申命記26:5 そして、あなたはあなたの神、主の前に述べて言わなければならない、『わたしの先祖は、さすらいの一アラムびとでありましたが、わずかの人を連れてエジプトへ下って行って、その所に寄留し、ついにそこで大きく、強い、人数の多い国民になりました。
26:6 ところがエジプトびとはわれわれをしえたげ、また悩まして、つらい労役を負わせましたが、
26:7 われわれが先祖たちの神、主に叫んだので、主はわれわれの声を聞き、われわれの悩みと、骨折りと、しえたげとを顧み、
26:8 主は強い手と、伸べた腕と、大いなる恐るべき事と、しるしと、不思議とをもって、われわれをエジプトから導き出し、
26:9 われわれをこの所へ連れてきて、乳と蜜の流れるこの地をわれわれに賜わりました。
26:10 主よ、ごらんください。あなたがわたしに賜わった地の実の初物を、いま携えてきました』。そしてあなたはそれをあなたの神、主の前に置いて、あなたの神、主の前に礼拝し、
26:11 あなたの神、主があなたとあなたの家とに賜わったすべての良い物をもって、レビびとおよびあなたのなかにいる寄留の他国人と共に喜び楽しまなければならない。
イスラエルも元々、異邦人です。そして、エジプトに430年
滞在し、奴隷、別の王、主人、偽の神々に支える国から脱出したのです。エジプトを出た時に、イスラエルと共にエジプトを出てきた異邦人も、イスラエルと共に約束の地に入ったのです。
だから、寄留の他国人〜異邦人も同じ!神の同じ契約、教えを
生きるとずっと神が教えているのに、異邦人とイスラエルとでは
別物教えを生きる!と、人間が神の言葉を塗り替えて、神に成り変わり、神の教えを言い換えている事に気がついて下さい。
神の教えは、エデンの園から永遠の中から変わりません!
変わると思っているのは、人の思想を土台にして、聖書に書かれていないことを、想像、空想、考えているからです。
イザヤ14:1 主はヤコブをあわれみ、イスラエルを再び選んで、これをおのれの地に置かれる。
異邦人はこれに加わって、ヤコブの家に結びつらなり、
聖書に書いてある事を、見逃して読み続けている事に、気がつきませんか?聖書には何と書いてありますか?一貫して、同じことが記されています。異邦人も、アヴラハム、イサク、ヤコブ〜
イスラエルの家に連なりと書かれているのです。
同じオリーブの原木〜イエシュアの木に、野生の異邦人のオリーブの枝も接木される。
イスラエルの神=イエシュア=本物の羊飼いの羊=イスラエルの
同じ囲いに、異邦人である羊も加えられる!
どうして、聖書とは違うことを、言い続けているのか、聖書に基づき考えれば、真実が見えます。
レビ記19:33 もし他国人があなたがたの国に寄留して共にいるならば、これをしえたげてはならない。
19:34 あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない。あなたがたもかつてエジプトの国で他国人であったからである。わたしはあなたがたの神、主である。
ずっと記されているのです。他国人もと。
疑問に思えば良いのです。どうして神から与えられた婚姻契約を、異邦人はそれほどまでに忌み嫌うように教えられてきたのか?そして、トラー=モーセの五書に記されている教えと、
福音書以降に書いてある教えが別物であるという、嘘まやかしを信じている原因は、異邦人が聖書を正しくとらえず、彼らの思想の解説を聖書の記述だと勘違いしているからです。
神の言葉を神が否定したら、自分自身を攻撃するようなものです。
神が神ご自身を否定するならば、その時点で、それは聖書に書かれているイスラエルの神などではありません!
イエシュア=イスラエルの神は、永遠から永遠に同じ。昨日も今日も同じ、変わらない!神の言葉=契約も変わらない!と教えているのに、全く通じないのは、人の思想という洗脳に妨害されているからなのです。
創世記12:1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、
あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
創世記12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。
地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。
福音は最初から同じです。そして、アヴラハムが国を出て、
行って〜とは、イエシュアが言われた言葉と同じ意味です。
あなたがたは行って〜、同じ福音を伝える!アヴラハムに与えられた信仰による神の義、神の民となること!マタイ28:19
元々異邦人のアヴラハムが、一人突然選び出された理由を、神が
アヴラハムに伝えています。アヴラハムを通して、全世界が祝福されるためです。この箇所たくさんの情報、内容が詰まっています。アヴラハムの父、テラは異教徒、異教の神々を信じる異邦人です。もちろん、このアヴラハムの家族、そして親族、周りの皆が異教徒です。「あなたの国を離れて」とあるのは、翻訳では
見えないことが書かれています。
あなたの国〜エレツという言葉ですが、このエレツとは、「意志」
という意味のある同じ語源の言葉です。自分の考え、感情、この
家族、親族、土地で培ってきた全てから、完全に離れなさい!
私達一人一人、イエシュア=イスラエルの神と出会った人も、
同じことをするように、神に教えられています。
もちろん物理的に家は出ないし、同じ国、街、家族で生きるのですが、何から離れるのか。慣れ親しんだ、異教の神々、異教の文化で生きていた、染み付いているそれらから、完全に決別した
生き方をするということです。でもこの世にあってこの世のものではない。この世に生きているから、仙人のように山にこもり
生きるのでもないのです。
その前にアヴラハムに神が言われた、「行きなさい」とは、
ヘブライ語では、とても緊急性のある言葉、言い方です。
今すぐ!ただちに出よ!レッフ レハという言葉です。
前に向かって、本物の自分に向かって、今即座に偽物の生き方から脱出する!
私達は、生まれる前から、先祖代々誰かの生き方の記憶が、肉に染み付いて生まれてきています。そんなわけない?ではなぜ、
最初の人、エデンの園のアダムとハヴァの罪が現代の人、今日生まれてくる人の上にも影響しているのか?考えたら分かります。
偽物の生き方、教えに決別し、それから即座に直ちに離れる!
それを、教えられているのです。そして、アヴラハムはロトを
一緒に連れて行ってはダメだったのです。
慣れ親しんだ教え、家の家訓、その他全てから一切決別しないと
ならなかったからです。
新しい生き方を、1から教えられる旅路に出る。
これは、イエシュアを信じた一人一人皆同じです。
エペソ2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と
称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、
2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。
2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く
離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、
2:15 数々の規定から成っている「戒めの律法を廃棄した」のである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、
2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
2:17 それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。
2:18 というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。
2:20 またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。
書いてある通りに、正しく読めば、パウロが何を言っているのか
明らかです。
異邦人〜肉の生まれはイスラエルではい。でもイエシュアを通して贖われ、救われたから、同じイスラエルの神の大家族の一員となった!と書かれているでしょう?
どうして、イスラエルと異邦人は別の2つの家族などという、
聖書ー神が伝えている事実とは別のこと、デイスペンセーション
神学の教えが唱えることを、信じて、聖書に書いてあることを
信じていないのか?疑問に思ってください。
15節に書いてある、「戒めの律法」とは、モーセの五書の事、神のトラー〜教えのことなどではありません!このような誤解しした聖書の読み方、書いてある事実の読み違えをしているから、
神が神の教え=トラーを破棄した、罪の定義を取り払ったなどと聖書に書いてもない、解説をし続けてしまっているのです。
福音書以降を読むには、当時の人の教え=口頭トラー、伝統の教え、人が考えたトラーの解釈で編み出した複雑な教え、ルール
それらを、「戒めの律法」「先祖の言い伝え」などと書いてあるのです。
モーセの五書=神の教えの事などではない、事実を把握して下さい。キリスト教の中にも、数多くの聖書とは関係ない、人が編み出した教えがたくさんあるのです。それを、戒めの律法と呼べば良いのです。
神の教えではないのに、人が考えついた教えを生きている。
1世紀当時も、神の教えとはズレた教えを編み出して、
重たい、人が負えないくびきと書いてある通り、人にそのような人間の教えを生きる事を要求していたのです。
使徒を読んでも、分かる通り、当時ユダヤ人は、人の作った伝統の教え「戒めの律法」により、汚れたゴイム=人種、異邦人、
神の契約の中に、当然生まれつき居ない人種とは、一切関係を
持ってはならない。食事などしてはならない。
交わりも持ってはならないという厳しい掟があったのです。
異邦人は、神の契約の中にない、神の家族でもないと考えていた。しかも、異邦人は異教の神々に仕えて、異教神の神殿で異教の神を礼拝する人達であり、汚れている。異邦人は、イスラエルの神の教えを知らないので、汚れた生き方を平気でできる。
異教の神殿で、神殿娼婦と交わり、汚れた動物、豚などを平気で
絞め殺し〜これは、異教神に対する儀式〜残忍な方法で、しかも
人が食してはならない汚れた動物=豚を祭壇にささげ、その血まで飲む。こんな汚れたことをして生きている人達と一切関わるな!という掟です。
それが、使徒15章に書かれている、エルサレム会議の論点でした。イエシュアを信じた後に、異邦人は神の教えを知らないから、引き続き汚れた生活をしていたのです。もしも、パリサイ派の群れに、イエシュア信者たちが入り、ユダヤ人達と交わりを
持つならば、これらの4つだけは、まず最初に神の前に罪!汚れた行為であり、そんな事をしながら、神の民となれない、神の民と交われない事をまず知ってくれれば、交わりに入れますという、超寛容な対策を、パリサイ派の長老が提案したのです。
この意味は、異邦人は、改宗儀式=ユダヤ人になる改宗儀式をしないと、神の民の一員にはなれないと、人が作ったルール「戒めの律法」をみんながやっていたからです。でも、同じように救われた異邦人は、ユダヤ人になるという長期間かかる複雑な改宗儀式〜それはトラーに記された神の教えなどではないから、
そういう事を異邦人に要求するのはやめましょうと言ったのです。
この改宗儀式を、「割礼」と呼んでいるのですが、アヴラハムの割礼とは違います。もちろん、その儀式の中には割礼もありますが、アヴラハムの割礼が、人の教えにより無効になる事は決してないのです。
何を話しているのか、じっくり考えないと意味不明だと思うので、1つ1つ考えて、咀嚼していけば良いのです。
人は、何かをしたから、救われるのではない!これは、理解できると思います。でも、神の教えは、永遠に無効にはならないのです。
当時のユダヤ人の間の問題は、改宗儀式をしていない異邦人との付き合いができない、してはならないという掟があったのです。
でも、この使徒15章のエルサレム会議は、改宗儀式をしていない異邦人でも、このおぞましい行動〜けがれた動物を食する、
しめ殺す、血を飲む、祭壇に捧げる、異教神殿で神殿娼婦と淫らな交わりをする、それだけはまず、神の教えに反しているという事を、理解して、それら一切をやめて下さい!
これをはっきり、理解しないとならないのです。
続く