イスラエルの神の本物、オリジナルの言葉、教え、聖書だけに戻る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

出エジプトした、イスラエルと少数の異邦人達がやった罪と、

ヤラべアム王がしでかした罪は、全く同じ性質のものです。

聖書には並行して、何度も同じ罪、失敗を繰り返した事が書かれています。

問題の根は、「騙し」です。最初から、同じです。神の言葉、伝えた事ではないことを、蛇が伝えて騙したでしょう。

人間は偽の教え、偽情報に騙され続けている、それが問題の根

だからです。

創世記12章で、アヴラムが偽って、エジプトでサライを自分の妻を妹と言って、パロの元に連れて行かれ、その結果、パロと

その家人たちは、疫病で苦しめらました。

アヴラムのやったことは、「騙し」です。半分本当、半分嘘、

は、エデンの園の蛇のやったことと同じなのです。

遠い血縁関係の中にあっても、直接妹ではない。

それなのに、20章で、アヴラハムという名前を与えられた後、カデシュと、シュルの間のゲラルに滞在した時も同じことをしています。

地名だけを見ても、分かることがあります。

この二つの地名、「カデシュ」とは、聖別と同じ語源、シュルは壁、「ゲラル」は、捉える、破壊する、乱暴に引き摺り下ろす、噛み尽くす、見るなどの意味がある言葉で、現在ガザの南にあたる場所です。
このような名前の場所に挟まれている、これは出エジプトした後、置かれた場所でも書かれています。
ピハヒロテ=自由への口、ミグダル=監視塔、バアルツフォン=

隠された異教の神、北の王などの意味がありますが、私達は常に善と悪、トヴとラという2つの選択を生きる上で置かれて、あなたは命を選びなさいという選択の中に挟まれて、地上の旅路を生きていることが、教えられています。

 

エジプトで贖われて、エジプトから救い出されても、人生の問題に対しての対処法を、以前のままの自分、以前学んだ生き方で

やってしまう警告でもあるのでしょう。

ゲラルの王はサラを娶るために人を送り、サラを連れて行きました。息子イサクも同じことをやっています。

親の因果が子に報いの如く、人は誰かがした罪の影響を負って

行ってしまうものです。だから、違反した生き方は、周りに影響を与えることは明らかであり、それが神により教えられているのです。アダムとハヴァのやったこと=神の言葉を曲げた代償は全世界の人類に、もれなく浸透したことでも分かるのです。人は

同じ土=アダマから出て、1体として繋がっているからです。

人は必ず互いに影響を受けあってしまうからです。

 

神の定めた場所ではない、ダンとベテルに祭壇を築き、ベテルで、神が定めた日の第七の月の15ではなく、第8月の15日に仮庵を祝い、ヤラべアムの手で作った偶像=子牛にコルバンを

捧げたとあります。神の祭壇以外で、レビ族の祭司以外このように、コルバンを捧げることを神が禁じているのに。

同じ仮庵の祭りだからと、神が伝える日とは、別の日にして、

そして、神の祭壇を築いてはいけない場所、神の指定している

エルサレムの神殿以外で祭壇を築いて、更に自分の手で作った

偶像の子牛に対して、コルバンを捧げる?全部神が伝えたこととは異なる、ズレたことをしています。これが人間の手、思想で

編み出した宗教の辿る道、性質なのです。似て非なるもの、神が伝えたことをしないで、似て非なるものを人間が作り出して、

自分たちの考え、方法、やり方でイスラエルの神を礼拝する

それを、ずっと歴史の中で繰り替えしているのです。

神が伝えたこと、伝えた通りなんてやりたくない!

 

高きところの礼拝場所を、一掃した王が二人だけいます。

ヘゼキヤ王と、ヨシア王だけです。これは、神の教えをガードして生きる残りの民の特徴を示しているものです。最後は、ユダヤ人と異邦人の残りの民、二つの枝が一つになることが預言されているように、いつも神の言葉の中には、特徴的な数字で、真理を表しています。

他の王は、ダビデのように神の教え=トラーを生きていても、

中途半端な混ぜ物が残ったまま、高き所を一掃しなかったことが記されています。

これは警告なのです。ダビデ王は神とピッタリ一致したマインド=頭脳意識であったとあるのに、一方混ぜ物の教えが、ダビデの中に残っていたという〜高きところ〜異教の神々の礼拝場所を

完全に壊さないまま、異教の神々の要素が混じったまま、イスラエルの神を礼拝することを、一掃しなかったことが書いてあるのです。ソロモンも同じ。神に対して忠実に生きている、でもある部分偶像崇拝の根が一掃されていない、警告でもあるのです。

これは、私達イエシュアに連なる人がする間違いが指摘されている教訓でもあります。

 

純粋な動機でイスラエルの神、イエシュアを愛し、神の言葉

教え=トラーにぴったり根付いて、神の教えを生きている!と

思いながら、実は、偶像礼拝の根=高きところの礼拝、パン種、異物、異教神の神々の教えに、知らない間に混じりあって、別物を自分の中に取り込み、抱え続けて、それらを通して、イスラエルの神を礼拝している警告でもあるのです。

パン種の教えでは、よく分かります。過越の祭りの前迄に、家の中から、パン種除去、イースト菌が入ったものを除去せよ!と神が教えていますが、それを実際にやってみると、毎年毎年、その都度、新しい発見、色々なことを神から教えられるのです。

自分では、除去したと思っていても、後日種無しパンの7日間でも、あちら、こちら、思いがけないところから、パン種が出てくるからです。自分の予想もしなかったところに、パン種は潜んでいる。それが自分の中にもあるからです。

神は、神の祭りの準備、祭りを祝うことで、それぞれに対して色々なことを教え続ける、そのように神が聖別された日、祭りをデザインし、その中を人が生きて、神を知って成長するように、神が創造された特別な命のサイクルだからです。神はまことに

賢いと分かる、シャバットや祭り、神の教えを実際に生きてみると、それが理解できてきます。

それが、シャバット、新月、祭りなのです。神ご自身がカスタムメードしたレッスンプランを、命のサイクル〜神の記念日から記念日を生きる季節の中で教えられる。詩篇1編にもそれが書かれています。詩篇は神のトラーを解説している知恵の書なのです。

 

一掃とは、偶像礼拝の要素、種を一切残してはいけないということなのです。半分嘘、半分本当なら、多少良いだろうなんていうグレーゾーンはないのです。白か黒どちらか。聖霊と悪霊、中間のグレーゾーンの霊なんてありません。少しのパン種でも、

かたまりは膨らむ!とパウロも教えているでしょう。

聖書で常に、全て警告されているでしょう。熱いか、冷たいか!

生ぬるい=混ぜ物、異教の神々、異物の教えやシンボルと交わり

取り入れている〜それらは、イスラエルの神に属さないものであるから、イスラエルの神には耐えられない、それはイスラエルの神の要素ではいから、吐き出そう!と言ったのです。

 

だから、イスラエルが契約の生き方を破る、それはすなわち罪に

陥る状態であり、聖なる民としての実態を生きないで、別物の教えと混ざったから、約束の地から追放されたのです。

契約を破るとは、罪に陥る生き方になるということなのです。

神が伝えた教えを生きない=契約の命の生き方を破る=罪に陥る。エデンの園も同じ。神の性質とは違うものが侵入したから、

エデンの園から吐き出された。その場所にいる状態ではなくなってしまったからです。同じことをずっと教えているのです。

約束の地が、イスラエルから取り上げられたのではないのです。人が聖なる場所神の中に留まれない状態になり、聖なる場所から人が吐き出されたのです。

ソロモンは、最後には、異教の神々の教えに溺れていった、異教の神々の教え、シンボル、慣わしを生きる根が残っていたからです。そして、異教の神々の教えを実践する一番身近な人=妻から

それを教えられ、取り入れ、浸透して行った。身近なところから

偽物混ざり物の教えが入り込む。偽の教えは、分かりやすい別の全く違う異教の神々の宗教から来るのではないのです。

ジーザスの名を言いながら、その教えの中身は実は聖書ではないもの、聖書に書いてあるもの、ないものの教えは明らかなのに、人の思想におおい隠されて見分けられない、実は一番厄介な、

くせものであるのです。

それが、伝統で語り継がれ、継承され、実践されているから、

それらが、聖書とは関係ない、聖書のようで、神の教えではない神が命じている教えや記念日ではない!ということが、全く見えないのです。聖書に戻れば、簡単に分かるはずなのに、宗教文化の伝統の教えは、それほど根深く人の間に浸透して、実践されてしまっているので、それが聖書であると思いこんでいるだけなのです。聖書に記されている、1世紀当時のイエシュア信者たちは

今のような西洋宗教の教え、神の言葉は破棄された、異邦人には関係ない、やりたい人が選んでやれば良い、シャバットは変更になった〜、どの日も、自分の確信する日を安息日とすれば良いのだ〜レビ記23の神の祭りもユダヤ人だけ祝えば良い、そんな

教えを、もし1世紀のイエシュア信者、ユダヤ人、異邦人の間でしたら、どうなると思いますか?追放されます。それらは死に値する罪=神の言葉をそのように曲げる教えは、聖書、神の言葉に照らし合わせれば、偽教師の教えだからです。

パウロでさえ、パウロが割礼を禁じたり、モーセの五書に違反する教えをしているらしいという噂になったでしょう?

でも、実はそれは、パウロはモーセの五書など破った教えなどしてはいない、パウロがした解釈が、当時の人達、まだまだ口頭トラーが浸透し実践した人達には、よく理解できない、イエシュアがトラーを父直送の解説をしたから、当時の解説とは違うから、

異物に思った、トラー学者たちが議論をふっかけたのです。

パウロは、そのような噂は根も歯もない噂だから、使徒21章でエルサレムの神殿で、大金を支払い、他の人たちと共に、パウロがモーセの五書に違反した教えなど1つもしていない、パウロは

生粋のトラーの実践者であり、トラーを教えていることを、公に証明しているのです。

聖書の記述に基づき、聖書を記したどの人も、神の教え=モーセの五書の一点一画も人間が手をつけるような、罪を犯していないことに、聖書から気がついてください。

西洋宗教の教えは、神の言葉、根本、土台を曲げて解説する

大きなズレ、間違いが根本に根付いているのです。

神の言葉ではない、人が作った宗教の教えだから、その土台が砂=人の思想なのです。

人間の思想で作った宗教が始まりだからです。

 

聖書の中では、誰一人、カトリックが作った、日曜礼拝、クリスマス、イースターなんてものは、祝ってもいないし、誰も当時聞いたこともない、知られてもいないものなのです。

考えてみたことありますか?キリストが、日曜礼拝や、イースター、クリスマスを祝うように、神の教え=トラー、レビ記23章の神の記念日を方を一掃して変えて、別の教えや記念日に変えたのではないことを、聖書から知っていますか?

神の言葉と神の教え、記念日を変えたのは、全部異邦人です!

人間の仕業なのです。カトリックが神の言葉=教え=モーセの五書に書かれた、ユダヤ色の濃い生き方全てを禁じたことを知っていますか?だから、カトリックがユダヤ人に神の教えを捨てさせて、人間が作った宗教に改宗させたのです。彼らが抵抗しているのは、聖書に記された本物のメシアではなく、カトリックが作った宗教の教え、偽のメシア=神の言葉は終了だ、トラーを生きるな!けがれた動物でもなんでも食べて、日曜礼拝、クリスマス、イースターを祝えと言う、そのような神の言葉を神ご自身で否定する嘘つきメシアはメシアではない!神の教えを捨てて生きることなどできない!と抵抗したのです。これは、聖書に書いてある事を理解しようとしないならば、通じないことかもしれませんね。

宗教の教えが、聖書の教えであると、純粋に信じている限り

神が伝える永遠普遍の真実は見えてこない。人の教えで遮断されおおい隠されているからです。

 

宗教と言うものは、最初から、ないもの、あってはならないものなのです。あるべきは、純粋な神の言葉=トラーのみであることをイエシュアも当時の人たちの間に浸透した、口頭トラーの教えは神の言葉、教えではなく、ずれている!と教えているでしょう。それと全く同じことが、異邦人によりなされてしまったのです。

だから、ヨハネがはじめの愛=トラー=モーセの五書から異邦人は離れた!忘れた!と言って警告しているのです。

聖書ではない教えを、聖書であるが如く語るのは、偶像礼拝の根なのです。そのパン種、偶像礼拝の根、パリサイ派のパン種とは、神の教えとは異なる教えのことを言っているのです。

何もパリサイ派の人全てが、神の教えとずれていたのでは

ないからです。当時のパリサイ派はイスラエルの国民全体から尊敬され、温厚で、神の教えを忠実に生きる、サドカイ派のように、厳しい教えを要求する人達ではなかったのです。

そう書かれているでしょう。

 

使徒5:34ところが、国民全体に尊敬されていたトラー学者

ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちを

しばらくのあいだ外に出すように要求してから、

 

尊敬されていて、同時に偽善者などあり得ますか?

クリスチャンの世界でも同じですが、ある人は同じ群れや教団に属していもて、全く違う教えや生き方をさせられるでしょう?

ある人は、聖書にそったことをする、ある人は人の作った戒律を生きさせる、どのグループにもその中には色々な人がいるのです。人が伝え続けている聖書とは異なる偏見や先入観で聖書を読んでいる事に、気がついてください。

ある一部のパリサイ派〜その人達が逸脱した考えをしていたから聖書にイエシュアとの議論として記されているだけで、全員が

パン種の教えを生きていたのではないのです。

日本人は〜と言ったら、それは全員の日本人ではなく、一部の

日本人のことを言っているのと、同じなのです。

クリスチャンの解説の世界では、極端で逸脱した解説が多いです。ペテロはおちゃらけた人物像で語られ、パウロはトラーを破るように教えた人として伝えられ、パリサイ派は偽善者、

律法主義とは、モーセの五書を生きることなど、本当に聖書ではない、勝手な解説のオンパレードをしているのに、気がついていないのです。

 

 

続く