契約の要約の第9番目 あなたは偽証しない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

今日10月11日の日没、ちょうど週の第7日目のシャバットと

重なる日に、ヨムキプルを迎えます。

去年の大贖罪日は、9月24日、日曜日の日没から、9月25日

月曜日の日没まででした。そして、その日は、日曜日の日没〜

月曜日日没でも、その日を、シャバット=止まる日として祝う

それが、神の創造された神が神の子らを呼び出している、

アポイントメントの日、定めの日、モアデイムのデザインであり、神がデザインした神の聖別されたアポイントメントの呼び出し日の祝い方です。シャバットに始まり、シャバットで閉じる。

 

ヨムキプルには、様々に福音の豊かな教えが盛り込まれていて、それら全て、イエシュアそのものが詰まったものです。今日、

明日が、ヨムキプルの日なので、時間が許すならば、以前に書いた記事もアップしながら、書きたいと思っていますす。

福音と、実際に地上で起きた預言的出来事〜神の創造されたアポイントメントの日=モアデイムとは、ピッタリ重なることが分かりますイエシュアの業、福音の全て、中核は、全て神が創造された記念日=アポイントメントの日に凝縮され、教えるよう、

神がデザインされたからです。ヨムキプルで、エルサレムの神殿で行われた一連の出来事、儀式は、全てイエシュアの業を表して教えています。これは、又明日に向けてアップします。

 

今日は、婚姻契約の要約の9番目、「あなたは、偽証しない」と神は人に教え、それを考え、この一年でずれていた生き方を、

神の言葉に合わせて振り返る。軌道修正、神の言葉に戻って、

神が伝える生き方を実践することに戻る!それが本当の悔い改めの意味です。

表向きの形ばかりやっても、何も身に付かない。神の教えを理解して、初めて神の言葉に根付いて生きる、実際の練習をすることが開始できる。

だから、神の伝える言葉を求めよ!と伝えられているのです。

神を求めよとは、闇雲に、神さま〜と叫ぶことではない。

神の顔を想像して、崇めます〜信じます〜ということではない。

何をしなさいと、アバに言われていますか?神の伝える言葉=

聖霊、言葉から神が何を自分に伝えているのかを、熱心に探り

求め続けよ!と言われているのです。空想のイエシュアの顔を

自己流に拝むのではない。

顔=神の実態=言葉=聖霊=イエシュア!と書いてあるのです。

目に見えない神は、神の言葉を通して、人に関わり繋がっているのです。人が書いた設計図、記号、デザインの型紙、それをその通りに作れば、目に見えないものが現れでるでしょう。それと同じです!神の言葉は、DNA、神の深いところにある考えを、人に直接伝える手段なのです。目に見えない神の実態が現れ出るのは神のDNA=言葉を神の意図通りに生きる人の中から環境に現れ出て、人に初めて、神の性質、実態が認識される、見える。

聖霊に満たされよと言うなら、その状態は、神とピッタリ=神の意図、意志と一体である、その状態は、神の伝える教えを自分の頭脳がぴったりキャッチする周波数の下、中にいて、その通りに生きるという意味です。

だから、ヘブライ語では、あなたがもし〜神の声の下で、神の声の中で、神の声を聞くならば〜と書いてあるのです。

神が言ってもないことの中で、神の言葉とは別の教えを聞いていても、それは別のチャンネル〜神の言葉=教えではないものを聞いているだけです。別の教えを生きて、神との隔たりを作り続ける状態を生み出すのです。

だから、遠く離れた神〜!見えない神が、もっと見えなくなってしまう状態を作り出しているのです。

見えない神を見るには、神の言葉=聖霊に浸ること、神の言うことから、右へも左へもそれてはならない!神のトラーをしっかり

握り離すな!全ての警告は、エデンの園と同じ!神の言葉から

あなたの思考、意識をそらせるな!神の言う言葉に、いつもいつも意識、注意を向けて生きて!トラーに書かれたその神の教えをパウロの言葉で伝えているでしょう。

2コリント 10:5 神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、
思いとは=思索です。自分の頭脳、思考をメシアが言われることに「服従」させるとは、神の言葉に聞く!聞いて神がいう意味通りを理解したらその通りに行動する、生きる!という意味です。

 

蛇の教え、誘惑は、神の言葉のどんな教えからも、人の意識を

そらし、はぐらかして、別の教えを魅惑的に聞かせて、人を偽物の添加物で染めて、姦淫の罪を人に犯す事を促すことなのです。

イスラエルの神の性質通りに生きることを妨害している!!!!

それをずっとされていることに、気がついて下さい。

あなたが、神の言葉を捨てるなら、蔑ろにするなら、律法(神の完全で誤りのない永遠普遍と神が言う言葉)は廃れたと本気で

信じているなら、あなたの意識は聖霊=言葉=神=イエシュアとピッタリに生きることに対して、邪魔、妨害、隙間を作り、隔たりを作り、別物=宗教の教えを生きて、それが本物と偽物と取り違え、イスラエルの神のものではない、似たように見えて、実態は全く非なる教えを生きることになります。

イスラエルの神の言葉=教えではないものは、全て偶像です。

イスラエルの神に属さないもの、聖霊に属さないものです。

この世には、聖霊と悪霊の二択しかありません!

だから、偽物、偶像と混じってはならない!と創造主が教えているのです。神の言葉を捨てる人には、神が伝える罪=ズレが何なのか、基本中の基本さえ、理解できないドツボにハマり、出られなくなります。それが宗教の教えを信じて実践していることでも、分かるでしょう。本物ではないのに、本物であると真剣に

信じて生きる。真剣、純粋なら、それが神に受け入れられるのですか?その答えは、聖書を読めば分かります。高きところの礼拝人の手で作った偶像〜金の子牛で、イスラエルの神が伝えることとは違う礼拝をする。レビ族以外の祭司を立てて、エルサレムの神殿以外の場所、ダンとベテルに祭壇を築き、第七の月の15日の仮庵の祭りを、第八の月の15日に変えたヤラべアムの罪は、神に受けいられられましたか?

一生懸命考えたから良い?と神は言われましたか?

神の教えや、聖日、呼び出し日を勝手に人間が変えてよいと、

いつ神は言われましたか?聖書にそんなこと、1度たりとも書いてありません。

2世紀以降に、西洋人異邦人教父達は、ヤラべアムと同じ罪を

犯してしまった事に、神の言葉=聖書から気がついていますか?

 

イスラエルの高きところの混ぜ物の礼拝はイスラエルの神が、

喜んで受け取りましたか?しかも、ある時は1000年近く、

神は無言のままでした。沈黙。でも結末はどうなりましたか?

イスラエルが神により吐き出されました。約束の地から。

契約を破る〜神の教えとは違うことをし続けたから、吐き出されたのでしょう。

イスラエルから約束の地が取り上げられたのではありません。

イスラエルが、聖なる地=約束の地に住めない状態=エデンの

園に住める状態ではなくなったのと同じ、状態=契約=神の教えを破り生きる状態になってしまったから、追放されたのです。

契約を捨てる〜神の教えを捨てるとは、神に対して罪を犯している!という理解がない人には、神の伝える真理は通じません。

ズレ=罪、人が定義するものではありません。神が伝えていることが全て!神がそれはあなたのすることではありません!

それは、あなたがすることです!そのどれをも違反すること、

神に対して、人に対して罪を犯す行為です。中世の免罪符思想と同じ、子羊の血の免罪符持っているから、何度でも罪を繰り返し続けてよい、何度でも許されるという適当な生き方は、どう警告されていますか?

イスラエルは、神の教え=契約の命を生きることを捨てたので、異教の神々の地で、捕囚の民となり、祝福失い惨めな状態になってしまったのです。イスラエルの辿った、神の契約を破り、

外れて生きた事は、私たちへの警告でもあるのです。異邦人も、

ユダヤ人メシアである、子羊イエシュアの贖いの血で、買い戻されて新しくされた人は、もれなくイスラエルの神の大家族に加えられました。その人達は、イスラエルの神が伝える、同じ生き方、神が創造された、イエシュアの似姿と同じ、本来の人間の性質を生きる!と教えているのです。

イエシュアが何でも許すから、今は関係ないなどと信じている人には、どこまで行っても神が伝えている意味が理解できない、分からない。イエシュアは永遠から、エデンの園から、最初から、その時代にもイスラエルと共におられ、同じ福音、同じ救い、

贖い、そして同じ神の教えを生きるように伝えていたのです!

今も同じです。

時代ごとに、人種ごとに違う、救いの方法は2種類ないから。

神の教えは2種類ないからです。そして、神の婚姻契約も2種類別物はないからです。デイスペンセーション神学信奉する教師が語るように、2つの花嫁などない!イスラエルの神の花嫁はイスラエルだkです。神はエハッド、全く1つでありイスラエルも

異邦人も、共にイスラエルの神の家族として一つに修復される

ことが、神の壮大な修復のプランだからです。

神の契約を破り生き続けることには、大きな代償があるのです。

それはあなたではないから、姦淫の罪に陥り、神に取り耐え難いほど、別物の生き方をし続ける事はできない、それはあなたではないからやめて!と言われるのは、そんなに難しいことなのでしょうか?

これは、世のどんな分野でも同じでしょう。学習、学び、赤ちゃんが歩くことを覚えるのも、自転車に乗ることを覚えるのも、

スポーツや、楽器演奏、料理や、裁縫、日曜大工のDIYでも何でも、指示通りを実際に行って、実践する上で、自分の身なる、

習得できる。生きることは全部学習であり、全部実践であることが、分かります。でも当たり前のことが、信仰の世界では通じていないのです。聖霊により導かれると、それらしく聞こえて、実際に聖霊に導かれて生きることは、聖霊が記した神の言葉に根付き生きることだとも、クリスチャンは教えられていません。

だから律法は廃れた〜などというのです。神の言葉は廃れた〜

なと、いつ神は言いましたか??聖書に書いてないことを、書いてあるがごとくに信じるのは、聖書に書かれた内容を、誤解して読み続けて、聖書ではない聖書解釈を教えられ、聖書ではなくて、人の解き明かした聖書ではない聖書解説を信じているからです。

神の子ら〜花嫁とされた人は、神が伝える神が創造された神の似姿=イエシュアの性質通りの本来の実態を生きる、そして、何を生きるように造られていないのか、神の言葉で教えられている。

それが神の言葉=トラー=教え、インストラクションなのです。

神の言葉をどの箇所でも捨てるように教える教えは、本当に蛇の声から出ているもの以外にないのです。神の言葉に対して、悪魔の律法主義などと、神の言葉を解説しているクリスチャンフォーラムがありますが、神の声、言葉の意味から飛び出して、人間が作った教えの箱に閉じ込められて考えている状態なのです。

 

巷に氾濫する教えは、神の言葉かどうかは、聖書から確かめられます!聖書に書いていないことは、神の教えではなく、永遠にそれは、人間が編み出した教えでしかありません。

 

「あなたは偽証しない」とあります。姦淫しない、盗まない、

殺さない、全部それらは、神の性質通りに造られたあなたでは

ないから、あなたはそれをできない、しないと教えられました。

そして、それらの行動は、全て他者に対する違反でもあります。

神の教えに違反する思想、行動は、絶対にブーメランのように

それをやった人の身に害を及ぼします。

殺人、盗みなど、法的にも罰せられて痛い目にあうので、分かると思いますが、神の言葉を破る〜何も感じない、でも確実に神との間に隔たりを作り、神の実態とは違うことを生きていることに

気が付かないまま、神の前に罪を犯していても、気がつけない

状態になる!ということを知らないとなりません。

 

神は、神が創造された人間を、昇天以降、進化、変化などさせていません!だから、神の伝える教え=トラー=婚姻契約に記された、神が創造されたイエシュアと同じ性質=神の似姿の人間の

生きる実態の全ては、何も変わっていないことを、理解しないと

ならないのです。異邦人が作り出した、人間が作った思想、哲学神学、聖書とは異なる諸々の教えを聞いて、その人造思想で聖書を考え、解釈しているから、神の伝える真実が見えてこないだけなのです。昇天以降、神の教え、アポイントメントの日=聖日は何1つたりとて変わっていません。

人の生きる内容も実態も、ずっと同じです!

 

未来にイエシュアが来られて唯一変わるのは、神の教えが変わるのではなく、人の意識、理解、態度、状態が変わる、皆がトラーを知って生きる時代が来る。今迄、天にある見えないもの〜

大祭司イエシュアを、地上の代役=代表として役割を果たしていたレビ族の祭司制度が変わるだけです。

本物〜神〜イエシュア〜メレキゼデクの位に属する天の大祭司

イエシュアが地上に来られて、エルサレムの神の家から、世界を

統治する時が来たら、代理役で天の大祭司=イエシュアを表し

教えていた人間=レビ族は、お役目終了になる!それだけです。

それが、ヘブル書に書かれている、先の契約〜と書いてある、

祭司制度が変わることを話しているのです。

神の教えは廃れません!

クリスチャンの世界で教えらる教えは、聖書を正しく理解していない教え、神の言葉終わりありきという人造思想を土台とした、歪んだ聖書解釈なのです。その教えの発祥理由は、2世紀以降

に出現した西洋教父たちの反モーセの五書=バン!禁じる!と人間が神の言葉を生きることを禁じる思想、それは、反ユダヤ思想そのもの!ユダヤ人メシア、イエシュアに敵対していることに、気が付かない蛇の嘘を信じてそんなことを言い続けてきてしまった負の遺産、悲しい負債の代償なのです!

イエシュア=ユダ族のメシア=ダビデを待つ!とは、ユダ族の

王の王=イエシュアを待ち望むことなのです。

ローマのジーザスを待望していても、その空想のイエシュア像の

メシアは地上に戻ってきません。

神の子らが、待望しているのは、西洋宗教のジーザスではなく、

聖書に書いてある、本物のユダ族の王の王、メシア、主の主です。

 

長いので続きに記します。