異邦人西洋教父達の、神の言葉に真っ向から反する主張は続きます。
祭りや安息日を含むモーセのトラー、割礼、そして神による
イスラエルの選びはすべて過去のものとして片付けられたのだ。
又、ローマ帝国の承認を得るために、今や異邦人が支配するのが
「教会」。このような言葉は聖書にはない、本当の元の言葉は、
群れを意味する、カハール、エクレシアですが、異邦人が作った造語=教会、聖書の神の1つの家族、エデンから継続する家族を意味する言葉を消して隠す、別の新しい家族=群れ=教会という意味を伝えたい為に、福音書以降には、別の言葉で作られた造語〜教会で、同じ「カハール、エクレシア=群れ」を表していますが、彼らの主張は、異邦人イエシュア信者の群れは、トラーを生きるユダヤ人の群れとは、何の共通点もないことを、声高に明らかにしたのです。
ここ迄でも、明らかに見えるのは、神の壮大な全人類の修復の
プランは、エデンの園にあった状態、1つ神に、1つ家族として、1つ神の教え=本来神に創造された通り、イエシュアの似姿と同じ事を調和、和合して生きる事に戻るものである事を神が人に伝えているのに、西洋教父達は、その教えに反した事を唱えています。神の語る、修復、贖い、救い、1つの家族、1つの神、1つの同じ教えを生きる事に戻る、エレミヤ31章の意味をまるで理解していない事は、明らかです。
このように、パウロ達のようなユダヤ人のトラー学者達、幼い頃から、ヘブライのトラーに精通し教えられ育ったユダヤ人の群れから、異邦人は完全決裂し、独自の思想〜異邦人が作った聖書とは異なる宗教の教えへと、乗り換え、突っ走って行ったのです。
アンティオキア司教イグナティウスが西暦115年にマグネシア人に宛てた手紙の中で、キリスト教徒が、モーセの五書に頼ることの誤りについて警告しました。
「ユダヤの慣習に従い続けながらイエス・キリストを信仰するのは不合理である。キリスト教の信仰はユダヤ教に頼らないが、
ユダヤ教はキリスト教に頼るものだ…」
ユダヤ人の慣習=エデンの園から同じ、預言者、イエシュア、
使徒達、1世紀のイエシュア信者が生きていた神の言葉=トラーを捨てよ!と言っているのです。
イグナティウスは、イエシュアがユダヤ人である事、イエシュアを信じて生きる事より、ユダヤ的な事はない事を、知らないのだと思います。
ここで1つ、イエシュアが教えたのはユダヤ教ではありません。聖書に書いてあるものは、ユダヤ教でもキリスト教でもありません。〜教とは、イズム=人の思想、神の言葉や教えに、人の
思想を混ぜて作ったもの、それがイズム〜宗教〜教です。
ユダヤ教と便宜上書きますが、ユダヤ人は神の教え=トラーを
生きていた。その人個人が、メシアを知っているか知らないかはあっても、イエシュアがメシアであると認識しない知らない人も知っている人も、同じ神の教え=トラーを生きていたのです。
でも1世紀当時には、純粋な神の言葉の中に、人が考えた思想の教理を作り、神の教えではない教えがあったのです。それが「律法の行い」「先祖の言い伝え」と書いてあるものです。
手洗いの儀式の強要もその1つであり、シャバットで、電気のつけ消しをしない、そのような事も、神の教え=トラーとは違う教えです。
混乱すると思うので、明確にするために書いてみます。
ユダヤ人〜2000年前に来られたイエシュアが、タナックに記されたメシアだと認識していないユダヤ人がいて、その人たちも
トラーを生きています。それは、1世紀当時と変わらないのです。
それぞれの派がありますが、皆モーセの五書を生きている。
そして、ユダヤ人の中には、イエシュアをメシアを受け取り信じて生きているユダヤ人が、同様にいるのです。その人達も、イエシュアや弟子達と同じようにモーセの五書=トラーを生きているのです。そして、今や異邦人の中にも、聖書に書かれた事実を
知って、人造宗教の教えに生きる事から脱出、イエシュアと同じようにトラーを生きて、神の創造された本物、神が人を呼び出して祝うように招いている記念日を祝う人達がいるのです。
メシアを知らないユダヤ人でも、タナックに記された約束のメシアを今も待っているのです。そして、神の教えに根付いて純粋に生きている人達もいるのです。
もう一つ、はっきり理解しないとならないのは、1世紀当時
約束のメシアに気が付かなかったユダヤ人もいますが、多くの
ユダヤ人はメシアを信じたのです。使徒にその記録が書いてあります。神殿崩壊後、ローマ帝国により、エルサレムからユダヤ人が追放され、神殿という、イスラエルの神を礼拝する場所、
シャバットや祭りを実際に、神殿で祝えなくなった後、多くのユダヤ人〜その主流はパリサイ派ですが、彼らパリサイ派のイエシュア信者達により、イエシュアが密かに伝えられ続けていた事実があるのです。
隠れキリシタンという人々が、日本にいましたが、同様に、
メシアを信じるユダヤ人は、深く地下に潜伏していたのです。
そして、今でもいるのです。
実際にイスラエルに住んでいる人達で、イエシュア信者である事を、隣近所には言っていない人も大勢います。
人が知ったら、政府に通報され、家や国外退去を余儀なくされる
迫害を受けるからです。異邦人=外国人で、クリスチャンで、
イスラエルに住んでいる人は、ユダヤ人のイエシュア信者の事情とは、又別です。
特に、超正統派と呼ばれるグループに属している、ユダヤ人の
ラビの立場である場合、もしイエシュアを信じた事が周りに知られてしまったら、どの国に住んでいようとも、殺されてしまう
危険があるから、極秘にしている人もいるのです。
そして、なぜ一般のユダヤ人がメシアを信じないのか、
それは、これから書くような、西洋教父達により、曲げられた
メシア像が、大きな妨害になっているからです。それはタナックに記されたメシア、イスラエルの神の教えではないから、彼ら
ユダヤ人は偽のメシア像偽の教えに対して拒絶しているのです。
クリスチャンには、ピンとこないかもしれませんが、クリスチャンの世界で伝統的に語られる聖書解説や、メシアは、聖書に書いてあるものとは異なる事を、主張しているという事に気が付かないとならないのです。
変化する神、怒りの神〜恵みの神、変化する神の言葉などは、
聖書=タナック、そして福音書〜黙示録に書かれていない、
トラーを破棄しに来たなどというメシアは、偽メシアそのものだからです。
それらは全て西洋人教父達が編み出した、空想のメシア像です。
肉の目から、異邦人思想から考えた、聖書とは異なるメシア像。
クリスチャンが、聖書に記されたメシアを正しく表現していないので、異邦人思想で色塗られた別物のメシアや曲げられた神の言葉を語るから、彼らユダヤ人は、クリスチャンが語るメシア、
その教えは別の宗教の教えであり、聖書ではない偽物の教えだ!と、認識しているのです。
だから、偽の救い主が書いてある福音書以降など、読まない!
それらの偽物のメシアをユダヤ人が信じるなら、家族では
勘当する、縁を切る、離婚するなどという事が起きるのです。
それほど、聖書とは違う事を、語っている弊害、障害物である事を、知らないとならないのです。嘘を言って騙せる相手=ユダヤ人ではない。なぜなら、彼らはタナックに記されているイスラエルの神、メシアが、変化するものではない事実を、神の言葉から
知っているからです。彼らが抵抗しているのは、キリスト教が
唱える、神の言葉を歪めた教えに対してである事を、先ず知って下さい。
西洋教父の教えは、異邦人世界の目、クリスチャン達から見て、モーセの五書を無価値なものにすることに、成功しました。
これまでユダヤ教とキリスト教の論争は論争以上のものではなかったのですが、ローマのキリスト教世界におけるユダヤ人に
取っての本当の転換点は、西暦325年に開催されたニカイア公会議でした。
この公会議で、キリスト教は、正式にローマ国家の国教となり、人の思想=神学者の考えや主張が実践され、キリスト教と、
モーセの五書=タナック(それを生きているユダヤ人達の世界)の分離が、公式に認められました。
ローマ皇帝であり、教会の指導者であったコンスタンティヌスは次のように宣言しました。
「これらの州の教会の数が多数派を占めているだけでなく、我々の理性が認めるものを要求するのは正しいことであり、我々が
ユダヤ人と何の共通点も持たないべきであることも考慮すべきである。」
この宣言でも、はっきりと分かるのです。異邦人は神の教え=
はじめの愛=モーセの五書=婚姻契約を忘れて、離れた!と
ヨハネが言った通りのことが、起きたのです。
ヨハネが黙示録を書いた時に、もう既に起きていたからです。
黙示録2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
ヨハネがここで、「はじめの愛」という言葉〜隠語で語る意味はローマ帝国=婚姻契約=モーセの五書=トラーを知らない人には通じない言葉、シナイ山で文字として初めて与えられた「神の婚姻契約=はじめの愛」モーセの五書に記された神の教えの生き方から、離れた!と言っているのです。異邦人クリスチャンは、
このように西洋教父、ローマ帝国が決めたように、神の婚姻契約=モーセの五書に記された教えから決別して独自の教えに生きるよう、強要され、離れた!預言通りになったのです。
異邦人のクリスチャンの群れが4世紀に発展し、ローマ帝国を
あげての宗教となり、国際的な政治勢力となった時、ユダヤ人が
ユダヤ人であり続けるだけで、異邦人教会の正当性そのものを
脅かすという、恐ろしい事実に直面したのです。
彼ら異邦人は、モーセの五書が、有効であり続けるなら、キリスト教は無効になるという結論に達したのです。キリスト教の救済の考えは、ユダヤ人の考えと明らかに対立していたため、両者の共存は考えられなかったのです。この場合、主にメシアを知らないユダヤ人達に対してです。教父たちは、このユダヤ人の挑戦に
対処しなければならず、最も論理的な方法で対処したのです。
こういう事です。神の子らは、神が伝える教えを生きる!神の言葉に一点一画付け加えてはならない!これを、契約の民である
ユダヤ人は、知っているのです。クリスチャンは、神の言葉を
律法という翻訳に置き換え、神の言葉、教えに対して、する、しない「おきてリスト=神の言葉」を生きて義とされるなど、神が教えていない思想を刷り込みました。
そして、神に贖われた人は、イスラエルの群れ=カハール、エクレシアに共に加えられた人であり、贖われた人に、神が与えた
教えが婚姻契約です。救われる前に、神の契約を与えられたのではないのです。贖われた人が、聖なる民となったその後に、その人たちに対して、神の婚姻契約が与えられて、聖なる民とされた人は、神の教えを生きる!と、神が教えている事が、このような異邦人教師達の教えのせいで、遮断され、クリスチャン達は神の言葉を生きる必要がないと教えられて、思い込まされ、人の考えた思想や記念日を生きる事に、移行したのです。
モーセの五書を生きる人達は背教者であり、時代遅れの宗教で
あると宣言され、ユダヤ人は今や存在する権利を失ったと主張したのです。しかし、ユダヤ人は現実に存在していた為、異邦人の群れ=教会は、彼らが存在し続けるための理由を必要としていたのです。
彼らがキリストを認めなかった為に離散し、キリスト教がユダヤ教〜モーセの五書に取って代わって「異邦人の光」となったのなら、ユダヤ人はなぜ存在していたのでしょうか?
そこで、異邦人教会は、ユダヤ人が生き残った理由、目的は、
キリスト教の真実性を証明するためだと、結論付けました。
彼らユダヤ人は常に存在し、迫害され、無防備で、家もなく地上をさまよう者であり、神の怒りの証拠となるべきだと主張しました。
ここで、1つ聖書〜神の言葉の事実から、知らなければならない事があります。契約を受け取る代表となったイスラエルは、神の契約から外れて生きる事、それは罪に陥る事であるという事を
世界の民族の代表として教えられた事を忘れないでください。
同様にクリスチャンも神の契約から外れて生きる事〜罪に陥る
生き方に傾く事である事を、神が教えている事を、聖書から
知って下さい。
神の言葉から外れて生きる=罪に陥る事、危険なのです。
でもこれら西洋教父達の教えは、神の言葉を軽んじ、神の言葉から外れて生きよ、モーセの五書を蔑ろにせよ!という教えであり、彼ら独自の思想、神の言葉ではなく人間の考えで神の言葉を
終了として生きる、人間至上主義選択の生き方を、提唱したのです。
イスラエルがどうして、歴史の全てに渡り、このような迫害や苦しみを体験した、し続けているのか、理由は簡単です。
続く