ヤコブの生涯で起きた事は全部メシアに繋がっている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

創世記28:12 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。

28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。

28:15 わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。

 

この箇所、創世記12:1-3に神がアヴラムに言われた事と、同じです。エデンの園から、聖書に登場する鍵となる人物が、

皆直接イエシュアに出会い、聖霊を内側に受けている事が分かる事が書かれています。ヤコブに関しての後に、アヴラハムに戻って説明する必要がある内容が、多くあります。

 

28:16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。

28:17 そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。

28:20 ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、

28:21 安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。

 

ヤコブは、主がそこにおられるのに「知らなかった」と告白しています。ここで、知らないと言う言葉は、関係の中にある知る、

夫婦間でお互いを知るという意味に使われる「知る」ヤダ

ヤダティיָדָֽעְת  ロウלֹ֥א  右から左へ読んで、「ロウ ヤダティ」

と書いてあります。体験的に内側での納得、気がつくと言う事が

なかった、体験的に知らなかったと、ヤコブは言っています。

そして、「神の家」とあります。ベイト=家、エル=神です。

これは、ヤコブがこの時、ベテルと呼びますが、アヴラハムも同じ「ベテル」で神と出会う体験をしています。ベテルとアイの間で、初めて「主の名」を呼んだと書かれています。天と地は直結している。

天が、エデンの園から出たので、今見えないだけなのです。

イエシュア が、ここに書いてある言葉を、そのまま言っているのです。

ヨハネ8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。

8:57 そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。

8:58 イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである

 

イエシュアをアヴラハムも、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ

、ヨシュア、ダビデ、ソロモン、預言者たち全て、皆体験的に知り聖霊を内側に受けていたのです。

「私はある」יְהוָ֔ה ヘブライ語では、見えます。主と訳されている言葉は、ヘブライ文字4文字で記される、「神の人に表された最も親密な名前」これを、「主の御名前」と呼んでいるものです。

イエシュア が「いる」と言われたのは、この4文字の言葉で、

表しているのです。

翻訳では、「ありてあるもの」「わたしはある」などと書かれていますが、英語訳では、「I am that I am」日本語でも、「わたしがそれだ」とも訳されていますが、このヘブライ文字4文字、

「ヨッド ヘイ ヴァヴ ヘイ」で表される、神の名=実態なのです。

つまり、アヴラハムが生まれる前から、「いる」יְהוָ֔הと言う言葉は、神の最も人に対して表された親密な名であり、このイエシュアの言葉で、「わたしがそれ、神である」という宣言になるのです。

ヤコブがベテルで、主、これは、イエホヴァ、ヤーウエーなどと

発音されている同じ言葉です。「私はある」יְהוָ֔ה と言われた

イスラエルの神=イエシュアと出会っているのです。「私はある」יְהוָ֔הと言われる神=イエシュアと出会ったから、28:21で、ヤコブはイスラエルの神=ありてある永遠から永遠に独自に存在するיְהוָ֔הが「私の神」と信じて生きますと告白したのです。

 

このような体験は、私達もしています。イエシュアに出会う、

そして、イエシュアを知っていく度合いは、生活の中に起きる様々な出来事を通して、より深く知って行く体験をしているでしょう。神と共に歩んでいる事を認める生活ならば。

 

父なる神=イエシュア =聖霊と、神を別々の存在として分裂して考えると見えないですが、イスラエルの神はどの名で呼んでも、同じ性質、1つ一体の神である事を忘れないで、聖書を読まないとなりません。不可解、不可思議ですが、それがイスラエルの神=エハッド=1つ以上で全く一つの神。

人間が、心、精神、体で1つの存在であるのと同じ、心が病めば

体にも影響が出て病気になる、1つとして繋がっている存在でありどこも切り離せないからです。全部揃って一人の人なのと同じです。

そのヤコブが、再び「יְהוָ֔ה」イエシュアに出会う体験をするのです。神に出会って生きていても、なおも自分が誰か分からない

これは、一人一人体験している事でもあるのです。

騙しの偽の服を着て、叔父に騙されて報酬も奪われ生きて、そして騙した兄に怯える恐怖と、兄の服を着たままの、ヤコブ=かかとをつかむものとして、生きている、そのヤコブが、本当の自分と直面、自分の問題の根に直面させられる出来事に遭遇するのです。これがなければ、エサウにも、ちゃんと向き合う事は出来ないからです。自分と向き合えない人、自分が誰か分からない人

自分を正しく知らない人が、他者を神の目から見る通り、正しく見る事などできないからです。

 

創世記32:24 ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、

夜明けまで彼と組打ちした。

32:25 ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。

32:26 その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。

 

一人の人が、ヤコブと夜通し格闘します。ヤコブは、その人に向かって、祝福してくれるまで、あなたを去らせないと言っています。

ヤコブは、多くの家畜、家族を得て、祝福されているのに、神に

祝福されているということが、未だによく分からないままいたのです。

それは、騙しの人生、自分を生きる事ではなく、誰かに与えられた本来の自分ではない服=自己像を着て、家から離れて生きて

来た事でも分かります。

 

創世記32:27 その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。

 

ここで、ヤコブは名前を聞かれます。

どうして、ヤコブは名前を聞かれたのでしょうか?

名前とは、その人の実態、本質、評判を表すものであり、自己像と直結しているものだからです。

あなたは誰か?と、ヤコブは聞かれたのです。あなたは自分を

誰と言いますか?です。

そして、ヤコブは自分で「ヤコブ〜かかとをつかむもの」であった事を、初めて認め告白するのです。人のかかとを掴んで引っ張って生きていた。ヤコブは、兄のかかとを掴んで、生まれて来ました。

そして、ヤコブは兄エサウの長子の権利と、祝福を騙して掴み取ったからです。自分ではない、兄の服=実態を着せられて、自分を生きる事が分からないまま、人生を悩みの中過ごしていたのです。その自分と向き合う、対決する事、本当の自分は誰であるのかを知る事を、ヤコブはイエシュアからさせられたのです。

そして、神がヤコブに、ヤコブの本来の性質である、名前を与えたのです。

この人、御使いとは、イエシュアだと思います。神と書いてあるからです。そして、その後にも、その事が証明される言葉が、

書かれているからです。

 

創世記32:28 その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。

 

イスラエルという名前は、「神と格闘して、乗り越えた、勝利した」という意味です。元の言葉は「サラ」שרה「打ち勝つ、勝利する」、エル אל 神です。

 

創世記32:29 ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。

32:30 そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。

 
神と顔と顔とを合わせて、なおも生きている、これは、モーセが
シナイ山の上で、イエシュアと会い、神と顔と顔を合わせてなおも生きているという事と同じ事が起きたのです。
ペニエルとは、パニン=顔、エルは神です。
 
ヤコブは、もものつがいを打たれたとあります。
 
創世記32:31 こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえにびっこを引いていた。

 

32章には、たくさんの内容が詰まっています。ヤコブは、自分が誰なのか分からなかった。いや、自分の自己像を歩まず、他の自己像で、騙しの中に、歩んで来た人生。そして、ここで対決する相手は、み使いとありますが、神ご自身です。本当の自分=祝福されるには、自分が誰か、ヤコブは知る必要があったからです。神と顔と顔を合わせてもなおも生きているとある。この意味は、本来の姿で神と対面する場合には、死なないのです。

そうではなく、聖霊が内側に住まない、頭脳に割礼がない人が

神を見たら、死ぬのです。

そして、ヤコブの今迄の苦悩と、騙しの人生で、イエシュアに出会うのです。いや、人はイエシュアに出会っていても、人生の

歩みの中で、神の本当の顔=実態に、その都度、その度出会い続けて、深く、深く神との関わりの中で出会っていくものです。

人生、どの道を歩んでも、どんな事に直面しても、それは、神と出会う体験をし続ける、神に出会う体験の道が用意されているのです。それを通して、神を知る度合いが、深く深くなっていくからです。

なぜなら、イエシュアを信じても、それは単にスタート地点であり、神の全てを、人が全て理解しているわけではない、ただの

始まりだからです。永遠をかけて、神との関係の中で、神を知っていくからです。

ヤコブは、「かかとをつむもの」から、「イスラエル」神と格闘して乗り越えた、打ち勝ったという名を与えられました。

もものつがいを打たれたとは、ヤコブの今までの歩みを、すっかり絶たれた事を意味するものでもあり、赤ちゃんのように、1歩1歩を確認しながら、注意深く新しい人として生きる歩みの人生に切り替えるスタートが、ここから始まったのでしょう。

かっこ悪いですよね、びっこ引きながら歩く。人から見たら

かっこ悪い生き方、神の教えを生きるなんて、古くさい、人気ない、かっこ悪い、今流行りの思想、大衆の生き方とは丸で違う、頭が固い、古い〜差別などと言われるかもしれない生き方です。

それでも、神の実態を生きていく、それが神の前には、神の実態を地で反映し、表す生き方なのです。それが、地の塩、世の光として、この大きな暗闇で輝く役割を与えられた一人一人、天の祭司=イエシュアの実態を生きる人として、召されたのです。

そして、ヤコブはイエシュアと格闘した後、これから、一番の問題の根、自分が騙した相手に殺そうとまで恨まれている兄と、

対面しなくてはならないのですから、ぴったりの時に、神はヤコブに、「ヤコブ=イスラエル=自分は本当な誰なのか」を教えたのです。

33章では、兄とついに対面する時がきます。

20年の月日が、既に過ぎていました。

 

続く