聖書は全て繋がって1つの神の伝える真理なので、ある箇所を
部分的に取り出して、残りの箇所のここは無視、ここは自分には今は関係ないと言う、ここは、自分が感銘を受けるみ言葉だ〜
とする人間の解説は全く無意味であり、聖書に反する事をしていると言う事をまず知らないとなりません。
神=言葉=イエシュア=聖霊とある通り、分割、削除、破棄出来る様な性質ではないからです。
詩篇のある箇所を取りだして語るなら、それはトラー=モーセの
五書に書かれている真理を土台として全て語られている事に
気が付いていますか?聖書のどの箇所も100%モーセの五書に同意し、モーセの五書に記された事から語っている、解説していると気が付いていますか?聖書記者=預言者達は異邦人達の様に
神の言葉が未来に終了、破棄、又ある箇所は無効になるなどと
言う反モーセの五書=反イスラエルの神思想などを持つ人は一人としていないと言う事実をはっきり捉える必要があるのです。
事実、創世記〜黙示録の中に、イエシュアが昇天された以降、
神の教えが変わるとか、動物が進化するとか、救いの方法が昇天前後で変わるとか、そんな事聖書のどこにも書かれていません。
あるパスターがこう説明していました。
仮庵、過越の祭り〜 遠い国(イスラエル)の祭りだから、
私達は知りませんよね〜と。教師はトラーを教えるはずなのに、全く他人事。イエシュアを通してイスラエルの神の元に戻った人は全て、神の創造された記念日を祝う様に教えられ、招かれている事実を、神の言葉を捨てているから、神の言葉、声、教えに
全く気が付いていないのです。
暦〜神の記念日が記された一覧表があるのに、それが今も有効で永遠であると、神が伝える通りには理解していない、人の教えに染まっているからです。神の記念日はユダヤ人だけが祝う記念日とは書いてない、神の伝える言葉、永遠に祝われるわたしの記念日と聖書の中に書いてあっても、それが神の語る真実だと読み取れない大きな障害弊害を抱えている事にも気が付いてないまま、
人間の教えを神の教えとして信じ込んでいるからです。
人間の教えを尊重し、神の言葉を蔑ろにしているのです。
マルコ7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。
8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。
9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。
1世紀後半以降どの様にして、神の記念日、レビ記23章が、異邦人により捨て去られて、祝われなくなったかの歴史の経緯を全く理解していないのだと思います。人間の仕業。神が神の記念日はそれぞれが考える事をすれば良いなどと言う訳がないのです。もし神がそう言ったなら神は嘘つきになってしまいます。神が
そんな事1度も言ってもない事に聖書から気が付いていますか?人間の教えを守り、神の教えを捨てているなどとも考えていないと思います。
イスラエルでさえ、異教の地、捕囚で連れて行かれて、神の記念日を忘れた人達が居たのですから、元から神の言葉を知らない
異邦人が、今は神の言葉は無用と捨て去る様に教えられたら、
簡単にそうする。神の伝える永遠の真実に気が付けないのです。
今は、それぞれの確信を持つ事を生きるのですと、パウロの
ローマ14章でどの日もそれぞれが確信を持つ事をすると言う箇所を、神の記念日の事をパウロが話しているなどと、飛んだ勘違いをして聖書を正しく読んでいないからです。
神の記念日は人間の意見で仕分けられません!それ以前に、神の言葉が何であるかと言う意識が異邦人には皆無であり、口では、神の言葉は完全、聖書は絶対と言いながら、同時に神の言葉に
対するその取り扱いは丸で真逆〜ダービーが推奨した古い教えは廃れた〜それぞれの考えで確信し今は生きるのだ〜など、聖書には書かれていない人の教えを信じて生きているのです。
神の記念日は、永遠に代々イスラエルとイスラエルの大家族に加えられた異邦人全てで祝われる”わたしの記念日”と神が伝える事が全く理解出来ていないのだと思います。伝統で浸透した教えがイスラエルの神の教え、記念日だと思っているからです。
神の教えや記念日なんて全て他人事の教えに聞こえるからでしょう。イエシュアが祝った記念日、イエシュアが処刑される前の晩、過越の祭りの晩餐で、毎年過越の祭りを祝うたびに、代々
イエシュアの業、贖いの業の意味を皆で思い出す様にとイエシュアが直々に遺言までしてるのに!異邦人クリスチャンは過越の祭りなど2世紀以降祝わなくなったのです。
イスラエルと書いてあるから、自分は異邦人で関係ない。神は
イスラエルと異邦人と2つの別々の家族に作り、2000年前に今までの古い教えがほぼ終わり、今は生きる事をする必要がなくなった〜。神の創造された永遠に祝われる記念日も今はもう祝う必要がない、今は自分達の(ローマ帝国、カトリックが決めた)
記念日を祝う自由があるので、古い教えの中に書いてある神の
記念日を祝うのをやめました。
使徒、パウロのその他の書簡にも、シャバット=第7日目、
仮庵、過越、種無しパン、シャブオート、など、レビ記23章に
記された神の記念日を祝った事だけが書かれているのです。
聖書に無い記念日=カトリックの記念日は、1世紀の人は誰も
知らないし、祝っていません。ハヌカ=イエシュアが祝った記録が書かれていますが、それはレビ記23章の神の記念日とは性質の違う記念日です。エステル記のプリムも同様です。
”主を喜ぶ事はあなたの力”と賛美歌もあり有名な聖句ですよね。
それは、その聖句だけ取り出しているだけですが、その裏にはどんな事があったかの記録が記されています。そして、ネヘミヤのその箇所を取り出すならば、ネヘミヤに書かれた事100%合意していないとその箇所の意味は不明なのです。人は神の言葉に付け足し、削除する事を神から禁じられています。その事に丸で
気が付かないのは、人の思想=ダービー思想の様な、神の言葉を今は無効と言う人の教えに目が頭脳が塞がれて、神の言葉が通じなくなっている状態なのです。
ネヘミヤ8章は、第7の月〜一年を締めくくる最後の秋の祭り、未来預言でもある、イエシュアの再臨、統治、イエシュアの中に住まう事を表す記念日の一連の事が記されています。彼らは、
異教の地に居て、トラー=神の教えを忘れて生きていた人達です。その人達が神のトラー=教えを聞いてみな心揺さぶられた事が書かれています。
7月1日、ヨム テルア=角笛を鳴らす日、ショーファーを吹く
神の到来を告げ知らせる音でもある神の声。王の王が来られる!
ネヘミヤ 8:1 その時民は皆ひとりのようになって水の門の前の広場に集まり、主がイスラエルに与えられたモーセのトラーの書を持って来るように、学者エズラに求めた。
8:2 祭司エズラは七月の一日にトラーを携えて来て、男女の会衆およびすべて聞いて悟ることのできる人々の前にあらわれ、
8:3 水の門の前にある広場で、あけぼのから正午まで、男女および悟ることのできる人々の前でこれを読んだ。民はみなトラーの書=モーセの五書に耳を傾けた。
8:4 学者エズラはこの事のために、かねて設けた木の台の上に立ったが、彼のかたわらには右の方にマッタテヤ、シマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤおよびマアセヤが立ち、左の方にはペダヤ、ミサエル、マルキヤ、ハシュム、ハシバダナ、ゼカリヤおよびメシュラムが立った。
8:5 エズラはすべての民の前にその書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼が書を開くと、すべての民は起立した。
8:6 エズラは大いなる神、主をほめ、民は皆その手をあげて、「アァメン、アァメン」と言って答え、こうべをたれ、地にひれ伏して主を拝した。
8:7 エシュア、バニ、セレビヤ、ヤミン、アックブ、シャベタイ、ホデヤ、マアセヤ、ケリタ、アザリヤ、ヨザバデ、ハナン、
ペラヤおよびレビびとたちは民にトラーを悟らせた。
民はその所に立っていた。
8:8 彼らはその書、すなわち神のトラー=モーセの五書をめいりょうに読みその意味を解き明かしてその読むところを悟らせた。
8:9 総督であるネヘミヤと、祭司であり、学者であるエズラと、民を教えるレビびとたちはすべての民に向かって「この日はあなたがたの神、主の聖なる日です。嘆いたり、泣いたりしてはならない」と言った。すべての民がトラーの言葉を聞いて泣いたからである。
<主の聖なる日とは、永遠にレビ記23章に記されたものであり聖書によれば、日曜日、クリスマス、イースターは聖なる日、主の日とは成り得ません。それは、カトリックと言う西洋宗教〜人間が作って決めた彼らの宗教記念日であると言う正しい位置に事実を戻して下さい。聖書に記されていない人の作った宗教の教えや記念日は主の日、聖日ではなく、神の教え、記念日と人間が
作ったものを混同してはならないからです。
神が造った記念日は、神が造り、人に神との関係にある印として
与え、福音の全貌=イエシュアの贖い、救い、安息、人の生き方、未来の大家族の生き方を伝えるものであり、生きて学習する様にデザインされた記念日神の子ら全員で祝う記念日です。
神が神の子らを呼び出し、召集し、祝う様に招いている聖日。
人が作ったものは、人が作って決めたもので、人が人を招き、
召集をかけている日。神からの召集の日ではない、主の日、聖日ではない。だから異教徒さえも一緒に祝う記念日でしょう。
クリスマスやイースター。>
8:10 そして彼らに言った、「あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。
憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。
8:11 レビびともまたすべての民を静めて、「泣くことをやめなさい。この日は聖なる日です。憂えてはならない」と言った。
<神のシャバット〜祭り〜記念日には嘆かない、泣かないからです。クリスチャンがネヘミヤ8:10に同意し、その聖句を語るならば、神の記念日に同意していないと意味がないことになります。その箇所は、神の祭りを喜ぶ事が記されているからです。
なぜなら、喜び=エデンはシャバット、祭り、神が生きて祝う様に伝えているその中に神は人の中に現れて特別な会見をすると約束しているからです。神が呼び出していない日は普通の日です。日曜日も聖書では普通の労働日。聖別された日などではありません。
真実だけを聖書から語らないとならないのです。もちろん神は
どの日にも私達の内側に変わらずに共におられますが、神が聖別された記念日は特別な意味がある日なのです。神がそう言ったらそうだ!それだけで十分な理由なのです。>
8:12 すべての民は去って食い飲みし、また分け与えて、大いに喜んだ。これは彼らが読み聞かされた言葉を悟ったからである。
8:13 次の日、すべての民の氏族の長たち、祭司、レビびとらはトラーの言葉を学ぶために学者エズラのもとに集まってきて、
8:14 トラーのうちに主がモーセに命じられたこと、すなわち
イスラエルの人々は七月の祭の間、仮庵の中に住むべきことが
しるされているのを見いだした。
8:15 またすべての町々およびエルサレムにのべ伝えて、「あなたがたは山に出て行って、オリブと野生のオリブ、ミルトス、なつめやし、および茂った木の枝を取ってきて、しるされてあるとおり、仮庵を造れ」と言ってあるのを見いだした。
8:16 それで民は出て行って、それを持って帰り、おのおのその家の屋根の上、その庭、神の宮の庭、水の門の広場、エフライムの門の広場などに仮庵を造った。
8:17 捕囚から帰って来た会衆は皆仮庵を造って、仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの日からこの日まで、イスラエルの人々はこのように行ったことがなかった。
それでその喜びは非常に大きかった。
8:18 エズラは初めの日から終りの日まで、毎日神のトラーの書を読んだ。人々は七日の間、祭を行い、八日目になって、おきてにしたがって聖会を開いた。
<この間の10月7日は、仮庵の祭りの第8日目の最後の祝い日の朝に、テロリストにイスラエルが襲われたのです。
イスラエルと聞いて、自分は異邦人だから関係ないと読む場合
神の言葉はイスラエルを代表として与え、同じ教えを神が、異邦人にも伝えるためにまずイスラエルが受け取ったと言う事が理解出来ていないからだと思います。異邦人は聖書に契約を受け取る代表として書かれていません。それならば、聖書は異邦人には全
無関係と考えるかもしれませんが、そうではない。アヴラハム〜全民族の父を通して、全世界の民族に同じ祝福を与えるために
アヴラハムを選び出した!と書いてあるでしょう。
そして、出エジプトしたイスラエルの中には、同じ様に神の声を
聞いて、信じて、子羊の血の贖いを鴨居に塗り救い出されて、
荒野で40年の旅路をした異邦人もいた。その人達はイスラエルの12部族の中に加えられて、同じイスラエルの群れとして数えられていた事実、その意味を理解すれば良いのです。神は分け隔て、差別しないと書いてあるでしょう!同じ人間!イスラエルは大家族の長男として代表として重たい責任を負わされただけです。妹、弟全て、同じ大家族、同じ天の国の共同相続人になったと神が言いました。>
安息日=第7日目、これは創世記〜黙示録全部同じです!
神の言葉の記述、事実を勝手に人間が塗り替え解説している冒涜は一切やめないとならないのです。
クリスチャンは神の前に、神の言葉に対しての偽りを人に語ってはならないと聖書に記されている教えを知っているはずだと思います。
続く