元々、ユダヤ人の中には誕生日を祝うという慣わしや意識がありませんでした。誕生日を祝うことは悪いことではない、普通にやることですよね。結婚記念日や、様々な記念日、国の記念日その他を祝うのは
個人個人の自由であり、人の考えでそれらを尊重する事ができるものです。でもその祝いの中で、異教の神々になど、クリスチャンは祈願したり、祈ったりしません。
伝統文化、どの国の記念日も、その裏には、何がしかの神に祈願するという事はあります。でも、イエシュアを信じる人は、他の神々に
祈願などしませんよね。日本のお正月も、それぞれの信じる神々に日本人はお参りし、祈り、無病息災などを祈願します。
そして、お正月の行事や食べものもも、お正月にちなんだ意味があるお料理を食べるでしょう。
お節料理の由来
それらの食べ物〜異教の神々への祈願、由来がある食べ物を食べたとしても、イエシュアを信じる人は、その食べ物により汚される事などありません!
コロサイ2、1コリント8、ローマ14に書かれているように、
偶像に捧げたきよい動物でも、汚れて食べてはダメという弱い信仰の人と同じく、そんなお正月料理が異教の神々への祈願の意味があるならば、食べるはやめようと考える必要などありません。
神が食べてはダメと言われたものは、食べない。メシアを信じるというならば、その人達全て、神が言われた神が禁じた食べ物を食べないという、神の言葉を真剣に考え直すべきなのです。私たちは、神の教えではなくて、神が禁じた事は今は無効という、人間の嘘の教えに
騙されて、この冬など、清掃動物=病原菌の宝庫である動物を食し、ノロウイルスや、その他の胃腸炎、他の病原菌ウイルスにひどく苦しめられ、そして食べた人がウイルスを排出し、家族や他の人にも移してしまうのです。下水道を通して、河川海、環境へ再びウイルス、
菌を撒き散らす行為。そんな悪循環を繰り返して、環境、人体を汚染しているのです。
そして、神の宮である体を汚す行為、聖別を汚す行為=きよくない動物を食べる!という事が、全く分かってないからです。
食べてはならない食べ物を食べるから、疫病が蔓延するのです。
どんな形の料理が出ても、食べられる食べ物なら、食べられるのです。神が禁じている、食べてはダメな動物は食べない!
ユダヤ人の中にも、聖書に書かれていない祝いや儀式をします。
その一つが、バァルミツバ(女の子はバットミツバ)と言って
12歳になったら大人の仲間いり、責任をもち、神のトラーを生きることを自覚する人生の時に入ったことを祝う祝いです。
これは、エルサレムの神殿に行くと、その祝いを盛大に家族、親戚、
友人と祝っているのをいつも見ることが出来ます。海外の我が家では、イスラエルの先生達が毎年、海外で教えられる時に、我が家に
滞在してもらっていたので、ヴァルミツバをやって頂きました。
創世記21:8 さて、おさなごは育って乳離れした。
イサクが乳離れした日にアブラハムは盛んなふるまいを設けた。
この箇所、アブラハムも祝ったことが書かれています。乳離れとは、
断乳した乳児期の事ではなく、子供ではなくなったという意味です。ヴァルミツバのように、成人〜大人の仲間入りをする年に達した13歳くらいの時のことを指していて、その時を祝宴をもって祝ったと書いてあります。
だから、これは神の命令ではないですが、ユダヤ人は、この時を
アヴラハムがイサクを祝ったように、盛大に祝うことをします。
日本人は、七五三の年に、お宮参りをして祝います。
でも、メシアを信じるなら、その子供の成長は祝い、喜んでも、
異教の神々の神社仏閣に出向いて、異教の神々に祈願などしません。
子供が産まれても、異教の寺で神々に対してお宮参りなどしません。
神の教えを理解する人は、男の子に異邦人でも割礼を授けます。
これは、アヴラハムからずっと続いた契約の印であり、その場に参加するのは、感動的な体験でもあります。
アメリカ人は、聖書での、神が伝えている意味は分からないまま、
病院で生まれてすぐ男の子に割礼を授けるのが普通のことなのです。これは、アメリカに移民したユダヤ人により、トラーが教えられた
痕跡でもあります。
日本人には分からないでしょう。でも男性にとっては、割礼は理に叶う事であり、霊的な意味を理解できなくても分かるのです。
知らない間に、親にやってもらっていたら、ありがたい事なのです。それは自分自身だけでなく、将来の相手のパートナーである女性の健康を守る役割もあります。神の知恵は、人間の知恵を遥かに超えています。神が創造主であるから、全てを知って人に生き方の全てを
教えている、それを聞く〜シャマする、それが人の生き方です。
体〜霊は一体であり、境界線が敷かれている、神が聖別されている
神の約束が永遠である証拠の印として、与えられているものなのです。割礼に関しては、深い考察が必要です。
さて、聖霊により記された神の言葉、教えを人間が勝手に言い換えて、終了したと言い続けている矛盾に気がつかないとなりません。
それは、神から出た言葉ではなく、エデンの園から同じあの蛇の騙しの声です。
誕生日やバルミツバ、その他の国の文化の祝いや記念日を祝うのは
その国に住んでいるからであり、その記念日を祝っても、メシアを
知る人は、異教の神々に祈願することなどしません。
そして、異教の神々への祈願が裏にある例えば、日本のお正月でも、
その文化の中で、家族の中で一人だけ、その日みんなと宴会して
祝いませんなんていう、行動も取りません。
その中にいて、自分は神の中に聖別された人である事実を保って
生きれば良いのです。
そうでなければ、修道院にこもるか、又はエッセネ派のように、世俗から離れて孤立した、神のデザインではない隔離された場所で生きる生き方をしてしまうことになります。
この世から出ていかないとならなくなってしまうとパウロが言ったことがそれです。1コリント5:10
この世にありながら、この世の生き方に染まらない生き方、聖別された生き方を保つ、それがイエシュアがヨハネ17章で最後に祈られた
祈りなのです。
この世にあってこの世のものではない、天の御座に実は今私たちは
居る、不思議な存在であり、神も内側に住まわれている。
この世の仮庵〜朽ちる体に、イエシュアが内側に住まわれている、
その事実を、世の中の汚れ、異教神の教えに汚染されないまま、
安全スーツ=神の言葉の防御服を着て生きるのです。
それを捨てるから、聖別を汚され、危険が頭脳に体に入りこんで
来るのです。
ヨハネ 17:15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。
17:16 わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。
17:17 真理によって彼らを聖別して下さい。
あなたの御言は真理であります。
聖別〜神が創造された通り、神の言葉で語られる真理通りを生きるようにと、イエシュアが祈って下さった意味を理解しないとなりません。聖別=神の目的通り、創造の性質通りに生きる、それが神の言葉
トラー=婚姻契約に記された人間の生き方なのです。
西洋人が作った宗教、その宗教が作った日曜礼拝の裏にあるのは、
太陽神信仰=太陽=サン、サンデー、日曜日。
当時の大衆土着宗教〜ローマ帝国に浸透していた宗教の記念日=日曜日は、同時に皇帝を崇める日であり、一般大衆に馴染みがあるので、
彼らが受け入れやすいように、ヘブライ=イスラエルの神、
イエシュアが教えた記念日、シャバットを変えて、日曜日にしたのが、日曜礼拝を作って、シャバット=第7日目を変えた本当の理由です。なぜなら、神はシャバットは永遠に第7日目に祝うと教え、それが神との関係にある人々が生きて祝う、目に見える婚姻指輪=印として与えたと言われたからです。未来預言も、イエシュアが来られたら、
全世界が神のモアデイムを祝う預言がはっきりされています。
復活の時は、いつか分かりません。土曜の日没〜夜中に復活したら、
それはもう、聖書の暦では週の初めであり、それで日曜日と言えるかもしれませんが、グレゴリオ暦では、土曜の日没〜夜中は、まだ
土曜日でしょう?
というか、復活がいつの日、時でも、シャバットは、第7日目であり、他の日に変更がないという、神の教えの基本中、基本を知らないとなりません。永遠に変わらない!と神が言っているのに、人間が勝手に変更したことを覚えておいてください。神に対しての冒涜行為です。
クリスマス、イースターの裏にある異教の神々の祭り、そのシンボルなどに付いて、書きたいと思いますが、その前に、クリスマスという言葉や祭りは、聖書にないという事を知っていますか?
イエシュアが生まれた日時も、聖書には書かれていません。
12月25日にキリストが生まれたとしたのは、人間が勝手に決めただけです。
当時のある人たちは、知っていたのでしょう。イエシュアに会いに来た人たち、もちろんヨセフとマリアも。そして、その他の人も、
救い主が生まれたその日を知っていたのに、それが福音書以降には
書かれていないのは、書く必要がないからです。
でも、ヒントはあります。バプテスマのヨハネの父、大祭司ザカリヤの神殿での任務日程表です。これにより、いつ家に滞在している期間か分かります。いつエリザベトが懐妊できるのか、推測できます。
そして、エリザベトとマリアが会った時期。
そして、羊飼いが、野宿をするのは、羊の出産を野外で見守る時期である事です。1世紀のイスラエルでは、真冬12月に羊は出産しません。
この羊飼いはただの羊飼いではありません。そしてベツレヘム、
過越の羊に関して、調べると見えてくる色々な事があるのです。
それを先に書きたいと思います。
イエシュアの地上での誕生が預言されていました。
ミカ5:2 しかしベツレヘム{パンの家}・エフラタ{実り豊かな場所}よ、あなたはユダ{の氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。
ベツレヘムはエルサレムから9.6キロ離れた小さなユダヤ人の町でした。 「ベイト・レヘム」という名前は「パンの家」と、実り豊かな「エフラタ」を意味します。天から降った生きたパンであるイエシュアは「パンの家」ベイトレヘムで生まれました。ヨハネ6:51
ベツレヘムの人口はおそらく 1,000 人未満で、イエシュアの時代にはおそらく数百人しかいなかったでしょう。
来るべきお方はイエシュアの約千年前に同じくベツレヘムで生まれた羊飼いの王ダビデの子孫であると預言されました。
(詳細についてはイエシュアの誕生を参照)
イエシュアの生誕の地であること以外に、ベツレヘムを非常にユニークなものにしているのは、ラビの書物によると、ベツレヘムで生まれ育った子羊が、神殿のコルバンに使われたという事実です。
ベツレヘム周辺の丘には、神殿での儀式礼拝に使用される数百頭の
子羊が生息していました。
毎日の神殿のコルバンには、ベツレヘムから来た傷のない羊2頭が必要でした。イスラエルの神の御前で、一匹は朝に、もう一匹は夕方に
コルバンとして捧げられました。
過ぎ越しの祭りや他の祭りの際にも、1歳の子羊が必要でした。
聖書に羊飼いが、イエシュアに会いに来た記事が記されていますが、
ただの羊飼いではありません!
<羊飼い兼祭司>
これらの特別な子羊の世話をする羊飼いたちは、レビ族の出身です。彼らはレビ族の祭司であり、羊飼い(羊飼い兼祭司)でした。
彼らの仕事は、レビ記にある永遠の神の指示に従って、神殿の供物として十分に健康で傷がなく、純粋な動物を育てることでした。
これらの羊飼い兼祭司以上に「永遠の神の子羊」を迎えるのにふさわしい者はいないでしょう。
大祭司が神の前に捧げる動物が、タホー=きよい、しみ、傷、欠陥がない状態であるのかを、判定出来る人たちです。
そして、大祭司ザカリヤの息子である、バプテスマのヨハネもレビ族
アロンの家系の大祭司であり、イエシュアを、「世の罪を取り除く
神の子羊」と宣言できる立場であった事は、全部意味が繋がっているのです。この宣言は、大祭司に以外に、コルバンの動物を認定する
権威を与えられてはいないから、そう宣言出来たのです。
しかも、ヨハネは、イエシュア=メシアと認識していたのです。
ベツレヘム周辺の地域で生まれた雄の初子羊はすべて聖なるものと
みなされ、エルサレムでコルバンとして捧げられるために取っておかれました。
代々受け継がれた羊飼いたちが聖なる羊の群れの世話をしました。
子羊が成長すると、羊飼いたちは神殿で犠牲を捧げるためにエルサレムに連れて行きます。犠牲に捧げられる子羊には傷(足の骨折や怪我)がないことが重要でした。子羊が生まれた後、しみや傷のない状態を保つために(聖職者の古着から布を取った)産着で包まれ、
その後、子羊は落ち着くまで飼い葉桶に寝かされ、踏みつけられないように守られたのです。
春の過越祭の時期には、コルバンとして捧げられる子羊は1歳で傷のないものでなければなりませんでした。つまり、前年の過越祭の時期
春に生まれた子羊であるということです。子羊の血がすべての罪のために完全に流されると、祭司は人々のほうを向いて「完了した」または「成し遂げられた」と、儀式の後に宣言したのです。
イエスも、木にかけられて、血が流された後、同じ言葉を発しました。
この意味の繋がりが見えますか?大祭司が、コルバンの罪の贖いが
完了して、血が流された後、会衆に向かって、「完了した!」という
のは、罪の贖いが表される=影=子羊の血の贖いの儀式が完了した時に使われた言葉であり、イエシュアが、同じように過越の子羊として
木にかけられて、「完了した」と言われた同じ言葉が、同じ意味を持って宣言されているのです。永遠の中に屠られた子羊の血、その贖いが、過越の祭りの子羊の血の贖いの儀式と同じ時に木にかけられ、
同じように「完了した」と宣言しているのです。
地上で、永遠に存在している子羊の贖いのコルバンが、完了している事を、人々に実際の子羊イエシュアを通して、証明された瞬間でした。
ヨハネ19:30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、
「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。
続く