旧約聖書と、新約聖書と何が違うのかを、議論しているのを、ネットや動画で見る、聞く事があると思います。
今の時代はネットで、色々な宗派の人たちが話していること、何を
根拠に、何を教えているのかを知ることができます。日本語の場合
日本国内の話だけですが、少なくとも日本のクリスチャンが何を教えられているのか、知ることができます。
神の教えを、前後に分断している事からして、神の教えとは違う、
おかしい、それは聖書ではありませんし、神の教えの最初と最後の何が違うの?という、この思想自体が、聖書的ではないのです。
聖書の最初の部分に、神の教えの完結編が書いてある!という事に気がついていなのです。聖書を考える前提からしてずれているのです。そして福音書以降は、全てその完結編=完全なる神の教えを土台に
解説している註解にすぎないのです。
福音書以降は、新しい教えでも、新しい契約でもない。
預言者達が書いた聖書を、使徒達が短く解説しているだけなのです。
そのような事を言う場合には、こういう事を主張しているのです。
1つの本があり、その中には、上中下があり、色々な章がある、
色々な言葉や文章が書いてあるものです。
1つの書のこの最初の部分と、途中は何が違うの?と言っているのです。1つの書には、一貫して同じテーマが貫かれて、そのテーマを
解説しているのです。
ここでは、こう言い、後でそれを否定し、人に永遠普遍、変わらないと主張していことを、最終的に無効にするという、そんないい加減な事は、人の書物でもしないのです。
人の体は、1つですが、足と頭とは何が違うの?というのと同じ事です。
考えて、頭が指令を出したら、足がそのように動くのです。繋がっているからです。頭が指令した事を、足が拒否するなんてありますか?
その場合は、神経がどこかで切れている=機能不全状態になっている証拠です。
聖書=神の言葉の前後が別物であると分断する異邦人思想は、それと同じ事を、言っているのです。そして、神の言葉を捨てる事は、神が教えている通り、自分の身に不具合、危険、神との距離、神に対する誤解を招く、様々な弊害をもたらすものでしかありません。
エデンの園のあの出来事〜神の言葉を曲げて否定したから、全人類に死が入り込んだ!罪が入り込んだ。それです。
神との距離、隔ては死です。今も同じです。だから神の言葉を否定するとは、聖霊=イエシュアを否定していることであると、気がつかないとならないのです。聖霊=神=言葉=イエシュアと、聖書には書いてあるからです。
神は神のトラーを瞳の如く守り、しっかり握り、そこから離れるな!
それがあなたの命を守るから!と教えているのに、異邦人は、神の言葉から離れよ!と遠回しに言っているのです。
聖書は、全部揃って丸ごと1つであり、全くどの部分も相反する教えなど書かれていない、そして、この部分は終わりで、機能終了などない。体と同じです。旧約、新訳とは違うという思想は、頭があるから、足は今動かなくて良いのですと、言っているのと同じなのです。
全部が揃ってシャロームで機能しているのです。その中には、互いに敵対し合い、機能しあう妨害をするものは1つもありません。
クリスチャンの中では、このような思想=聖書とは異なる人間の思想だけで、翻訳聖書を語り続けられて、教えられているので、聖書、
神の言葉に対する、様々な誤解を植え付けられ、刷り込まれ、そして、伝承し続けられているから、神の言葉の永遠普遍性、変化などしない真実に気がつけないのです。
このような思想を語る教えは、聖書の最初の部分を正しく理解していないのです。しかも、「トラー=神の教え、指導」を律法と解説し、
律法は今の新訳時代は異邦人には無関係とまで言うのですから。
イエシュアとは真逆の教えを人にしていることに、まるで気がついていなのです。マタイ5:17-19 ヨハネ14:15, 21
新約時代、聖霊時代という異邦人が解説している意味は、キリストが来たので、今までの教えは終了と言う、それは異邦人の教えでしょう?それ聖書ではありません。
イエシュアが教えられたのは、100%トラーであり、トラーを生きよ、生きる事はキリスト=トラーを生きよと教えているのに、それが全く通じていないのです。神の子らとされた人は、一体何を生きよと言われていると思いますか?あたかも、古い教えを終了した、異邦人が語る神の教えを自由に削除した新しい教えを生きると考えている、空気椅子思想が浸透しているのです。
大体、聖書=神の言葉に対して、旧約新訳という言葉など、神はつけていませんし、契約に古い、新しい、中身が途中で変更された婚姻契約などはありません。なぜなら、聖書に記されているのは、1つの同じ契約、シナイ山で与えられた婚姻契約を元に、全てを話しているからです。契約の中身は、同じ!参加する人の人数、参加する人の意識、頭脳に割礼がされているかいないかの違いがあるだけなのです。
新しい契約=再更新され続ける同じ婚姻契約です。聖書には、トラー以外の教えなど書かれていない!と言う永遠の真実に、まず気がついてください。
そして、クリスチャンの中に浸透しているのは、イスラエルと、異邦人を分けて考える、これは、ユダヤ教、キリスト教という聖書に
ない概念で考えているから、神の言葉だけが、はっきり浮き彫りにならないのです。イスラエルも異邦人なしには、シャロームになれないのです。それが聖書にずっと記されているでしょう。神殿の金の7つの支柱のメノーラ、至聖所の垂れ幕の5枚と5枚、神の義で繋がれている1つの大家族をそれを意味しているのです。
あなたの家族が、たとえば7人家族だったら、誰か一人でも欠けていたらどうですか?シャロームではないでしょう?
肉的遺伝的生まれでは、もちろんユダヤ人の血が混じっているか、
全く混じっていないかの異邦人はいます。でも、全て混血でしょう。
代表として、イスラエルを選んだのは、神の言葉、福音、イエシュアが正しく世界へ伝えられるために、イスラエルが選ばれただけです。
ユダヤ人イエシュアの遺伝子も、異邦人の血が混じっているでしょう。もちろん、異邦人もイエシュアを世界へ伝えていますが、イエシュア=イスラエルの神像、神の言葉が、正しくは伝えられていません。
変化する神、変化する神の教えと教えているのです。それ聖書ではありません。
新約と呼ばれる箇所、福音書〜黙示録には、創世記からマラキを終了する別の教えなどではなく、最初の部分に書かれたメシアが地上に到来し、メシアが、肉体をとって来られた、生けるトラーとして、
神の教え=人間の本来の生き方を示した事が、要約して書かれている
本当に短い、タナックの註解でしかないのです。
新約時代は、前の教えはもう関係ないという、非聖書的な思想を語り続ける事、聖書の真実=神の言葉は永遠普遍であり、イスラエルを通して同じく全人類に同じ事が教えられている事が、聖書には書かれている事実を理解して気がついた人達は、聖書に書いてある通りのイスラエルの神の言葉、イエシュアを、正しく世界へ伝えていかなくてはならないのです。
ここで、復習ですが、イエシュアが地上に来られる前には、「イスラエル」しかなく、そして、イエシュアが昇天された以降は、「教会」という新しい異邦人だけの群れが出来ましたというのは、聖書とは
異なる大きな誤解なのです。
事実、聖書にはそのようには、記されていません。
エデンの園から、1つの群れ=カハール、ケヒラ=ヘブライ語、そしてギリシャ語ではエクレシアという名で呼ばれている1つの群れしかありません。同じ1つの群れに全ての人が、継続して加えられ続けているだけです。不適切な翻訳造語=教会という言葉が、聖書に記された元の言葉の正しい理解を完全に妨げているのです。
よく考えれば分かります。神の壮大な計画は、1つ神、1つ国、1つ群に、全人類の残りの民=カハールを1つ、神の元に取り戻し、修復する事だからです。
その唯一性、エハッド=1つ、一体=1つ以上で全く1つの性質を
覆す解説をするのが、分裂思想=イスラエルと異邦人は別、
旧約と新約は違うという、異邦人が考えついた教えなのです。
旧約聖書はユダヤ人へ与えられた教え、新約聖書は異邦人向け?と
主張します。福音書以降の教えの中身は同じ教え=モーセの五書のみであることに、まるで気がついていないのです。福音書以降に、神の教えの全部が書いてないから、神の言葉は終わりなどと言うのですが、最初の部分に神の言葉、教えの完全版が既に記されているから、福音書以降は最初を知っている人を前提に書かれているから、全部など重複して書いてないのです。中学生に数学を教えるのに、九九を繰り返し言わないでしょう?分かりますか?
この聖書とは異なる思想が一般的に、異邦人牧師や教師が語っているのです。聖書の性質を理解しないまま、人の思想で教えられた聖書概念を他者へ伝え続けていることに、全く気がついていないのです。
聖書に記された、色々な事実を混同しているからです。
そして気が付くのは、こんなことをずっと2世紀以降から、異邦人の世界では教えられ続けて、伝授されて来たのかということです。
イスラエルが選ばれたのは、神の国の代表としての役割のためです。イスラエルの神の全世界の1つの大家族の代表、長男として選ばれたのがイスラエルです。異邦人は、どの民族でも、この1つの大家族に
同じく加えられると書かれていて、神の子らは、皆同じ婚姻契約の
加えられ神の教えを生きることを教えられています。
ある教えは、現代には合わない?と思うことがあります。これは説明が必要な箇所なのです。なぜなら、古代の生活と今とはもちろん違うそしてある教えは、エルサレムに存在する神殿に入ることに関しての教えだからです。でも、これは実際に神との関わりの中核、性質を教えるものなのです。
どういう意味か、見えないと思うので、いくつか説明してみます。
たとえば、今はスイッチを押すだけで、火を点火できます。
でも、古代では火をおこすとは重労働です。しかも、まず薪を集めなくてはならないetc etcだから、シャバットに火をおこさないというのは、そのような重労働の作業は、シャバットではしないからです。
でも、今はスイッチ一つで、できます。それをあるユダヤ人達は、
時代錯誤の教えに切り替えてしまい、自動エレベーター スイッチも押さない。電気のスイッチも押さない。そんなこと聖書に書いてません。それは人の考えた教え。
トラー=神の言葉の周りに、垣根を作って人が、神の言葉に違反しないようにするという意味ですが、ちょっとずれているのです。
タリートというのを知っていますか?衣の四隅に房をつけてという
教えがあります。この衣とは、毛布、ショールのようなもので、古代はこれを頭にかけて祈ったり、寝る時に掛け布団になったりという
役割もありました。
でも、現代では、いつでもどこでも眠れるように、祈れるように、
毛布やショールのような大きなものをいつも持ち歩いて携帯して、使うことはありません。生活文化が違うからです。
でも、軽いショールのようなものを身につけて、祈ったりするのです。
これは、何のためか、視覚に訴える教材なのです。衣の四隅、4とは
世界の四隅に繋がります。神の子らは、生ける水=聖霊=イエシュアを土の器にたたえて、そして自分の生き方から、生ける水、キリストの香りが、自分の生きている世界へ、流れ出て行く存在であることを
いつも思い出させるもの、教育ツール目で見てすぐ分かるものです。
私の場合は、家には、ツイツイート=房をつけたショールがあり、
そして、シャツの四隅に房が付いているものを着たりする事があります。現代、毛布を持ち運ぶ生活はしませんから、そのような違いがあるだけです。
トラーに記された、様々な教えは、神が私達に大事な事を教えているもので、異邦人が解説するように、今の異邦人には関係ないなどと言うものは1つも記されていません。
そのような事を主張している教えは、神の言葉の意味を理解していない場合に、そう語っているだけなのです。人間の目線から、人間の都合で主張しているだけであり、神から出てものではありません。
そして、はっきり認識してください。聖書に書いてない教えは、
神が言ってもない教えです。
それは人が作った教え、伝統で継承された宗教の教えです。
神は何と言いましたか?第七日目を聖別し、覚えてそれを代々永遠に祝って!と神が言われました。人は神が言われた事をするのが嫌で、自分たちの考えを持ち出すのです。
神が聖別した日は、神が聖別し人を呼び出しているアポイントメントの記念日です。聖書の神の言葉だけに戻らなくてはならない。
ヤラベアム王のように、人が勝手に神の記念日を変えて、別の日を
定めた、それは神が聖別した日ではなく、人が聖別した日であり、人が人を呼び出している日であり、神が人を呼び出して、聖別して祝うう日ではありません。神は何と言いましたか?
神の言う通り、そっくりそのままを生きて!と伝えているのです。
神の言葉を無視したら、神が伝える意味を理解することは、できなくなります。聖霊が教える?その場合、聖霊が書かれた言葉を正しく
理解しているという、大前提があることに気がついてください。
今日が1週間の中で、神が聖別された日です。人がどのように解説しようとも、それは人間の主張であり、イスラエルの神とは何も関係がないのです。神の言われる事を知りたかったら、聖書に戻る!それ以外、神が考えていることを知る方法はないのです。
Shabbat Shalom