偶像礼拝の根は果てしなく深く、神の警告は最初から同じです。
偶像礼拝〜それはエデンの園からありました。偶像〜神の言葉ではない、神の言葉を曲げた蛇の言葉=偶像です。
創造主に属さないもの〜偶像〜、それは人の考えで、人の手で刻んだものであれ、人間の思想であれ、イスラエルの神ではないもの通して、イスラエルの神に関わる、礼拝する、これらは全て
偶像礼拝の根の真相です。別物を通して、神に近づく。
キリスト、ジーザスなどという名前を使われたら、何もかもが、
全て、聖書通りにピッタリのキリストと思って、ぜひ協力、賛同しなくてはならないと考えてしまうかもしれませんが、世の中には、イエシュアの名を多大に利用して、人間が作った宗教をやっている、人間の目標、彼らの願望に協力させられているだけかもしれません。
イエシュアの名を利用しながら、実は別物を発表し、生きているそんなものが、世の中には氾濫しているのです。
これは、何も今に始まったことではありません。
もちろん、純粋に神の言葉に根付き、神との関係に繋がっている多くの人達もいます。
アメリカだけをみても、イスラエルの神=イエシュアの教えや
生き方とは、似ても似つかない、人間の宗教活動を、派手にやっているものが、たくさんあります。
そんなに目立たなくても、実は、聖書とは関係のないことを、
やらされてしまっていることに、多くの人は、気が付かないまま
人の作った宗教の教えの奴隷、奴隷とまで言わなくても、人の教えに服従させられているのに、全く気がついていないことが多々あるのです。これは、書けばピンとくる教えの数々があるのです。聖書だと思い込んでやっている、実は人がするように要求している数々のこと。
これは、別の大きなトピックですが、現代のような、群れ、組織
そして、そこで教えられる様々な事は、実は聖書とは全く関係のない、人間が作った宗教の教えの中から、出てきたものであることが、たくさんあります。それらは、宗教が出現した経緯や、
人が作った教えを歴史の中で知り、そして聖書に照らし合わせて読めば、何が人の教えか、何が神の教えなのかの違いは、分かる事なのです。
1世紀の当時の人達の様子を、今の時代の宗教の活動や教えで
考えているから見えないのです。
彼らが教えられた教えは何?彼らは日々何を生きて、何の記念日や祭りを祝っていたのでしょう?
ないものを想像して考えることは、1世紀に、マクドナルドや
吉野家があると考えているのと、同じです。
1世紀には、イスラエルや諸外国にバシリカの屋根の上に十字架をつけて、そこを礼拝場にして、イエシュア信者が日曜日に集い歌や踊りがある礼拝という儀式が行われていたのでしょうか?
牧師という職業があり、教会籍というものがあり、主題説教をし、そして、日曜礼拝の席上で、席上献金が行われていたという空想をしていないでしょうか?
彼らユダヤ人、諸外国のイエシュア信者達も、家庭で少人数で
集まったり、シャバットでは、ユダヤ人の会堂で、トラーを聞いたのです。そこにトラーの巻が置いてあり、それを朗読するのが慣わしだったからです。
福音書以降も、イエシュアも同じことをされていた、シャバットに、会堂に立ち、トラー、預言書を読まれたことが記されています。
1世紀は殆どが、イエシュア信者は、ユダヤ人であった事実が
あります。異邦人はごく少数です。
彼らユダヤ人イエシュア信者は、日曜礼拝、クリスマスやイースターを祝わっていたと考えていますか?そして、古い教えは
律法だ〜と、昇天以降は教え始め、神の契約の印である割礼を
やめ、神に禁じらているけがれた動物も、食し始めていたのでしょうか?
それらは、全て異邦人〜西洋人が作ったもの、作った教えであり聖書に書かれているものではありません。
イエシュアが昇天されても、神の教え=トラーは、何も変わらないからです。
1世紀に、メシアが来られて、昇天復活されて、初めてイエシュアの救い贖いが実現し、教えられ始めたと思っているでしょう?
そして、今までの教えが、否定され、新しい教えが導入されたと信じているのですが、それは聖書とは丸で異なる、それこそ人が
作った宗教の教えなのです。
イエシュア、メシアはエデンの園から、最初の最初から神から
口頭により教えられて、残りの民により口頭で伝え続けられたのです。
神の同じ教えが、文字として記されたのは、出エジプト以降、
モーセにより記されたのです。
イエシュアは、何を教えられていたのでしょうか?
モーセの五書=父の教えです。
ルカ6:46 わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの
言うことを行わないのか。
<イエシュアが言われる「わたしの言うこと」とは、何ですか?
イエシュアは父の言葉=モーセの五書を100%話しているのです。トラーに記された人間の生き方をしないのはどうして?と
聞いているのです。>
イエシュアは思いつきで、突発的に色々な事を教えて話しているのではありません。イエシュアの教えは、100%モーセの五書を根拠に語っている事実に留まって考えれば、何をイエシュアが話しているのか、見えてきます。
1世紀当時の人たちには、そのような理解があったけれど、
2000年、そして、神の教えから遠く離れた異邦人には、イエシュアがその場で思いついた考えを話していると思うでしょう?
6:47 わたしのもとにきて、わたしの言葉=トラーを聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。
6:48 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、
それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。
6:49 しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。
同じ場面を、マタイはこのように記しています。
マタイ7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
<父の御旨、イコール、神の教え=トラーを生きることです。>
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よわたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。
また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法=アノモス=トラー無しを働く者どもよ、行ってしまえ』。
知らない〜契約の中に関係を結んでいる状態ではない!なぜなら、神の婚姻契約は、神が伝えることを信じて、実際に生きることだからです。神の教えに反する生き方をしながら、イエシュアの名を使い様々な事を行うもの〜わたしはあなたを知らない〜
親しい関係にはない、関係を結んだ状態ではない!という意味です。そうです。神の契約に違反するトラー無しの生き方だからです。
更に同じ内容をヨハネが記しています。
ヨハネ5:19 さて、イエスは彼らに答えて言われた、「よくよく
ここで、イエシュアの言葉を聞いていたユダヤ人は、イエシュアが父の言葉=モーセの五書=トラーに書かれた教えを話していると、理解して聞いているのです。
イエシュアはユダヤ教や、キリスト教など作っていません。
最初の聖書箇所には、ユダヤ教が書かれていて、福音書以降はキリスト教の教えが聖書には書かれていると、異邦人は教えられていますが、それは聖書ではないのです。クリスチャンの教師や
牧師がそう語るから、そう考えているのです。
宗教とは、人間が神の言葉に、人の思想や考えを混ぜて作った
ものですが、聖書には、宗教の教えは書かれていません。
聖書に書かれているのは、神が選び出した純粋な神の言葉だけです。だから、1世紀当時、神の言葉=教え=トラーとは違う、
人間の解釈した口頭トラー、口伝律法と日本語では訳されていますが、それらは、「先祖の言い伝え、伝統の教え、律法の行い」と書かれているものであり、神の言葉を人が解釈した、トラーの本質とはズレている教えのことです。
それらは、ユダヤ教というものの中でも、キリスト教の中でも
存在し、行われています。
ユダヤ人の中にある思索が、キリスト教のクリスチャンのそれと異なる大きな違いは、ユダヤ人は、クリスチャンのように、神の言葉を変えることが可能などと考えていません。そんな冒涜的
思想は存在しません。中には、変な思想を持つユダヤ人もいますから、ひとくくりには言えませんが。
ユダヤ人の中には、神秘思想など、聖書とは丸でズレた思想を
説いている人達も大勢いますから、この点はたくさんの説明が
必要ですが、基本的に、神に造られたにすぎない人間が、神ご
自身である神の言葉を勝手に変えて良いなどというズレた思考回路などない、そのような教えを提唱していません。
ユダヤ人たちは、神の言葉から、ズレないで生きよう〜トラーの周りにフェンスを作ると言いますが、それらをしている間に、
本末転倒な教えが作られてしまっているのです。
それは、例えば最初の動機は純粋でも、シャバットに電気の付け消しをしてはならないなどの教えように、逸脱しているのです。
古代は、電気などありませんから、火を起こすというのは、
木を集めることから、相当な労働になるのです。でも現代では
スイッチ一つで、食事も温められますし、食洗機に皿を放り込んだら、そのまま洗ってもらえます。
時代錯誤の教えもあるのです。
これ、だいぶ前ですが、イスラエルの友人宅に滞在していた時に、隣の家が、超ウルトラオーソドックス、日本では、正統派
ユダヤ教というユダヤ人たちが住んでいる家で、間違って電気を消したから、付けに来てと、シャバットの時に言われて行ったことがあります。そういう逸脱した考えに発展することがあっても、神の教えが変化したとか、無効などと言いません。
あるユダヤ人達は、改宗儀式をしない異邦人は神の国に属さない、契約に加えられない人、だから改宗しない異邦人など蚊帳の外と考えていますから、それぞれ様々な教えがあるのです。
それらが、パウロが話していた、割礼があるなし〜ユダヤ人になる改宗儀式をしようがしていないが関係ない、改宗儀式により神の国の一員になるのではない!信仰により義とされている事実が何より大事と諭しているでしょう。
それは、クリスチャンでいうなら、洗礼していないなら、天の国の一員になれていないと考える人がいる、それと全く同じことです。
だからと言って、割礼は無用、無効、いらない、洗礼は意味無しということを言っているのではない、別の事をパウロが論じて
諭していることを、理解しないとならないのです。
パウロが語っているのは、人が義とされるのは、割礼と当時名付けられていた改宗儀式をするからではない!と言っているだけです。割礼は無効、トラーは終わりなどと、パウロが言うわけなどありません。パウロの書簡に書かれている「割礼」とは、当時
1世紀の改宗儀式を指して言っているからです。もちろんその中には、アヴラハムの割礼も入っています。でも、アヴラハムの
割礼は、永遠に続く契約の印であり、永遠に有効であり、意味のあるものであることは変わらないのです。クリスチャンの世界の洗礼も、洗礼しなくても、神の子になったことは、変わらない。
信仰により、イエシュアを信じただけでしょう?それだけで、義とされて、新しくされた事実があるのです。でも洗礼は意味がある、この違いを理解すれば、パウロが語っている意味を理解できます。
宗教〜人間の作った宗教は、聖書ではない教えで、色々と人を縛ります。恐ろしい程、たくみに人を洗脳して行くものから、純粋で気が付かずに、聖書とは違うことを教えていること迄、様々です。
クリスチャンの中では、日曜日に礼拝に来ない人は、神を愛していない、献金をしない人は、神のものを盗んでいる、どこか一つの組織に所属しないのは、神の国に属していない、クリスチャンではない、牧師に質問してはだめ、権威に逆らってはならない、又は反対意見をぶつけてはダメ、様々にあると思いますが、
それら全て人の教えであり、人を支配し縛るものです。そして、それらは、聖書とは関係のない、単なる西洋宗教を作った人々が作ったルールや教えなのです。
西洋人が作った宗教の教え、階級制度、献金、様々な儀式や祭りは、聖書に記されている神の教えや記念日とは異なるものです。
聖書に書いてあるものは、もっとシンプルです。
お互い支え合うことは必要であり、仲間は必要です。
シャバットや得に神の祭り、春の過越や、秋の仮庵の時期の一連の祭りで、集い祝うことは大事と神は教えています。
神が神の子ら全員を呼び出している時に、神の創造された記念日を皆で祝い、イスラエルの神の現実を地上で表す、宣言する、
それが地の塩、世の光の実態だからです。神の記念日の全ては
イエシュアを表し、教えるそのものが盛り込まれているからです。だから、神の教えを知る人以外、神の記念日など祝わないでしょう。
そして、正しく聖書を教えることができる人も必要です。
でも、それには、聖書に書かれていることを、正しく知っている、学び続けている、神の教えを生きている長老が必要なのです。ヘブライ語で、長老とは、「髭のあるもの」という意味の言葉
詰まり神の知恵に満ちて生きている、ヒゲがある〜長老だからです。
続く