ローマ 8:4 これはトラーの要求が、肉によらず霊によって歩く
わたしたちにおいて、満たされるためである。
ピリピ3:9 トラーによる自分の義ではなく、キリストを信じる
信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、
キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
上の箇所も、ダービーが神の教えは、律法と恵と対比させている
根拠として引用されている典型的な誤解をして解説されている代表例でもある箇所です。
パウロが書いている意味を完全に読み違えているのです。
まずはローマ8:4。肉によらず霊によって歩く私達とは、イエシュアを通して新しくされた人は、トラーに記されたイエシュアの性質の要求を全うして生きる事が出来ますと書いてあるのです。詰まり、義とされるために神の言葉を行うのではなく、霊により生まれ変わった人達は既に神の前に義とされており、神の
性質=義=トラーに記されている本来の人間の性質を生きれるのです!と書いてあるのです。
ここを多大に完全に誤解して読み違えていませんか?
新しくされた人は、神の言葉ではなく自分の確信する事を自由に
生きて良いなどと、パウロは1度も言っていません。新しくされた人は、トラー=イエシュア=神の教え=モーセの五書に記された神の創造された神の性質通りの人間の生き方を出来る様に
生まれ変わったのです!義の道を生きれる様に変化したと聖書では説明しているのです。神が示す義は聖書の最初の75%と聖書の最後の25%全く同じだと気が付いていますか?
道は1つ!と聖書の言葉をクリスチャンも言うでしょう。それがどう言う意味か聖書の記述から考えないとならないのです。
ダービー思想は、道は2つ、神の言葉は2つ、神の家族は2つ
救いの方法も時代ごとに変化、多種と聖書とは真逆の思想を人に宣伝してしまったのです。反モーセの五書思想は1世紀後半から
既に異邦人達の中に創作され始めましたから、その人間の編み出した思想は19世紀の間にも渡り恒久化しているものなのです。
ピリピ3:9はギリシャ語のemēn dikaiosunēn tēn ek nomou、「私自身のトラーの義」(LITV)とは、律法主義の事を話しているのです。自分定義の義。自分が神の言葉を生きたら義とされるのだなどと言うズレた思考回路の事です。
神の義とされて新しく生まれ変わった人は、当然の事ながら
神が伝える義の実態を生きる事に招かれた、それが生きる事はキリスト=イエシュア=トラー=言葉と書いてある意味なのです。
これこれあれこれ自分は神の教えをやっているから、義とされているのだと考えるズレた思考回路の事を話しているのです。
人類誰一人として、義とされる事実は、何かをやったからではない、神が義=新しい人を神が支払った永遠の中に屠られた子羊の血の命の代価を信仰により与えられているだけ!そして、新しく生まれた人は、神の義=トラー=神の口から出る1つ1つの言葉により生きる!とあるのです。
この違いを完全に混同しているのです。
信じるだけでよい〜神の教えを生きるのは律法主義、今は神の言葉に反しても聖別を汚してもよい、神が禁じている人間の食べ物ではない清掃動物=きよく無い汚い動物も祈ればきよくなる、
自分の確信に立って、自由に主の日を神が指定した日以外で選べる、自由に神の言葉に違反し、自由に性別も選べる、多くのクリスチャンはそう考えているでしょう?ダービーの思想に則って。
ここに書いてあるのは、クリスチャンの世界でも陥る律法主義の事でもあるのです。礼拝や集会に欠かさず休まず出席し、朝も早く起きて祈り、献金も必要以上にし、リーダーの命令通り奉仕やその他もれなくやっているから、神に喜ばれているだろう〜お恵み倍増になるだろう、神との純粋な関係で単純に本来の自分の
性質を神が教える通りに生きるのではなく、何かをする事、自分の手柄が中心。こう言う思考回路を聖書では律法主義=トラーによる自分の義とパウロが書いているのです。
パウロは、トラーに基づいて生きても自分自身の義を持つことは出来ないことをはっきりピリピ3:9で書いているのです。人間は自分で自分を贖えないからです。逆です。義とされた人が神の
トラー=義=イエシュアの実態を生きれる!至極シンプルな事実が語られているのです。
よく立ち止まって考えてみて下さい。義=イエシュア=トラーの生き方は麗しい生き方で、命溢れる源、喜びの源なのです。
誰でも、神の性質どおりの人の生き方に触れたら、心動かされる
感動する、温かくなる、勇気付けられるでしょう?どうしてそんなに神の言葉、教えをややこしい教えに変形させているのでしょう?読めば分かる通り何も難しくない。読んで何が書いてあるのか理解出来ていないから、難しいものと考えているのです。
単純でしょう。7と言われたら1ではない事くらい、3歳児でも
分かるはず。ダメと言われたら、深い理由は分からなくても、
神がだめ!と言うからダメなんだと受け取れば良いだけでしょう。これこれをしなさい〜それが神に造られた人の性質であるからそれがあなたの生き方ですよと教えられている。
そんなに難しいものではないのです。
私達はイエシュアの性質どおりの麗しい生き方が出来る祝福に
命に移行したのです!それがどうして神の言葉に対して敵対する意識を持たされ続けているのか、考えないとならないのです。
その思考回路、思想は神から出たものではなく、エデンの園にいた神に敵対する物から出た事を理解しないとならないのです。
神の教え=律法=古い、廃れた、人間が生きれるものではないから破棄した〜全部ダービー思想であり、聖書ではない。
鳥は頑張って飛ぶのではないのです。鳥だから鳥のデザイン通りに飛ぶのです。今まで羽が不具合、故障があって飛べなかった、でも本来の機能=新しい人=主と共に復活した人を取り戻したら本来の機能通りに普通に飛べる!それが新しく生まれ変わると
言う実態をもらった事と同じだと考えて下さい。
でも、自由に義を生きれないのは、生まれたてのよちよち赤ちゃんだからです。イエシュアと共に死んだ以前の古い自分で学習した記憶、行動、思考パターンが頭脳に存在しているから、それらが新しい人を生きるのを阻んでいるだけと言う事です。だから
注意して全ての思索をキリストイエスにあって捉えて、吟味して新しい人らしく神の言葉に照らし合わせて本物のあなたの性質
通りに生きなさい!と神が教えているのです。
クリスチャンは、福音書〜黙示録は100%モーセの五書の内容のほんの短い抜粋、解説が書いてあると理解していないのです。
福音書以降を読むのは、聖書の最初の75%を知っている人達に
向けて書かれているから、そこには最初の75%の全部を繰り返し重複して書いてないだけなのです。福音書以降は別物の教えが書かれている、別物のグループ=教会が出現したと考えるのは、不適切な翻訳不具合、ダービー思想で聖書とは異なるズレた解説がされているから、創世記〜黙示録が全部同じ内容で1つに繋がっている事実が見えないだけなのです。
人が神の言葉を生きて自分を義としてもそれは神の前に無意味であると書いてあるのです。自分定義の義を生きても意味がない。
自分よがりの聖別も意味ない。メシア、tēn dia pisteos Christou を通してのみ自分の義を見つける事が出来る事を
パウロは認識し人にもその様に教えているのです。
ダービーはこの様に言います。律法とモーセは繋がり、キリストと神の恵みが繋がっていると解説しますが、神の言葉=キリスト=恵と言う聖書が語る神の性質=1体=エハッドの意味の理解が最初から無いので、この様な人間の思想で、神の言葉と恵とを
対立させているのです。
聖書には、恵=言葉=イエシュア =聖霊=神=永遠と書いてあります。
ヨハネ1:17 トラーはモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
この箇所を取り出して、ダービーはトラー(律法)=神の言葉と、恵と対比させているのです。
ではこの箇所は一体何をヨハネが伝えているのでしょうか?
この前の箇所から読んでみます。
ヨハネ1:1 初めに言(言葉)があった。言は神と共にあった。
言は神であった。
1:2 この言は初めに神と共にあった。
黙示録19:13 彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と
呼ばれた。
<神=イエシュア=言葉=トラーと書いてあります。1世紀のユダヤ人なら、イエシュア=トラー=神と理解してこの言葉を読んでいるのです。神の教えと恵と切り離すのは、聖書の真実とは異なります。神の言葉=教え=トラーがどれほど恵深いか、トラーに詩篇に箴言に聖書の至る所に記されているに気が付いていないだけなのです。神の言葉が問題ではなく読み取る側が神の言葉を正しく理解し読み取っていないのです。そして名と言う意味は、名前と言う呼び名と言う事もそうですが、その名は、その人物、物の実態を表している物なのです。実態そのもの。
だからその名は、神の言葉=トラーであるなら、神のトラーと
イエシュアを切り離している事自体が聖書からズレた読み方をしているのです。>
19:16 その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。
ヨハネが語るのは、神の教えメシアの実態の詳細はモーセの五書に文字として記されたものをモーセを通して人々に与えられた。
詰まり、影です。目に見えぬイエシュアの実態を教える神の教え
トラーはモーセを通して与えられました。そして、目に見えぬ
トラーに記されたメシア、イエシュアは、トラーに記された恵とまことの実態が肉体を取って実際に地上に来られて、モーセの
五書に記された、恵とまことを生きて表して下さったと言う事を
ヨハネが言っているのです。
クリスチャンの解説は、トラーには恵とまこと=イエシュア
メシアが記されて教えられているとは考えていないのです。
そして、昔は厳しい律法がモーセを通して与えられたけれど、
終わりの時代には、恵とまことの救い主が現れ、古い厳しい律法は廃れました〜と読み込みしているのですが、そんな事神は
言いません。なぜなら、神=言葉だからです。
大体、トラーは神から神の子らへの、”婚姻契約”法的文書である事を全く理解していないのです。神との関係にある証拠として
神が様々な保証、約束をして、神の子らに神の家に住まう生き方を教えているのです。人が神との関係にあると主張するならば、それはこのトラー=婚姻契約書=モーセの五書を土台に成り立っていると言う永遠の事実をまず理解しないとならないのです。
その神が与えて下さった婚姻契約に対して、敵意むき出しの思想を刷り込まれて”律法に戻る気か〜” ”恵を捨てる気か〜”などと言っているのです。なんか変だと思いませんか?神の言葉に敵対するとは、イエシュア自身に敵対する行為だと気が付いていますか?
福音書以降に書かれた事と、創世記〜マラキに記された内容が
別物であると思い込まされているから聖書の記述とズレるのです。最後にはモーセの歌と子羊の歌を歌うと書いてあるのです。
モーセは神の言葉を書き記し、メシアが書き記されている、
イエシュアと同じ本来の人間の生き方を人に教え、地上の最後の40年の生涯を荒野で、目に見えぬイエシュアを、ミシュカンを通して体験し、実際にモーセは直接イエシュアと顔を合わせて
シナイ山の上で会い、契約を受け取ったのです。その前に燃える芝の中で神と出会っています。そこは神の聖なる場所、天が直接降りて来たのです。だから神の家だから、サンダルを脱ぎなさいと言われたのです。神殿の中で裸足です。神の家だから。
続く