せて、そして
神の教えを生きる事を永遠に固く確立、定着させるため!と
マタイ5章で言っている言葉を、神の言葉が成就して終わったと
教えられているのです。非聖書的解説の代表例です。
神=聖霊は、ご自分の実態である言葉を否定などしませんし、
終了などさせません。
さて、クリスマスは、聖書に記された神の誕生日でもなければ、
神が祝うように命じている日でもありません。
そして、聖書には誰一人、イエシュアの誕生日を、クリスマスとして
イエシュアが誕生後、昇天後も祝っている記録もありません。
同様に、日曜礼拝も同じです。それらは、異邦人が創作した宗教の
産物の記念日である事実を、まず知って下さい。
そして、それらは、異教の神々の礼拝日やシンボルが、裏に繋がっているものです。だから問題なのです。
神は異教徒がするように、異教の神々の礼拝するようなやり方で
イスラエルの神を拝んだり、近づいてはならない事をずっと警告しています。
何が問題なのでしょうか?神の創造された永遠に祝われるモアデイム〜アポイントメント、定めの日を全てクリスチャンが祝わず、
そのかわり、人間が作った代替えの記念日を祝っていることです。
国の記念日や、個人の記念日、誕生日や、その他の特別な日、
結婚式や卒業式、家族の記念日なんでも自由に祝って良いのです。
その時に異教の神々に祈願したり、異教の神々を崇拝する人がやるようなことをしなのです。
でも、神の記念日〜レビ記23章に記された神の記念日の暦の全ては
聖別された人にとり、全ての人が神に呼び出されて、招かれ祝う日なのです。
何度も書いているので、このブログを読んで下さる方はご存知だと
思いますが、西洋人、異邦人、ローマ教、カトリックは、マーケテイングに長けています。
どう言う意味かと言うと、どの国でもその国の文化があり、その国の
土着宗教があり、大衆民衆に馴染みのある祭りや、記念日があったのです。
だから、その国々にカトリック教を布教しに行った時、又は王がその国を自分の帝国下に支配する時に、彼らの文化に馴染んだ宗教の記念日を取り入れることを、許容したのです。
それが、5世紀のローマ帝国、コンスタンチンです。
聖オーガスチンもそうです。ハロウインなど、イギリスにカトリックを広める為、死者の祭り〜サムハインを、カトリックの聖人の日〜
万聖節として作り替えて祝うようにした、そういうやり方なのです。日本に来たザビエルも、イエズス会の教えを、天竺教という仏教の一派であるかのように、紹介したのもそれです。全部、混ぜ物。
多分、パウロの言葉、ギリシャ人にはギリシャ人、ユダヤ人にはユダヤ人という意味を、人によりカメレオンのようにコロコロ神の教えを
変えて伝えて良いと、勘違いしているのです。
日曜礼拝は、元々ローマ帝国の土着宗教である、太陽神=太陽=
サン、日曜日が大衆の中にあった礼拝日であり、同時に皇帝を崇拝する日でもあったから、大衆に馴染みのある日曜日に変更したのです。それを、復活が日曜日とこじつけただけです。神は人にシャバット〜
安息日は第7日目である、代々永遠に祝われる日であり、それはイスラエルの神と神の民が関係を結んだ、契りの中にある「印」として
与えたと伝えています。人は神が創造された記念日を変更することが
できないし、勝手に変更しても、それは神の前に何の意味もないのです。
どの国にも、太陽神信仰が根付いているのです。その大元は、
エジプトの太陽神、ラーです。全ての異教の神々の大元を表しているのは、太陽神であり、イスラエルの神が災いを持って、神々の大御所太陽神のラーを、闇を持って裁いたでしょう。
エジプト人だけが、光を失い、手で掴めるほどの大いなる暗闇に
放り込まれたのがそれです。太陽神がいても、太陽も上らない。
イエシュアの復活は土曜の日没である可能性が高いですが、聖書には復活された時も記されていないし、たとえそれが、グレゴリオ暦、
聖書の暦の第一日目に相当する時間に復活されたとしても、神の創造されたシャバット〜第7日目は永遠に変更などありません。
それは、創造の業を神が完了して、7日に神が止まられ、そして
週の7日間の第7日目だけを神が特別に祝福、聖別し、それを皆で祝うと伝えているのです。
その中に福音が凝縮されている、7という数字で表されている、
神の完全なる完了の業、イエシュアが語られているのです。
神が創造された完全なデザイン通りの状態に生きる〜それがエデン=喜びであり、安息=神の与える安息状態である事を教えているからです。
しかも、人間が付け足し、差し引きする余地がない。神の創造、神の伝える言葉に、人間がそのような事をする必要がない事を、教えているものなのです。
そして、異邦人は安息日を変えただけでなく、神のモアデイムの全ての日、レビ記23章のアポイントメントの日を、クリスチャンは忘れた!というか、全部捨てたのです。
かろうじて、シャブオートは、話題にされますが、その記念日が、
婚姻契約を受け取った、プラス収穫祭であることを、クリスチャンの
世界では教えられておらず、ペンテコステ=聖霊が初めて降った日
聖霊降臨祭などとしてしまって、そのような名を付けています。
日曜礼拝、クリスマス、イースターは聖書にない祭りであり、
それらは、異邦人が作った宗教〜人間が作った記念日である事実を
聖書の記述から、歴史の事実から、確認して下さい。
そして、クリスマスやイースターの何が問題なの?ということです。
誕生や復活は、歴史の事実です。しかもそれらは、神の創造された
記念日、レビ記23章の中に網羅されている教え、祭りであるのに
異邦人は神の記念日の方を捨てたことです。
そして、キリストの誕生を祝うようには、神は仰せになっていません。クリスマスの時期は、冬の冬至です。
キリストが12月25日に生まれたという記録はないのに、その日が
生誕した日!と、不真実を語る、偽証問題もあるのです。
プラス、ロシア正教は1月7日がキリストの誕生日だとしている。
こうなると、メシアを信じる人は、適当にいい加減な嘘を言うのかと思われてしまうのです。実際にそう言われました。
偽証するなかれ。嘘をついてはダメ!と子供に教えながら、大人が
嘘をつく矛盾です。サンタクロースは居るという嘘と同じです。
神の子らは、嘘を言うように、造られていません!という、神が伝えた教えを無視しているのです。
さて、この冬のシーズンなのですが、ある日だけが記念日ではなくて、長い期間の祭りシーズン、それぞれの国の文化の中に、「冬至」にまつわる記念日があります。
日本の冬至もそうですし、中国でも冬至は、長至節と呼ばれ、
無病息災を祈るため、餃子や団子を作って食べます。
日本は、柚子湯に入るでしょう。
欧米でも、異教の神々にまつわる祭りがたくさんあります。
ユール祭り、ミトラ教の祭り、サタナリアなどがそれです。
サンタクロースも聖ニコラス、その裏にはオーデンという悪霊の神がいる。
そして、このシーズンは、サタナリアの祭りでは、仮装をする無礼講のランチキパーテイ、女装、男装、動物の被りものをして、仮装するパーテイなどをする。色々あります。
なぜ冬至なのか、それは日照時間が一番短くなり、冬至を境にこれから日照時間が伸びていく、太陽神信仰、「不屈不朽の太陽」のパワーを崇拝する信仰がその裏にあるからです。
このような祭り、皆が長い冬、楽しみ求めて祝う祝いがあるので、
カトリックも、この時期に便乗して、クリスマスというのを作ったのです。冬至は、12月21日としているので、キリストの誕生は事実でも、12月25日が誕生日とは嘘であり、この時期は他の異教の神々がテーマの祭りがたくさんあるので、それに乗っかって作った祭りだから、それが問題だと考えているのです。
これも、暦が作られる度に、変更していったようです。
ユリウス暦、そしてグレゴリオ暦。
クリスマスで飾られる飾りや、クリスマスの色はこの異教神が裏に
いる、異教徒の祭り、神々のシンボルから取られたものなのです。
神は異教徒がするようなものを通して、イスラエルの神を拝むな!と警告していることを、無効にすることはできません。
カトリックは、多くの偶像や異教神から来たシンボルを取り入れています。礼拝、クリスマスやイースターの中にも、それが浸透しています。
クリスマスの裏にある、異教神の文化の祭りとは、どんなものでしょうか?
続く