契約 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書全体を繋ぐ1つの大きなテーマは何だと思いますか?

 

神=創造主と創造主に造られた人との関係、それが”ブリット”

婚姻契約に記されている神と人との関係、そしてエデンの園に

存在していた神と人との親しい関係に戻る!それが聖書の一大

壮大なテーマです。神と人が共に住まう!エデンから出て、エデンに戻る、それが聖書に書かれているのです。最初から最後が

書かれていて、黙示録には最初が書かれて、永遠の中に住まう

結末が記されています。

この事実が神の家=ミシュカン=移動式、固定式神殿を通して

語られて教えられているのです。そして、その事実が、神の創造された記念日の1つ1つの中で語られ、実際に生きて神の子らが

学習し、神がどんなに良いお方か知る!そして天の現実を地上で生きて、永遠の中に今住まうリハーサルを繰り返ししているもの

なのです。でも異邦人は神が創造された記念日を2世紀以降捨てました!そして人間が決めて作った記念日を祝う事に乗り換えた

のですが、その事実に気が付いていないのです。

神が神の子ら全員を人種によらず、時代によらずに今も呼び出している記念日=聖日=主の日は神が呼び出していて、

人が作った記念日に、神は人を呼び出してはいません。

それは個人が確信する事を個人が大事だと思うそれぞれの記念日をそれぞれが祝う、普通の日だからです。

シンプルな事実が聖書には記されています。

 

だから聖書に使われている言葉は、婚姻契約用語であり、神の家=ミシュカンの中にある様々な言葉で表されているのです。

気が付きますか?何がミシュカン用語なのか。

イエシュアも同じミシュカン用語、婚姻契約用語を使っています。ヨハネの福音書など冒頭からミシュカンを語っているのに

気がつきますか?

これは又後で説明を加えますが、最初の最初から神の言葉、教え福音、救い、贖いは全く1つで同じなのです。

別の教えに目が塞がれているから、聖書に書いてある事実が読み取れないし、聖書を読む必須知識がないと見えないのです。

 

例えば、バビロンと書いてあっても、黙示録に書いてある

バビロンはバビロンの事ではないのです。

黙示録は全てコード化=隠語で話しているのです。

ローマ帝国に処刑されない為に、彼らには理解出来ない用語で

書かれているからです。

今の世界ネット上である事を話したら、その動画や記事がバン

されるから、別の隠語で話しているのを知る人ぞ知る世界。

分からない人には分からないでしょう。何の事だか。

それと同じです。ローマ帝国に分からない、トラーに記された

意味ある言葉を使い=隠語として記していて、ユダヤ人には分かる様に書かれているからです。

だからはじめの愛とヨハネが言っているのは、モーセの五書=

婚姻契約を指しているとその隠語の意味を当時のユダヤ人たちは当たり前に読み取れたし、トラーを知るユダヤ人なら分かるのですが、異邦人がはじめの愛と聞いたら、それぞれに空想した定義を考えて話しているのです。だから辻褄が合わないのです。

聖書はどの箇所も捨てされなど神が教えてないのに、異邦人の世界では、はじめの愛を捨てる様に教えている矛盾に気が付けないのです。

ちなみに、黙示録にある”バビロン”とは当時1世紀のローマ帝国を指して語っているのです。

エデンの園、エデン=喜び、何も存在しない前に存在した存在は

何ですか?神ご自身のみです。

私達は神の内側の外側には存在していない、全ては神の中に在る

切り離された場所に存在しているのではない。

 

孫悟空の話ではないですが、大きな掌の上。

いや、上ではなくて、聖書には”中”!!!!と書いてあるのです。それがヘブライ語で表されているのです。ヨハネ17章の

イエシュアの祈りでもその事が語られています!

神の中に存在し、神も人の中に存在している事実が書かれています。それがミシュカンで表されているのです。最初から福音は同じ!

創造主である神が、”ハタン”花婿として人と1つに住まう事を

願い、この世界の全てを創造された!この事実、考えても考えても人間の限りある頭脳では理解不能ですよね。

神は全ての創造物を人の為に創造されて、全てはイエシュア =

言葉を通して現れ出た!と書いてあります。

テーマは1つ=エハッド!人もアダム=アダマ=土=同じ1つの

要素から造られました。ハワはアダムの要素=骨=エッツから

取られて創造された。同じ要素=一体と書いてあるのが聖書の根底にあるテーマ、性質ですが、異邦人はその性質に反する、分裂、2つ別物、変化すると言い続けているから聖書の記述の事実からズレてしまっているのです。

 

私達は1つの細胞から、分裂して様々な体の臓器が造られて人と

して神に造られたでしょう。

考えても分かると思います。体験上でも分かる。私達が喜び=エデンを体験するのは、本来の人間の性質通りである自分、そして

他者と覆いや壁や隔てが無い関係を味わう時にそれが生まれる

でしょう!?喧嘩して仲違いして、それで喜び体験しますか?

しないですよね。普通傷つくし痛むし悲しいでしょう。

それが人間の本来体験する実態とは違うから、自分の性質とは

違うから、だから悲しいのです。

でも誰かと心通じたり、共有、共感する、一体感!だから野球場でみんな知らない人同士が同じ応援しているチームの観戦して

あれほど団結して盛り上がるの、分かるでしょう。なんとなく。

 

聖書に記されているヘブライ語でも分かります。

アダムとハワが初めて出会ったのは神によりアダムの前にハワを連れてこられて、顔と顔を合わせた!この関係!何の隔たりもない、相手の本質性質通り、相手の中に自分の性質を見る関係。

顔という言葉は聖書の中に書かれているテーマです。

 

翻訳では分かりませんが、この”顔”パニンという言葉はたくさん

出て来ます。み前と言う言葉も”顔”なのです。

神と顔と顔を合わせる関係〜性質それが人の生き方だからです。神の顔=性質=言葉に照らし合わせて生きる!

神の言葉は私達の本当の姿を映し出して照らし合わせる鏡!!

その鏡=言葉を壊す、破壊する、歪めたら、本当の姿=生き方は

映しだされなくなるのです。その神の言葉に対する破壊を人間がやっているのです。

 

私達の性質、神と顔を合わせる親しい関係、人との関係も同じ。これがずれたから痛み、破壊、悲しみ、恥、なじる

責任転嫁する、様々な要素=自分ではない要素が入り込んで

相手との関係、神との関係が壊れ、壁が出来たのです。

 

神の顔〜十戒=10の言葉の最初も顔!です。

”わたしの顔に別の顔を置くなかれ!あなたのために!”と

これがヘブライ語で書かれている本当の言葉、意味です。

顔=実態です。仮面=偽物の教えは仮面です!だから、別物

人間が作った思想で神の言葉=顔を覆い隠してだめ!と最初の最初に警告しているでしょう!エデンの園の事件の意味を理解すれば良いのです。神の言葉を歪め、神が言ってもない事を言ったのだと信じた!今も同じでしょう!神が言ってもない事、神の言葉の根幹を破壊、揺るがす教え=律法は廃れた〜〜〜〜〜〜〜

それが大問題であるのに、大問題と気が付かない蛇の作戦

トリックは最初から同じ!エデンの園の嘘と同じなのです。

 

永遠普遍の神の言葉の真実が語られていない事が大問題であり、神の語る真実を覆い隠して、神の言葉を否定する、神の言葉を誤解して語る思想=呪いの廃れた律法=掟リストは2000年前に神が終わらせたので廃れたと語られているその嘘が重大問題なのです。

人は人の性質通りを探し求めてさまよっているのです。

それは神と人との1体性。そして本当の自分=イエシュアと同じ

性質を取り戻された自分である事が分からないままなのです。

自分が誰か分からないと言うクリスチャンも多いでしょう。

だってずっとどうしようもないやつ!罪人!て言われ続けているし言い続けているからでしょう。そうです!罪人はイエシュアと

共に葬られた!と神が言う事信じてないのです。

復活の命を得た!と言いながら今も罪びと!でもその意味は、

昔の性質=肉=罪にズレた考え方、生き方をしているよ!と言い換えたらいいのです。

ずれたら神の言葉に照らし合わせてすぐに戻る!それを繰り替えせば良いだけです!そうして成人として成長する。

神の創造された本来の性質、本来の関係に戻りたい!でも自分の

体験してきた傷や歪みでそれを得る事、求め方が分からない。

そう言う事だと思います。でも人の中には修復出来る能力機能が

搭載されているのです。

そして、創造主である神は神の創造の性質、神の性質=一体=

エハッドに全てが元に戻る、エデンから出てエデンへ戻る、

その壮大な修復を教えているのに、ダービー思想=異邦人の思想は分裂思想=2つ別の教え2つ別の家族、2つバラバラな違う記念日をそれぞれが祝う、天と地と永遠に2つ別の場所で分裂して永遠を過ごすなどと言うダービー空想。これ、空想ファンタジー『ウルトラマン大家族内部分裂するの巻』を創作して語っているのが、人間思想なのです。

聖書ではないけれど、聖書であると信じ込まされている、聖書の

進化論改造論仮説です。

私達を神が1つとして神の中に引き寄せているのに、分裂させる思想を放り込まれ続け、神の国を共に建てあげない邪魔をしているのです。神が私達神に創造された神の似姿の人である実態は何かその人達はどう生きるのか?と教えているのに、異邦人の世界では神の言葉を呪いの律法と神の言葉に敵対する意識を作り出した思想に聞き入り、神の言葉=イエシュア に知らない間に対抗敵対させられているのに気が付いていないのです。

 

日本語の契約と言う言葉はヘブライ語のブリットを反映しない

言葉です。なんか他人行儀にビジネスライクの無味乾燥な言葉。

労働契約も、賃貸契約も全部契約ですし、英語ですとコントラクトとカヴァナントは意味が違う事が見えますが、日本語にはその言葉が有りません。

条約と婚姻契約の中身が違うと言う事なのです。

聖書は創世記〜黙示録全部繋がっています。

全部同じテーマ=同じ内容、同じ教え、同じ福音、同じ救い=

イエシュア、同じ契約=ブリット、神と人との関係を巡る全ての

内容が書かれているのです。

 

古代中近東に存在して居た”条約”の形態で、出エジプト19章〜24章、申命記は丸ごと古代の契約形式で記されています。

ミシュカンに行く前にその内容を書きます。

トラー=神の教えが初めて文字として書かれてモーセを通して

与えられたのは紀元前14−15世紀です。ヨセフの家族がエジプトに降った後も、ずっとユダヤ人はエジプトに長居をしてその

まま住み着いてしまいました。モーセの生まれ、背景を皆知って

いますね。エジプトのファラオの娘に川で引き上げられて、

王宮で育ちました。モーシェ=引き出された。

エジプトは当時世界の中でも最も繁栄した国であり、世界の中でも最も高い教育水準があり、大学と言う高等教育機関はこのエジプトの国が一番最初に作ったと言われる位、当時のエジプトの教育レベルは高かったのです。

これは全て意味がありました。モーシェがなぜエジプトの王宮で

育ったのかも意味があります。

古代の地図を見ると、エジプトの上に、ヘテ人の帝国があり、

両者は互いに牽制しあっていました。カナンを通り南と北へ互いに行き来し、時として条約を結んでいました。

エジプトにモーシェが育った理由、王家に育った理由は、

エジプトで最高の教育を受ける為であったのです。

聖書は、特に上記した様に申命記は14-15世紀当時、古代中近東に存在していた条約の形態に沿って書かれています。

モーシェは、当時の古代中近東、周りにあった国々の政治、経済そしてどの様に他国と条約を結ぶのかを学習して知っていたのです。そしてその契約書の書き方、中身を学んでいたのです。

そして神は、その古代近東の契約書の形式でモーセの五書を

書き記す事を選んだのです。

聖書のブリットとヒッタイ帝国の条約との違いは、王との親しい関係が無いと言う事です。

古代中近東の条約と同じ形態がどの様に申命記と同じであるのか、その中身のアウトラインを書いてみます。

これは宗主国条約と言い、帝国の王の下に入る他の国の人々=

属国になる人々に対して結ばれた条約です。

 

続く