ヨムテルアからヨムキプルまでの10日間 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

秋の祭り、記念日は、角笛を吹くことから始まります。

聖書の暦、第七の月の1日目。2024年は、10月2日、

水曜日日没から、今日3日日没です。

世界中で、今これを祝っているのです。創造主である神が、神の子らを呼び出している日は今日!クリスチャンももれなく、神の聖日〜記念日に、神=イエシュアから直接招かれ呼ばれていることを知って下さい!人の教えなど聞かないで!神に聞く!

私達イエシュアに贖われた人達全て、Watchmen、世界を見守る見張り人です。

神の言葉をガードして生きて、周りに神の子らの性質を生きて

教える人、そして、見守り隊、神の言葉に目覚めて生きている人たちです。

イスラエルの神は、神の言葉〜教えに目覚めて、知り、神の言葉に根付いて生きている人たちを求めています。まことの礼拝者〜礼拝とは、神の言葉が伝える通り、意図通りを生きる人の生き方のことです。

跳ねたり、踊ったり、歌ったり〜そんなことだけを、「礼拝」と呼んでいるのではないのです。

礼拝〜アボダの中心は「生きること!」どうやって?

エデンの園で、神が創造された世界を、神が意図する通りに

ガードし耕し、治める生き方、それが本当の礼拝の意味です。

 

眠っている人〜神の言葉を知らないまま、神の言葉、教えを正しく理解し、意識してイエシュアの性質を生きていない人は〜

眠っている人であると聖書には、書いてあります。神の言葉を

捨てる人は、神が求めるWatchmanではありません。

人の教えに目覚めていても、神の言葉を捨てるなら、それは神のWatchmanの生き方ではないからです。

イスラエルの神は、人に神の言葉を捨てるように教え、そう行動するようなことを、人にすることなど求めていない、神はご自分の言葉を否定るす変な教えを人に仰せになりません!言葉=神=聖霊=イエシュアであると、神が伝えている意味を理解していない人が、神の言葉は破棄、終了!などと唱えているのです。

注意して!神の言葉ではない、人の創作した教えは、神に敵対

する教えであるのです!イエシュアを信じるものの口から、その

ような神に敵対する教えを語らせるのは、神に敵対するもの=

サタンの仕業であることを、聖書から理解してください。

エデンの園の、蛇の騙しを思い出して下さい。

知らない間に、神の敵に回るような考えをして、それを行動を

している!これが一番危険で、悲しい行動だからです!

聖書の真実を知ったら、神に敵対することなど決してしたくないでしょう?

知らないから、神の言葉が終了などと否定する教えに賛同して

復唱してしまっているだけなのです。神の言葉の真実に気がついた人は、聖書とは異なる、偽の教えを言えなくなります!

神の言葉が永遠普遍であるという事実を本当には知らないから、理解していないから、人の教えに騙されて続けるのです。

神の言葉は異邦人が言うように、歴史の途中で1度も変化しません!神が言う通りに、聖書を誤りのない、完全な神の言葉であると、実際には信じていないのか、どうして不思議に思わないでしょうか?

神の言葉は神が言う通りに、永遠普遍であり、神の創造された

記念日も、神と神の子らが代々永遠に祝う「わたしの記念日」と神が教えていることを、聖書から知って下さい。

本当のことを知ったら、神が伝える本物を生きたくはありませんか?それが、私達の本来の性質、姿であり、私達は人間が作った偽物、コピー品、人造の教えや記念日を、神の教え、神が創造された記念日の方を退け、捨てて、生きるようには造られていません。

永遠普遍で完全である神の言葉が歴史の途中で変化するという

仮説、思想は、犬が明日から猫になるというのと同じ程、絶対に

ありえないことであり、嘘です。

今日から、大贖罪日、ヨムキプールまで、10日間、

「10の言葉」を土台に、振り返る日々=悔い改め、修復、軌道修正の日を過ごすように神から教えられているのです。

これは一人ではなく、神の子ら全員がする!

これが神の教えです。「畏敬の十日間」は、ヨム・キプールを迎える備えのためにあります。

10日間の最初の日はヨム・トゥルアの日、今日です。

10日間の最後の日はヨム・キプールの日です

ヨム・トゥルアの「ショファーの響き」から、今年の「畏敬の

十日間」が始まります。この日は、誰でも角笛、ラッパを吹けるのです。祭司以外の人でも。

この日々は、シェモット=出エジプト20章に書かれた「十の言葉」翻訳は十戒と訳していますが、本当のヘブライ語は10の

言葉です。聖書の土台=タイトル、聖書に書かれている内容を

10の言葉で表しているのです。1日ずつ、神の教えに集中して考える、何を神が伝えているのか、考え続けることをお勧めします。「十の言葉」のそれぞれについて瞑想するための考えです。

 

「十の言葉」は、神とその子供たちの間の契約の要約なのです。

神の子らに、神が直接神の口から語られた教えです。

神が教えている教え=契約は、神の創造物を守るものなのです。

この10日間の焦点は、私たちの「創造主としての神」です。

ベレシット=創世記は、私たちの創造主が自らを創造主として

紹介することから、神の言葉が始まります。

神が、私たち創造物と最初にコミュニケーションをとるのは、

私たちの創造主として語っているのです。

創造主がいて、私は創造されました。人は神に創造されたにすぎない存在であり、人が神に対してあれこれ言う隙間は一ミリも

ありません。ましてや、神に創造された人間が、神の言葉や教えに対して、物申す、あれこれ自由選択できると主張する、その

態度こそが、罪の根、エデンの園で教えらえた諸悪の根源、

間違いの根、罪=ズレの根です。

人は、神の口から出た1つ1つの言葉により生きる、人が考えた思想=宗教の編み出した添加物で生きるようには、造られていません。私達はそんな安っぽいマヤカシ、偽物を食べて生きるようには造られていないからです。なぜなら、人は神の性質通り=

イエシュアの性質通りに創造された高貴で、尊い、聖別された存在だからです。別物食べたら、別物に変身してしまうからです。

創造主の口から、私が創造されたことを知ることは、私にとって知恵となるでしょう。神の言葉を捨てる〜知恵を捨てた生き方をしてしまうのです。肉体的に精神的に霊的に、破壊をもたらす

それが添加物の教えなのです。

私たち全員は、神が創世記 2:8、2:10、2:15 のヘブライ語で

私たちに明らかにしてくださったこと、そして第 1 章の神が伝える「良い」という言葉、トヴ の定義を共に発見しました。

神が良いと言われた言葉は、神の意図する通り!という意味なのです。神のデザイン、意図通り=良い=トヴです。

人間が考える、「良い、悪い」とは違う意味なのです。

この 2 つの章から私たちが知っていることこそ、創造主の創造を守る契約の要約として、私たちが 「10 の言葉」の中で瞑想しているものなのです。

神はアヴラハムを召して、彼を家族の家族にし、人類の創造が知られるように彼と契約を結びました。神は次の言葉で私たち全員にアヴラハムについて証言しています。

「アブラハムは私の声を聞いて、私の、私のミツヴォット

私のフキム、私のトーロットを守った。」

これがヘブライ語の創世記26:5の言葉です。

<アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、

いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。>

 

アバがアブラハムについてこの証言を述べた方法から、アヴラハムに、神が教えたことを確実に知ることができます。神は、

そのミツヴォット、フキム、そしてトーロットを、「保護の守り手」と呼んでいることに注目してください。

 

アブラハムは、これらの保護の守り手が何を守っているかを理解していました。

彼は、保護の守り手を守れば何が起こるかを理解していました。

彼は、保護の守り手を守らなければ何が起こるかを理解していました。したがって、彼は神の保護の守り手、そのミツヴォット、フキム、そしてトーロットを守りました。

この家族の中の家族は、神が国家となるために形成されました。シナイ山の契約を生き、守るために家族の家族である国家です。この契約は、神が人類を創造した人間として生きる方法を示しています。神により、人間関係は定義され、どのようにそれが守られるべきであるのか教えているのです。そして、イスラエルの地の地理から、地上の全ての家族の真ん中に置かれて、神の創造された本物の家族の姿を示されています。この契約は、神が人類を創造した人間性の真の知識を

世代から世代へ人々に教えて、神に造られた人たちを守る保護ガードとして与えられているのです。

これらの神の教えから、私たちはこの10日間を「十の言葉」の中で、考えて振り返り過ごすのです。

 

10日間の最初の日はヨム・トゥルアの日です

10日間の最後の日はヨム・キプールの日です

毎日この序文を読み直し、その日のシェモト=出エジプト20章を読むことをお勧めします。ヘブライ語で記された「10の言葉」の文法を理解する必要があります。

シェモト=出エジプト記20章ですが、どの言語でも、命令形は

命令形で記され、語られていますよね。

でも、「10の言葉」は命令形ではないのです。なぜでしょう?

10の言葉の文法構造は、ヘブライ語の「ロウ」は「ない」という言葉に、未来形を足したもの = 「あなたはしない」と書かれているのです。

なぜでしょうか?それは、あなたの性質ではない〜だから、

そのように、あなたは考えない、行動しない、生きない!と教えているものです。するな!ではないのです。それはあなたではないから、

あなたはそうしない!シンプルでしょう?

犬が、空を飛ばない!それは、犬は空を飛ぶようには造られていないからです。それです。神が創造された神の性質通りの人、

その人の生き方は、〜ではない!〜しない!と創造主は人に教えています。

10の言葉の1つ目は、ヘブライ語ではこう書かれています。

「私の顔には、他の神々はおかない」

詰まり、直訳すると、神の顔の上に、別の顔=イスラエルの神ではない性質、教え〜人間の教え、宗教の思想を乗せない!

それは、イスラエルの神ではなくなるからです。

それに続くのは、こうです。

あなたは姦淫をしない。

あなたは盗まない。

あなたは殺人をしない。

あなたは〜しない!なぜならそれはあなたの本質ではないからです。あなたは〜するようには造られていないから、〜しない!

シンプルでしょう?

神の言葉=契約の中に忠実に歩むなら、あなたは〜しないでしょうと教えているのです。

そう言われる神の言葉に同意して生きる必要があるのです!

これらの行動は、契約の忠実さの中で歩むとはどういうことかを表しています。これらは、契約に忠実に歩んでいる時のあなたの現実を描写する真実です。

これは、新しい創造の人類としてのあなたの現実についても教えてくれます。

神の言葉は呪いの律法、人を縛るもの、ややこしくてむずかしい

そう教える人は、ヘブライ聖書に記された言葉を正しく理解しない人、聖書を知らない素人です。

プロに聞けば良いのです。聖霊=言葉、聖書だけに戻れば良いのです。聖書には、神の言葉を破るように教える教え、そんなことは、

1つも書かれておりません!

神の言葉を指して、律法という言葉で表されている箇所は1つもありません!不適切な翻訳、非聖書的聖書解説が、人に聖書とは異なる思想を刷り込み続けている!その間違いの教えに気がついてください。私達は聖書にない言葉で、翻訳用語で、非聖書的ズレた解説で、神の言葉とは別物の性質の教えを聖書である!と

紹介され、教えられてしまっているのです!

聖書に戻れば、そこには嘘偽りのない聖霊=神が神の口から発した

言葉が記されています。

今日は10の言葉を振り返る第一日目です。

シェモット=出エジプト20:3

わたしの顔の上には、あなたたちの他の神々をおかない。

詰まり、人の教え、宗教の教え、異教の神々の教えや要素が

混じった添加物の教え=別の神々です!
この箇所ですが、「あなたたちはそうしない」という神が伝える理由は、2つあるのです。
1つは、メシアに秘蔵された新しい創造物である人、新しい人となったあなた達は〜そうしないからだ!と教えています。
2つ目は、「契約の命」を生きるあなたがたは、〜そうしないのだ!と教えているのです。
契約の命を生きていない場合、あなたたちの肉の性質は、神が

伝える十の言葉のどれでも、破る行為をし、罪を犯すのだ!と創造主は人に教えているのです。

1つでも神の言葉を破る人は、とイエシュアも言われましたが、

クリスチャンの教えの世界ではこれを平気で違反しています。

なぜだと思いますか?神の言葉に違反すること、罪であるという

自覚が無い、ある部分は破って良い、それは終了した律法だからと、人の教えを信じているからです。神の言葉を正しく理解せず、人の教え〜神の言葉は廃れた、異邦人には無関係という、

聖書ではない思想=嘘に騙されているからです!罪の定義の全てが書かれている、モーセの五書は廃れた!という嘘偽の教えを信じて、神が伝える罪が何かを理解していないからです。神の言葉を捨てる罪は死に匹敵するシャバットを汚すことも、神の目には、同様に死に匹敵する罪、死=一番重たい罪であると教えているのに全く気がついていないのは、神の教えを蔑ろにして捨てて、人の教え=今は何でも許されて、気持ちさえあればなんでも良い!と教えているからです。神は寛容であるから、2000年近くも忍耐されて、人々が神の言葉の真実に目覚める時を待っておられるだけなのです。神の言葉は、私たちの本当の姿を映し出し、照らし出す鏡であると教えています。

ヤコブ1:22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。

1:23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、

自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。

1:24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。

1:25 これに反して、完全な自由のトラー=神の教えを一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

<自由の律法と翻訳を読んで、モーセの五書=神の教え=トラーとは別の教え>などという空想の読み込みをしてはならないのです。聖書は、全てモーセの五書に記された神の教え=婚姻契約の中に根付く生き方しか書いてありません!モーセの五書とは違う教えがあるという思想は、別の聖書が存在すると言っているのと同じです。福音書以降が別の聖書?いいえ!福音書以降は、最初の部分、モーセの五書、モーセの五書の解説の預言書、諸書の

短い短い短い後書き、解説にすぎないからです。

モーセの五書とは違う、モーセの五書を否定、破棄、終了した

別の神の教えは、福音書以降には書かれていません!

このように、神の言葉を人が踏みにじる教えのおかげで、人の思想で、神が伝える真実を錯乱させているのです。

だから、聖書だけに戻る!その軌道修正の第一日目が今日なのです。

 

続く