神の言葉を信じないことは、不信仰であり、それらは、サタンに扉を開くチャンネルなのです。
どのように全世界に、全人類にもれなく罪が浸透したのですか?
神の言葉を曲げた、神の言うこととは違うことをしたから、全人類に罪が入り、死が入り込んでしまったのです。なぜ、同じ罪を繰り返し続けるように教えているのでしょう?
そうするように操る、促すサタンが、裏に今もいるからです。
アダムとハヴァが、神の言葉を疑うように、蛇にそそのかされました。完全に造られている神の性質通りのアダムとハヴァだったのに、、蛇の言葉の方を信じてしまったのです。
「あなたがこれを食べると神のようになるから、神がそれをさせないようにしてるんだよ!神が知識の木から食べてはダメと言った、本当の理由はそれだよ!」と蛇が騙したのです。
これ2つの要素があります。
1つは、蛇の作戦の特徴は混ぜ物、半分嘘、半分本当、何が本当か分からなくさせるやり方です。
先ず神の言葉を疑わせる!今のままでは、あなたは不十分、完全ではない、だから神が言われたことではない、何かをやって付け足さないと足りないよと、蛇の言葉で思わされてしまったこと。
その時やらなければいけないのは、神はこう言った!聖書には
こう書いてある!ということをやらなければ、ならないのです。
2つ目は、神の性質通りに造られた完全な人間だったのに、彼らの自己像を疑わせたのです。
これを、ずっとやらされているのです。
神の言葉を疑う、不信仰は、不安、心配、恐れを、人の中に招き入れます。それがサタンのやり方だからです。人を不信仰=神の言葉を疑わせ、そして不安、不安、恐れを植え付けるのです。
そして、サタンが、人の思索を乗っ取るのです。神の教えていることとは違うことを言い、それを信じさせる!!!!
形は違えど、敵はこれをずっとやっていることに、気が付きますか?どんなに小さな、ズレ、罪を、頭の中にある思索から来るのです。
鳥が頭の上を飛び交うのは、避けられませんが、その鳥を頭に
とまらせて、巣を作らせ、自分の上に住まわせることは、避けなければならないのです。神が契約を結んだ時、アヴラハムが裂かれた動物の上に飛ぶ家禽類を、追い払ったように、イエシュアが
悪魔の大御所に、神の言葉で対抗したように!
これが、全ての思索をキリストイエスにあって捉えて!とパウロが警告して教えたことなのです。
サタンの手口はエデンの園から、全く同じです。
だから、聖書の最初から、神の言葉に付け足し、差し引きする
危険を、神は、人に教えているのです。
でもそれを人はやっていることに、気がついてないのです。
完全なもの=神の言葉が、歴史の途中で、不完全になりえません。神の性質は歴史の途中で変わりません!神の言葉は、歴史の途中で変わりません!でもクリスチャンの世界では、聖書とは
真逆な人間由来の思想を、神の伝える真理と付け加えて、教えられてしまっていることに、気がついてないと思います。
神は永遠に変わらない、イエシュアは昨日も今日も同じ永遠に同じ!と、神自ら人に言っているのに、どうして、神は神の言葉は変化したと、言い続けていることに、全く不思議に思わないのでしょう?蛇の嘘に思索が乗っ取られている良い例だと思います。
婚姻契約の命に生きることは、すなわち、神の子らの性質そのままを生きることを、教えているのものなのに、神の言葉は今は命のない律法なので終了、関係ない、自由選択などと、人間の思想=人の伝統の言い伝えを、神の言葉を退けて、言い続けていても、それが神の言葉、教えではないとは、気が付かないのです。
クリスチャンも、モーセの五書のタイトル、お題目である十戒を唱えますよね。カトリックでは、神の言葉のタイトル、題目の、偶像、他の像を刻むなという神の警告を、完全に無効にしていますし、クリスチャンも安息日を第7日目ではなく第一日と変更したカトリックの教えを継承し、神の言葉の方を、無効にし、神の教えを継承していません。
多くの人は、日曜日が安息日と聖書に書いていないこと、聖書の中にはない教え、聖書の中で、誰も実践していないことを、信じて実践しています。
それは聖書=神の言葉ではなく、人間が決めて作った教えの方を、取って、神の言葉を退けていることが本当の理由なのです。
イエシュアは出エジプト20に記された、10の言葉、トラーの題目、タイトルの1つであることを例に挙げて、解説しています。
ここで、よく考えてみてください。イエシュアはモーセの五書=父の教え以外しません!と言われたとおり、それ以外の父の言葉=神の教えはありません。
十戒とは、神の言葉=聖書のタイトルお題目です。モーセの五書全体で、十戒のタイトル、本当は「10の言葉」とヘブライ語でいう神が伝えた教えの内容を解説しているのです。
そして、イエシュアが神の言葉を引用して解説しているという
意味は、モーセの五書全体、どの箇所も一点一画も否定しない、
全て揃って完全なる神の言葉=教えであるという、聖書の永遠の事実に対する理解をはっきり持てば、イエシュアが、神の言葉のある教え、ある部分を捨てるなどという、異邦人が勝手に言っている思想が、嘘、神の言葉に反する罪、冒涜、イエシュア信者が決してやってはならないと、神から伝えられていることであることが、はっきり理解できるのです。
人間の体を、ある部分を捨てるとか、ある部分を切り落とすと
言っているのと、同じことを言っていると理解してください。
イエシュア=聖霊=言葉=神=トラーと聖書には書かれている
そして、シャロームとは、何一つ欠けがない、全部で1つ、完全なるものを表しているからです。
聖書を、人の教えの思想で歪めないで読み続ければ、聖書の記述からはっきり、神が伝える永遠の真実を確信できます。
マルコ7:10 モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、
また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。
7:11 それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、
供え物ですと言えば、それでよいとして、
<コルバンとは、生贄と訳されていますが、神の家の祭壇に捧げるコルバン=近づくという意味の捧げ物の事です。それを捧げるから、あなたにあげるものはありません!と、困っている親に対してひどい冷たい仕打ちをしているのです。親は歳を取ったらお金が少なくなり、そして子供が親をサポートする、それが父母を敬うの実際の生き方だと、トラーは教えているからです。>
7:12 その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。
7:13 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。
また、このような事をしばしばおこなっている」。
<ここまでのイエシュアの解説でも分かる通り、イエシュアが反対しているのは、人の言い伝えであり、神の教えではない、人の言い伝えに固執し、神が教えていることからずれた生き方をしている!!!と教えているのです。これ今でも同じ真理です。>
7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、
「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。
7:15 すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがす
イエシュアがこの箇所で、外から入る全ては人を汚さないと言われた意味を、今は何食べても、人は汚れないなどと考えるならば、それは聖書神の言葉とは完全にずれた解釈です。毒、ウイルス、菌を食べても、体は影響受けないのですか?違いますよね。
異邦人だから、そんな読み方をするのです。1世紀イエシュアがその場で語る人の中に、異邦人のように、なんでも食べてよいとイエシュアが言っているなどと、ずれてた捉え方をする人は一人もいなかったのです。
もし神が人に神の教えに違反することを教え、きよくない動物を今は食べて良いと言うならば、神が伝えている聖別の意味が吹き飛びます。
イエシュアがレビ記11章に記された教えを破るように人に教えて、きよくない動物を食べよ!と教えるなら、イエシュアは罪人となり、メシアでもなくなります!!!人の罪を負う資格など、神の子羊では無くなります!ということに気がついてないのです。
そして、神が伝える通り、神が創造されたきよくない動物=清掃動物は、人間の食べ物として造られてはいないので、肉体的にも、人を汚し、害毒なものなのです。
汚れたものに触れる、死体に触れることと教えているからです。
毒を食べたら、きよくない動物を食べたら、すぐに分からなくても、体には悪影響が出る、動物と人間の間を行き来するウイルスが発生するのです。血の滴るレアステーキ肉も体には害毒なのです。律法?いや、人間が食する動物を造られた創造主が、血は食べる物ではない!と本当の事、危険を教えているだけです!
ちゃんと素直に聞けば、神は人の健康、安全全てを守るために
神の造られた世界の中で生きる全てを教えていると、理解できます。
そして、きよくない動物、または血を食べることは、聖別を汚す行為でもあるのです。シャバットを汚すことも、神の子らの聖別を汚すことなのです。神が最も忌み嫌う!という強い最大限の嫌悪を表すヘブライ語で書かれているのです!物理的霊的は一体だからです。
イエシュアは、神の言葉のどの箇所も、ここではレビ記11章を違反する教えを人にして、自分も実行したら、イエシュアは神の前に罪を犯し、ただの罪人である!とはっきり理解してください。
そして、イエシュアの言葉をここで、聞いた人たちの中には、誰一人としてクリスチャンが発想するような、今はなんでも食べて良い、などと考える人は一人もいないことに、気がついてください。簡単に言えば、日本人が、ゴキブリやネズミを食べ物と思わないことと同じなのです。まして、神が人にきよくない動物は食べ物ではない!と教えているのに、どうしてその神の言葉に逆らう事が、神の教える義なのですか?
神の言葉に基づき、よく考えてみてください。
昇天以降は、人間や動物が進化して別物になりましたか?
きよくない動物は、きよい動物に変化進化したとでも、言うのでしょうか?全く同じでしょう?構造、DNAは、同じままです。
きよくない動物=清掃動物!永遠に変わらない。
人間の食べ物ではない!と神が教えることが、どうしてそんなにも拒絶感、感じるのか?それは異教徒異教神の文化で馴染んだ、自分の大好きなこと、楽しみを奪われるのが嫌だから、自分に都合悪い教えだから、自分の都合が、神の教えに拒絶感感じる、
それが本当の理由なのです。
神の言葉が昇天以降変わった!とは、人の教えである、そんな
単純な事実が分かれば、神の言葉、教えではない事は簡単に識別できて、嘘とまことが見抜けるようになります。
しかも、神は人の安全〜体、霊、心、精神、思索の全てを守るために、人に生きる上での全ての領域を網羅して教えているのに、その意図がまるで理解していないということになるのです。
人を縛る教え=律法などと考えているからです。
全ての食べ物=神が人間が食べる目的のために創造された全ての食べ物と理解している人が、イエシュアの言葉をここで聞いている!その事を理解してください。しかも、この箇所の論点は
手洗いの儀式をしないで、食べ物にふれたら、食べ物が汚れるとずれた思考回路をイエシュアが正しているのです。
きよくない動物がきよくなったなどと、イエシュアが教えてもいない!
そして、イエシュアは何が人を汚すと言いましたか?
マルコ7:18 すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。
7:19 それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。
7:20 さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。
7:21 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。
7:23 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。
当然でしょう。クリスチャンの世界では、ここを読んで、イエシュアが話している意味、レビ記11章は永遠に変わらない!
ということを理解しないまま、人が作った思想=神の言葉は十字架で無効になったから、今はなんでも食べて良い、などとイエシュアが教えてもいない教えを作り出しているのです。
つづく