1世紀の信者たちは、神の言葉は永遠普遍であり、変わらない!シャバットは、7日目であり、新月を祝い、神の祭りはレビ記
23章に記された、神が創造された暦であった事に、全ての人が
同意し、実践していました。
ユダヤ人と異邦人は1つの家族であり、分裂した家族ではない。
同じイスラエルの神の家族は同じ教えを生きて、世界を治める!
それが、現代では、異邦人は、2世紀以降、神の言葉が変わったという教えに移行し、オリジナルの神の言葉ではない、西洋宗教人間の教えが混ざった教えを信じるようになり、オリジナルの神の教えから離れた、最初の愛を忘れたと黙示録2:4で警告された通りになっています。
そして、今の世界は、神のデザインである結婚は男女間でするものだけではない、そんなの関係ない、パートナーという言葉は、異性の相手ではなく、同性であったり、男女として結婚しても、途中で、どちらかが別の性に変更する。いや、変更するのは、
表向きの形、見かけ、姿を変形する手術でするだけ、ホルモン剤
投与するだけ、DNAは永遠に変更できない。
自分の頭の中で、自己像が混乱しているだけなのです。
そして、アメリカでも、学校で祈る事を禁じられ、今まで普通に通じた事が、誰も同意しなくなる、みんなバラバラ、異教の神々の教えが浸透する、終わりの時を迎えているのです。
それどころか、アメリカでは、クリスチャンが多くいるので、
堕胎が罪であるという前提から、日本のように堕胎が合法という意識がありません。堕胎は罪。そして、あの初代黒人大統領が、子供は2歳まで、合法で殺せる法案を通そうとしていた。
日本にも未成年と、性的関係になることを禁じている法律がありますが、アメリカなど、幼児性愛の闇の世界があるので、幼児に対する法律を変えようとしている、世の中、古代にあった、バアル、モレク神に仕えること、ずっと闇に密かに行われてきたことが、今堂々と合法化されようとしているのです。
大衆の声が大きいからと、それが、神の伝える真理、真実とはなりません。
そのことを覚えておかなくてはならないのです。
神の言葉を、どの点でも、曲げること、否定する、削除、終了だ!ということ!それは安全な鎧兜、家を守る壁に穴をあけ、
罪を招き入れる綻びを作ることです。
その綻びは、最初は小さくても、どんどんどんどん大きくなっていくのです。
ユダヤ人が世界へ福音を伝えた、伝える役割を与えられたのは、
純粋な神の言葉=トラーを世界へ伝える役割を、神が与えたのです。神の言葉に混ぜ物をした教えを、世界へ伝えてはならないからです。
私が聞いた、教られたことは、聖書の中に記されている真実もありますが、そうではないこと、聖書の土台、根幹を揺るがす教えでした。その教えは、人間の教えが混じっている純粋な神の言葉ではなかったと、はっきり気がついたのは、15年前です。
なぜ気が付けるのか?ヘブライ聖書に書かれた意味を、書いてある通りに教えられる教師を得て、手ほどきを得て、そして、人が作った神学思想や、宗教、どうして神のオリジナルの言葉がかき消されていったのか、歴史の中で起きたこと、聖書とは違う教えをした、異邦人教父の思想が聖書からずれた内容であると、聖書に記された事実から突き止めたからです。でもいっぺんには分からないのです。
徐々に徐々に、真実の点と点をずっとずっと繋げ続けて行く。
知りたいから追求していく。真相を突き止めたい!何が聖書に書かれているのか知りたい!いや、虜になるという方があってるかもしれない表現です。それほど神の言葉は人を惹きつけ魅了するもの、そうです!安全ベルトはそのような役割があるからです。
人の教えに洗脳されている、プラス異邦人の生まれで、トラー=聖書に馴染みのない背景で、聖書に何が書いてあるのか、ヘブライ語で伝えられている内容を全く知らなかったから分からなかったのです。
永遠の中から既に用意され、完結して、完成している、イエシュアの贖い、子羊の血の贖いで、全ての人はイスラエルの神の元に
戻ることができる。そしてイエシュアが全ての罪を清算したのです。
罪という言葉は、単数であったり、複数であったり、罪の種類も
あるのです。意図的に行ったこと、意図しないで行ってしまったこと、気が付かないまま、人を傷つけていたことなど、様々に
あるからです。でも、人の罪を覆う、神の憐れみとは、複数形で表されているのです。単数ではない。
ジーザスが十字架にかかって、人の罪を負い、復活され、そして
信じる人は聖霊を受ける。これは聖書に書いてある通り真実ですが、その後の教え、神の言葉が途中で変わる、イエシュアが来られる前までの人には救いはなく地獄に落ちたとか、律法を生きて
義とされたとか、イスラエルだけが今も神の教えを生きていれば良いとか。
その他、諸々、異邦人は神の教えを、今生きる必要はない、律法の下には今はいない、神の記念日は今は、いつでもよい。神の記念日はイスラエルだけがやれば良い?クリスチャンは永遠に天で、ユダヤ人は永遠に地を、バラバラの2つのグループとして治めるのだ。イエシュアが現れて、クリスチャンだけ地上から消えるから、神の祭りなど関係ない?
いや〜天と地が一つになると書かれていることを、知らないのでしょうか?
エルサレム、ヘブライ語では、イエルシャライム、それは複数で表されている言葉!
天と地が二つが、ぴったり1つになる日が来るからなのです。
神の言葉は今は無効になったので、神の教えを生きるかどうかは
自分が考える判断で決めれば良い、その本人が選べば良い?
救われる、贖われる、聖霊を受ける、神の子とされる。
その点だけは、聖書の事実でも、西洋人が考えついた教えは、
聖書とは異なる、神が神の言葉は1つであり、永遠普遍!と神が
伝える事とは真逆な、空想話を伝えられている!という事実を、聖書から突き止め、発見するショック。
2つのショックです。神は神が言う通りに嘘つきではない。
神は途中で約束や言葉や態度や性質を変えない!変わらない!
その真実の再発見にたいするショック。感動。
そして、もう一つのショックは、聖書ではないことを、世界の
異邦人は本気で信じて、教師が神学校で聖書ではない教えを教えて続けている、聖書を目の前にして読んでも、書いてある事実に気がついていない。その2つのショックです。
人の頭脳は、先入観が植え込まれると、何を言われても受け取れなくなるからです。
その誤解を解くためには、聖書に戻り、何が書いてあるのか
幼児のように素直に、はっきり検証し直すこと!神の言葉が永遠と神が言われることを否定するならば、その場合、真実は発見できませんが、本当の事を知りたいと、求めれば、真実の答えは神から、聖霊=言葉から直接証明してくださいます。
クリスチャンは、神の教えが無効になった証拠が、新約聖書にたくさん書いてあると信じています。でも、福音書以降には神が神の言葉を終了した教えなど1つも書かれていないどころか、聖書はどの箇所も100%モーセの五書の解説である!モーセの五書に反する教えなど書いてあるわけなどない!という理解が最初からないのです。神が言われたことから、ずれているからです。
神は永遠に変わらない、神の言葉も永遠に廃らない!と言っているのにどうして、真逆の教えを吹聴しているの?と考えれば良いのです。聖書は完全な神の言葉で1つであり、変わらない!と聖書に書いてある言葉を信じならが、真逆なことを信じて、実践している矛盾がみえてないのです。全部人の教えが神の言葉を潰している!!!その出どころはエデンの園のあの蛇!だからです。
危険!
クリスチャンが全ての食べ物〜きよくない食べ物も、今はきよく
なったと完全に誤解している箇所、イエシュアは何を話して、
この箇所は何が論点なのでしょうか?
マルコ7:1 さて、パリサイ人と、あるトラー学者たちとが、
エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。
7:2 そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。
7:3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。
<この箇所ですが、書いてある意味通りを、まず正確に把握する事をしないとなりません。この箇所に書いてあるのは、モーセの五書の神の教え=トラーのことではないことに気が付きますか?
昔の人の言い伝えと書いてあるでしょう。これは、今やタルムードやミシュナとして文字にされているものですが、当時、パウロも言っていた通り、「口頭トラー」のことなのです。
口頭トラーとは、ユダヤ人の間で、モーセの五書、シナイ山で与えられた文字にした神の言葉=教え以外、直接神がモーセに伝えた別の教えがある!というユダヤ人の言い伝え、仮説なのです。
その仮説が真実ではないのは、神が口頭で伝えたとする内容が
人により解説が違うからであり、神は別の教えをモーセに与えたなどとも伝えてない、聖書に書かれていないからです。
ユダヤ人の世界でも、このように作られた教えがあるのです。
この口頭トラーを、「昔の人の言い伝え、先祖の言い伝え、律法の行い」と福音書以降に書いてあり、パウロも同じように説明しているのです。
人の言い伝えと、純粋な神の言葉=モーセの五書=トラーとクリスチャンは混同して考えてしまっているのです。聖書を理解するのは、正しい情報=当時その文化で使われていた言葉の意味を
知り、理解することは必須です。現代の私たちの思想、人の教えや教理が解説する空想で考えては見えないからです。
トラーには、手洗いの儀式をしなくてはならないという、神の教えはありません。手洗いの儀式とは、単に手を洗うのではない、
もっと複雑な儀式を、しないとならないのです。
どうしてそんな発想をすると思いますか?以下にあります。
7:4 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、
食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。
パウロが解説した、隔ての壁、当時の律法の行いと呼ばれる、
ユダヤ人、人間が考えた、色々な規則で、異邦人とユダヤ人は
交わりや関わりを一切持たない、完全決裂があったのです。
ここで、市場とありますが、異邦人が物を売っている市場に足を
踏み入れて、そこには、神の教えでは、きよくない動物などが売っているから、それらを売っている異邦人と接触したら、自分も汚れると考えていた。その汚れている手、異邦人、異邦人の売り物に触った手で、食べ物を触れたら汚れると、教えられていたからです。
ここで、1つ理解することがあります。レビ記11章には、
汚れた動物、その死骸に触れた、血がしたたったら器も汚れるからと教えています。
今では知識があると思いますが、調理人でも生肉を切った包丁や
まな板を布巾で拭いて洗わないまま、調理している動画を出して
炎上していたのを聞いたことがありますが、いや〜衛生観念がない!神は生活の全てに至る領域を教えていますから、当然どんなものが、人に毒、害、ウイルス、菌が繁殖してしまうのか、
モーセの五書の中でちゃんと教えているのです。
少し、はずれますが、シャバットで電気のスイッチも押さないという、ユダヤ人の教えも「人の言い伝えの教え」です。
シャバットには、労働、働かないと教えられています。
それは神の教えです。
その意味は、普段の労働から、お金を生み出す行動から、作業や
研究、宿題から一切解放される時間を作り、神が全てを備えている事実を思い出す。二日分のパンで表される、労働しない時も神が用意してくれる事実を認めて信頼して止まる。
神と人と本来のエデンの生き方に戻る時間を確保するため、そんな普段の余計な労働をしないのです。
でもそれがエスカレートすると、スイッチも触ってはだめなどというような事に、逸脱して、本来何のためにそういうことをするのか、本質を忘れ、本末転倒になる良い例なのです。
しかも、太古には電気もない、スイッチ一つで明かりがついたり
料理を温められない。その意味は、火を起こす労働をして、火を起こす大変な作業があるから、古代ではそれはしない。
でも今は火を起こさなくてもスイッチ一つで温まります。
その時代錯誤があるのですが。
ここで手洗いの儀式〜人間の言い伝えを、イエシュアの弟子達がやらないと咎めているトラー学者にイエシュアが、さとしている場面なのです。
7:5 そこで、パリサイ人とトラー学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。
<これは、最初から、神の教えではなく、彼らの中にある伝統の習わしをなぜしないのか?と言っているのです。>
7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。
7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。
<人間の教えに固執し、人の教えの方を神の言葉を差し置いて
尊重し、神のいましめ〜教え〜トラーを蔑ろにしている!
これしていることに、気が付きますか?なぜ、神の教え、言葉を
廃れた、終了と言い、人間が作った宗教の教えやきまり、儀式や祭りを尊重して実行しているのですか?同じことです。>
7:9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。
<本当にその通りです。異邦人は神の戒め〜トラーは、廃れたと教えていますよね。イエシュアの言葉に照らし合わせたら、それらが神に対して何を意味するのか、気が付けるはずです。
イエシュアはモーセの五書=父の教え=トラーを破棄し捨てるようになど教えてなどいない!!!という永遠の真実に気が付かない限り、神に敵対する人の思想にのって、聖書ではない教えを世の中に発信し続けてしまうのです。>
続く