紀元前160-167年代にあったシリアによるエルサレム神殿の剥奪、
エルサレムの神殿を、ゼウスの神々の偶像で汚し、イスラエルの神の祭壇を、人間の食べ物ではない、神の祭壇に捧げられない汚れた動物=豚とその血で汚し、そして、ユダヤ人達自らが、そのようなギリシャの神々〜異教徒の文化に染まり同調する人々がいたのです。
そして、神が禁じた汚れた行為〜汚れた動物をユダヤ人が食し、
神との関係にある印として与えられたシャバットを汚し、異教徒の
慣わし、儀式、シンボルを通して、異教の神々を崇拝するよに同調圧力をかけられたのです。
反キリストの正体は、イスラエルの神の実態=トラー=契約の命を
生きることを禁じること、それが聖書に警告として記されている
神に敵対するものの、正体なのです。
エデンの園の最初から、神が警告されているでしょう。
神に敵対するものは、何を人にしましたか?
神の言葉を潰し、曲げ、神の教えではない事を、蛇の言葉で語り
人を騙したのです。神の言う通りを、神の性質そっくりに神に造られた人の性質ではないことを、神の言葉を曲げて、別物を、アダムと
ハヴァに、騙して行動させたのです。
その結果、人の中には、ズレ=罪=本来の人の性質ではないものが
入り込み、エデン=喜び=神の中から外側に飛び出し、神との隔たりの場所の中に閉じ込められ、神と人との間にそのままでは超えられない隔たりができてしまったのです。神の目が見る通りではない、
別の見方をする目が開かれ、そして死ぬことになってしまったと書いてあります。
その隔たりの場所に閉じ込められた一人一人の元へ、イエシュアが
尋ね求めて救い出しに来てくださったのです。
神の方から来てくださったのです。自分の努力で神を見出せない、
命から切り離されて、死んだ状態だったからです。
それが、神の一方的な贖いの業なのです。扉を叩くそのイエシュアの声に応答して、信仰により信じて、扉を開けただけなのでしょう?
だから、人間の手柄、行いで、イエシュアと出会ったのではない
義とされたのではないということは、その体験をした人には、説明もいらない程、明らかな事なのです。
それなのに、ユダヤ人は古代は律法を生きて義とされたなどという
ズレた思想を語るのでしょうか?人間は皆同じ、イエシュア=救いの方法は1つしかない!とイエシュアも言った通りだからです。
イエシュアは生ける水〜エデンの園から一緒に流れて出てきた水、
救いの岩として表され、神が存在し、神が特別な目的をもって自分を造り、愛してくださり、気がつない時にも、永遠の中から既に共に
居て、導いて下さっていたのです。いつか、イエシュアに直接出会える日まで。人生に起きた、起きる出来事の1つ1つは全て、神に出会うため、そして、神をより深く体験し知っていくため!だから、問題ばかりに目を向けると、神の本当の目的が見えないまま、平安奪われ、エデン=よろこびから飛びだした状態になるのです。
神の言葉に敵対する教え!その警告は今も同じである事を、覚えて
おかないとなりません。
反キリストは、神の言葉〜神が伝える人の性質とは異なることを、
生きるように、必ず促してきます。
神の言葉を生きることを禁じる、それをするのが、神に敵対する物の正体だからです。それを理解しない人が、今は神の教えが廃れて、
なんでもあり〜LGBTQ受け入れましょうなどという、とんでもない
ソドムとゴモラの神を知らない人のように、愚かで、無知な事を人に伝えているのです。教師や牧師、教皇がそんな事を率先して言う
終わりの時代、ノアの時代と同じなのです。
そして、マカバイ戦争の裏にあった異教徒による、イスラエルの神の
神殿の剥奪、神の神殿を汚すこと、そしてイスラエルに神の言葉を
破り、聖別を汚す生き方を死刑を持って、イスラエルに強要させた事これを忘れてはならないのです。
それって、中世のカトリックも、ユダヤ人に対してしてしまったでしょう。神の教えを知らないとは、人に罪を犯させるのです。
割礼を禁じ、シャバット、神の祭りを祝う事を禁じ、汚れた動物を
食するように強要し、そして、人間が作った宗教の教えを生きるように強要したのです。
パウロと同じく、メシアを知らない時に、偽メシアを信じる人たちを
迫害し、反対していた、あの動機は、純粋な正義感でしょう?
カトリックも、信じたら神の言葉を生きるのは、恵を捨てた生き方だ、信じたらユダヤ的な事、古い教えを一切やめよ!という、人間の教えを、神の教えだと勘違いし信じ込み、それをユダヤ人に、正義感から、それが神の教えだという嘘を本気で信じて、強制していたのでしょう。同じです。神の前に罪を犯していても、神の言葉は廃れたなどという、人間の嘘、思想を神の教えと信じ込んでいる人には、
罪が何かと神が教えている事に対して無知になります。
罪の基準=神の言葉の方を捨て、自分の意見、感覚に頼れば良いと教えられてしまっているからです。
神の教えを本当には分からない、正しく理解できていない、だから、
そんな罪を神の前に犯してしまっても、それが今の時代の正義であると考えて、罪が罪とも認識できない状態になってしまっているのです。
反キリストの反乱、イエシュア昇天以降の西暦70年、神殿崩壊と
共にその時代にも、同じことが起きました。
イスラエルの神の教えを生きること、モーセの五書に記された契約の
命の実態を生きることを、同じく処刑と重税を持ってユダヤ人、
そして異邦人イエシュア信者にも、ローマ帝国は強要したのです。
110万以上のユダヤ人が殺害され、9000人くらいの人が奴隷となり、その他のユダヤ人は、世界へ散って行ったのです。ユダヤ人の書や、トラーが異邦人により焼き捨てられた。それは、神の言葉が廃れたと口頭で言う事の、行動に移した形です。それ以降、歴史の中でユダヤ人メシア信者は地下にもぐり、彼らがどうなったのか語られる事がないから、知らないだけなのです。多くのユダヤ人イエシュア
信者達は、パリサイ派の人だった事知っていますか?
クリスチャンはパリサイ派を誤解しています。当時1世紀も、ユダヤ人はほぼパリサイ派。パウロもパリサイ派。ある群れに、ズレた考えをする人は必ずいるでしょう。その一部の宗教エリートの記事を福音書以降に読んで、パリサイ派=偽善者というそういう偏見をクリスチャンは持たされています。使徒5:34、パウロのトラーの大教師、
ラバン ガマリエル先生は、イスラエルの人皆に尊敬されていたと
記されている。尊敬され同時に変な人なんてありえないでしょう。
使徒15章に出てくるのと同じく、パリサイ派のイエシュア信者により、イエシュア=メシアの実態を、シャバット、過越や仮庵の祭りのを通しても、イエシュアが教えられ続けて行ったのです。
これは、話してもクリスチャンには理解してもらえませんが、メシア
信者のユダヤ人達が祝うシャバットや、過越、仮庵の内容、意味の深さがだいぶ違うのです。メシアを知る人たちは、その祭り、記念日の
全てがイエシュアの業を語り教えられている事が分かるから、
イエシュアの要素がはっきり見えて理解出来るのです。
そして、異邦人は、ユダヤ人の群れと、ヘブライ聖書を教えられる
パウロのような教師達と、完全決別、決裂し、オリジナルの神の言葉教えから離れて、人造西洋宗教の教えの世界へ、完全に移行して行ったのです。だから、クリスチャンの世界で教えられている教えは、
聖書とは異なる思想=神の言葉終わりありきで語られ、1世紀当時の人たちイエシュアが教えた、生きた、聖書に書かれている教えの実践は今はしない。ヘブライ聖書に書かれている通りに、教師が誰も教えない。全て翻訳、全てデイスペンセーション神学思想を通して教える宗教思想の教えです。そして、神の創造された本物の記念日、
アポイントメントの日、モアデイムである、シャバットも、新月も、過ぎ越し、仮庵の祭りも一切祝わないまま現在に至ったのです。
その代わり、西洋人が作った宗教の人間が作った、聖書に書かれてもいない、神が祝えと命じていない記念日、日曜日礼拝、クリスマス、
イースターを、祝っているのです。
クリスマスに関しては、近代近くでも、アメリカのある州では、
それは聖書ではなく、異教神の祭りであるから、祝わない!という
法律があったのを知っていますか?あるアメリカ人達は、正しい理解をしていたからです。だから、今のようになったのは、本当に近代、最近の話です。ハロウイーンが日本で30年前は祝われていなかったのに、突然浸透したのと同じです。他の国でも、突然そのような
異教徒祭りは浸透するのです。
異教の神々、イスラエルの国以外は、神の創造された記念日を国全体で祝いません。特徴的でしょう。誰も神の創造された記念日は祝わない。でも、異教神の祭りに繋がった、クリスマス、イースターは
クリスチャンやカトリックでなくても、世界中が祝うでしょう。
その裏にいる本物の主役は、異教の神々、異教の女神だからです。
クリスマスのテーマは、キリストと思っているかもしれませんが、
それはこじつけただけで、その裏にあるのは、異教の神々、女神です。
聖書を正しく書いてある意味通りに、クリスチャンの中では、
教えられないまま、神が昇天以降、神の教えを破棄されたと言う、
西洋人が勝手に神の言葉を踏みにじって編み出した教え、ローマ帝国がモーセの五書を生きることを禁じたことを知らないまま、神が神の教えを破棄したなどと、聖書にも記されていない、神に対する反逆的な空想の神話を語り続けているのです。
聖書にも書かれていないことを、あたかも神が言ったかの如く言い続けて、神に対する偽証をし続けているのです。その裏にいるのは、
神に敵対するもの、エデンの園に忍び込んだ、あの動物である事に
全く気がついていないのです。
自分で聖書を先入観を捨てて読めば、必ず真実が分かるはずです。
今まで教えられてきた、人間の思想、神の言葉が、イエシュアが来られてから、又は昇天以降変化したという、聖書に書いてもない嘘を
捨てて、初めて聖書を読むように真っ新な頭脳で、何が書いてあるのか読めば良いのです。
パウロの書簡の誤解されて解説している箇所は、言語で正しく何が
記されているのかを、知らなければ、人の思想が反映されている翻訳では、真意を読み取るのは、正しく教えられない限り、真意を読み取るのは難しいでしょうが、福音書〜黙示録の中で、汚れた動物を食べ、割礼を禁じ、そして神の創造された記念日、レビ記23章ではない、日曜礼拝、クリスマス、イースターを、1世紀の人々が祝っていたなどという記録がいったい、聖書のどこに書いてあるのか、注意深く読んで探してみれば良いのです。
聖書に書いてあるのは、男の子が生まれたら、異邦人でも割礼を授け、そして、シャバット=第7日目を祝い、新月、過ぎ越し、仮庵を
祝っていた記録しか書いてないでしょう?
イエシュアでさえ、両親が割礼を授けているのです。
割礼、改宗儀式、神の教えのどの箇所も、神の前に救い、義とされる目的でやるならば、それはズレています!と教えているだけです。
クリスチャンで言えば、生まれ変わる、聖霊を受けるために、分からないけど、洗礼をするという事と同じだと理解してください。
洗礼をしたから、救われたのではないでしょう。イエシュアを信じたから、救いを受けて、聖霊を受けた!これが分かれば、理解できるはずです。
どうして、真実に目を向けないのだろうかと、不思議に思ってみれば、正しい疑問、質問を自分の中に得た人は、必ず聖霊=神の言葉で
神の言葉で記された事実を、神の言葉自身である、聖霊が書かれている真実通りを、探り求める人々に必ず教えてくださいます!
その時に、聖書に書いてあることとは違うことは、聖霊は教えないという、大原則を覚えておいてください。
クリスチャンの世界で教えられている事は、聖書に書いてないこと、
神の言葉の方を曲げる、否定する、聖霊により書かれた、神の言葉を否定する教えをしているのです。
ある翻訳で、春の「過ぎ越しの祭り」除酵祭り=種無しパンの7日間の祭りを、イースターなどと訳していますが、とんでもない創作翻訳です。大体イースターという名自体が、異教の女神の名、聖書には、
アシェラ(その夫のバアル)、イシュタル、イースターなどと呼ばれる、忌み嫌われる女神の名の代表として書かれているのです。
イスラエルの神の祭りを、異教の女神の名を付けて呼ぶ、冒涜的ではありませんか?
一般的に伝統で継承されてきた様々な教え=人間が神の言葉に人の
思想を加え、又は神の言葉の方を破棄して作った宗教の教えは、
神の純粋な教えではありません。神はそれを姦淫の罪と呼び、厳重に
警告、禁止しているのです。気持ちさえあれば、動機が純粋なら
神は何でも受け取ると勘違いするのは、神が人が想像するような
お方ではなく、それらの異物を受け入れることが出来ないことが
聖書に記されていても見えないだけなのです。
神は忍耐深いお方であり、ある時は、イスラエルの背教〜神の教え
婚姻契約の生き方〜トラーに記された生き方からズレて、高きところ
異教の神々の祭壇で、異教の神々の儀式、慣わしを通して、イスラエルの神を拝んでいても、1000年近くも無言でしたでしょう?
どうして?人がズレたから、いきなりガッツ〜ん、などと殴り込みかかるのは、イスラエルの神ではない。長く忍耐してそのズレに気が付くように待って下さっているからです。
聖書は100%モーセの五書を語り、教え、解説しているのです。
福音書以降もモーセの五書の短い解説です。
イエシュアが地上に来られて、トラー=モーセの五書=婚姻契約の
生き方、人間本来の生き方を100%フルに神の意図通りに教えて
実際に生きて人にお手本を示した、それが「成就」という言葉の意味であり、成就〜キリストが生きたから古い縛りの教えは終わり〜と
解説するクリスチャンが教えられている事は、聖書とは真逆の解説
イエシュアが意図もしていない、神の言葉に対する妨害、冒涜の解説に他なりません。