過越の祭りに向けて | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

私がはっきりイエシュアに救い主として出会った経緯は、

聖書の言葉から直接気が付いた事です。だから、神の言葉の

力、インパクトは人の命を、人生を変えると言う事実を最初から体験しました。

 

イエシュアに出会うと言う下準備はずっとされていたのです。

でも人は、ある時期まではっきりとは救い主には気が付かない、

どこではっきりと新生体験をするのか、それぞれの人生の途上で異なります。

 

子供は親に教えられていても、それぞれがそれぞれの時に救い主に出会う、それは人が決められる事ではないからです。

 

私は聖書を読んで教えられていたと思っていました。

もちろん、翻訳聖書を読んで、救い主が私達の罪の為に代わりに死に、復活されて、その命の贖いをある時神に出会い、気が付き

新生体験をし、聖霊が住まうと言う事実は正しくその通りです。

 

でもその後の人生を神の言葉に根付いて生きると言う点が

ぼんやりしていて、見えませんでした。

人に親切にする、忍耐する、様々な事も事実ですが、それは普通の人でも、本来の人間の性質を生きている人も大勢います。

 

でも、聖書に書かれている本来の言葉の意味、元の教え、神の教えの全貌を教えられる事はありませんでした。

 

もちろん、福音書以降には、神の教えの抜粋が書かれていますから、何となく分かるのですが、それは神の教えのほんの少しの内容なのです。

聖書を手に取って立てて見てみると分かると思いますが、

福音書〜黙示録は聖書のほんの20%の箇所です。

 

どうしてかと言うと、それは聖書の最初の80%の解説、註解

まとめとして書かれているから短いのです。

詰まり、神が人に伝えている教え、生きる事の全貌、罪の定義の全貌、聖別の全貌の詳細は福音書以降には、全部は記されていません。聖書の最初、モーセの五書に人の生きるに必要な教えが

全て書かれていて、ヨシュア記以降は、モーセの五書を解説して

いるからです。

だから最初の部分に何が書かれているのか分からないと、最後の

要約だけ読んでも、意味不明になるのです。

 

さて、クリスチャンの世界では、復活以降、神の教えの大部分が終わり、神の記念日も祭りも終了したと教えられ、そう考えて信じていますが、聖書を読めば分かる事があります。

福音書以降には、復活後も、同じ神の教え=モーセの五書を生きて、そしてレビ記23章の記念日を祝って、しかも神殿が存在しているから、シャバットや祭りは神殿で行われていて、動物の

コルバン=捧げ物もしっかり、神殿崩壊するまでされていた事実だけが書いてあります。

 

しかも使徒2章の祭りは、三大都上りの祭りの1つである、

シャヴオートの祭りであり、シナイ山で婚姻契約を受け取った記念の祭りなのです。過越の祭り、シャヴオート、仮庵の祭りは全部繋がりワンセットの祭りなのです。

シャヴオート(ペンテコステ)は、聖霊初降臨祭などと言う名前、主旨の祭りではありません。

使徒2章の出来事もインパクトありますが、出エジプトのシナイ山でのシャヴオートの方がもっともっとすごい事が起きているのです。天が神が直接シナイ山の上に降りてきて、人々は神の声を聞き、神の栄光を見たからです。

 

神の祭りは変わっていません。異邦人が2世紀以降、神の本当の教え〜聖書の記述を曲げた教えをする異邦人教師の教えに導かれ、同時に、ローマ帝国迫害の為、保身するために、イエシュアが生きて教えた、父の教え=モーセの五書に記された独特な教え

から徐々に離れ、最後は完全にユダヤ人の群れと決裂し、西洋宗教の教えの路線に切り替えて移って行ったので、神の創造された

記念日を祝わなくなっただけです。

 

それなのに、神が神の教えや記念日を変えたと誤解している、

そう教えられて来たから、そう思って信じているだけです。

 

聖書〜神の言葉は永遠の証拠です。

 

神が創造された記念日に神の子ら、イエシュアを通してイスラエルの神に繋がれ、イスラエルの神の1つ大家族に加えられた人は

皆同じ記念日を祝うと聖書には書かれています。

 

考えても分かるでしょう?!1つ家族がそれぞれバラバラに違う日に祝う記念日なんて、それは神のデザインされている1体、

一致とは遠くかけ離れた異邦人思想なのです。

 

誰でも、誰かと近しく1つになって祝うことの喜びを知っているでしょう。

 

”詩篇131 見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。”

 
クリスチャンもこの聖句を皆復唱します。この箇所は何の時に
歌われたものですか?神の祭り、レビ記23章の祭り、春の祭り過越や、シャヴオート、秋の祭りの仮庵の祭りで都上りを
する時に歌う歌なのです。単独に取り出しても見えませんが、
神の家族が1体になって神の祭りを祝う喜びを歌っているのです。詩篇120-134は、都上りの神の祭りの時に読まれ、これから来る過越の祭りでも読まれる箇所です。
 
今は神殿が無いですが、イスラエルの人はエルサレムの神殿後に
行って祝ったりします。
 
神が”時”を造られました。神は神の記念日=モアデイムを司るために、天の万象〜光を造られたと伝えています。このモアデイムを季節と訳していますが、ヘブライ語ではモアデイム=神の定めの時、祭りを司るために造られたとあるのです。
 
人の生きる全ては、神の記念日、祭りを中心に営まれるからです。イエシュアを中心に生きることを教えているのです。
神の記念日は、福音の全て、イエシュアの業の全てを網羅しているものです。私は、ヘブライ語の聖書に出会うまで、聖書に書いてあるのにその事実を全く知りませんでした。
 
これから4月22日月曜日の日没に過越の祭りが来ます。
イエシュアが処刑された過越の祭りであることを、私は聖書を読んでいるのに、以前その意味を何も理解していませんでした。
なんで、皆が集まって食事をしているのか、イエシュアがされた
種無しパンと、三杯目のワインの意味は、過越の晩餐の儀式でさイエシュアが取られたパンは種無しパンであり、罪が削がれた事を表すものであり、4つの杯は、出エジプト6:6-7の事実から
来ていることも、全く知りませんでした。
そして、過越の祭りの晩餐で、イエシュアが言われた”新しい契約”とは、エレミヤ31章にある契約〜同じ契約=シナイ山で与えられた永遠に変わらないブリット=契約の事であり、同じ契約は継続して再更新され続けて行くからです。この理解は異邦人の中にはなく、別物の契約が出現したと教えられていますが、聖書は1つしかありません!
 
神の教え=言葉、人の生き方に別物はない、そんなモーセの五書とは違う聖書は実際に存在もしていません。人が勝手に神の教え
言葉を塗り替えて、解説しているだけです。
だから、聖書は最初の部分が分からなければ分からなくなります。
祭りを迎えるのには、準備が必要です。これがとても大事なのです。皆の意識を神の祭りに向けるために必要だからです。
みんなが、神の祭りに向けて考える、それは福音の中核を考える事であり、どこに行っても祭りの話になるのです。
日本の祭りも同じでしょう。町内会で祭りに向けて皆が1つ事を
考え、準備するのです。そして絆も深まるのです。
 
22日過ぎ越しを迎える前には、1つ重要な準備があります。
それは、パン種除去掃除です。家の中にあるパン種を一掃する事です。イースト菌が入った、パン、クラッカー、クッキーなど
食べてしまう、又は人にあげる事をします。
 
馬鹿馬鹿しい古臭い律法の教え!と思いますか?神が馬鹿馬鹿しいことを人に教えていると、人間の肉の頭脳で考えているからです。その場合神の深い知恵が見えないだけです。やってみれば分かります。
神が言われた事には人が理解出来ないだけで深い意味があるからです。
 
神は実際に生きて学ぶ事を教える、それが神のレッスンプランです。西洋人みたいに哲学を語る世界ではなく、実際に神の言葉を生きて学んで理解し身につけて行く、それが神の教えの方法なのです。実践しない場合、身につかないでしょう。当然の事です。
 
パン種は、過越の時には、罪を表すものとして教えられます。
そして、同時にシャヴオートの時には、同じパン種を新しい収穫物の中に入れて神の前に捧げられるのです。その意味は、同じパン種は、イエシュアの復活の命を表しているものなのです。
もちろん今は神殿が無いので、実際に捧げられませんが、意味を
理解して生きることに適用出来ます。
 
過越のパン種は罪、イエシュアが子羊の血で贖われ私達の罪を
全部削ぎ落とした事を教えているものです。だから、2000年前に初めて罪が許されたと言う異邦人の教えは聖書とは全く異なる教えです。どの時代もどの人種も、神からの赦しは瞬時です!
そんな2000年前まで何もしない、ケチくさいイスラエルの神怒りの神などと言う嘘を教えられるから、聖書に記された本物の
この様な人の教えの妨害により、イスラエルの神を誤解しているのです。
ヘブライ語で種無しパンをマッツアと言います。
パン種をハメッツと言います。マッツアは、要らないもの=ハメッツ=罪が削ぎ落とされたものとして教えられているのです。
私達は、イエシュアにより、罪が削ぎ落とされているとイエシュアが地上に来られる前から、最初の最初から、新しい人の事実を
教えられているのです。
 
イエシュアが処刑される前の一週間の間は、色々な準備があったのです。種無しパン除去、そして色々な人がエルサレムに上って
祭りを祝う準備をする期間でした。そして、イエシュアが神殿に
入られた日は、ベツレヘムで神殿に捧げられる過越の羊達が
同じ様に神殿に入る日だったのです。福音は全部繋がっています。
それ以前に、イエシュアがヨルダン川で水に潜る、洗礼をした
記事です。洗礼とは聖書では、神殿がある時には頻繁に行われたものです。それは、信じたから洗礼と言う意味ではなく、様々な
場合に、水に潜るからです。自分の社会的地位が変わる時、結婚の時、出産の後、神殿に詣でる時、月の月経の後も神殿に入る時に女性は水をくぐったのです。
 
バプテスマのヨハネが居ましたが、彼は大祭司の家系です。
大祭司は、神殿に捧げるコルバンの動物を、非が無いか確認、
判定する役割をする人です。バプテスマのヨハネ、大祭司が、
子羊イエシュアが非のないコルバンである事を判定した意味が
あるのです。ヨハネもイエシュアが約束のメシアであると、タナックから知っていたから、”見よ、神の子羊!”などと、ただ聞いただけでは意味不明、でもタナックに記された同じ福音、贖いの事実を宣言したのです。
 
過越の祭りは、人類の為のイエシュアの子羊のコルバンを表しています。実際に出エジプトした時に、何が起きたかを読めば、
出エジプトの記事は、同じイエシュアの流された子羊の血を表すものであり、出エジプトの事実自体が、奴隷=偽の神から、
本当の神につながるための贖いの業である事を実際のイスラエルに起きた歴史の事実でも表されているのです。
 
それ以前に、アヴラハムがイサクを捧げた事も同じく、イエシュアの業の影を表しているものです。神の一人子を表す、アブラハムの約束の子、ひとり子のイサクは、捧げられたのです。でも、イサクの場合、神がコルバンになる動物を
与えて命を得たのです。
福音は最初から同じであり、目に見えないものを信仰により見るが如くに受け取る、どの時代もどの人にも同じなのです。
 
続く