神の言葉を誤解して読む様に促す人の思想 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書はヘブライ思想、ヘブライ語、永遠の中から時空を超えて

語っている内容を、異邦人的グレコローマ思想=異教思想=歴史線上に物事を見ていては神の伝える真理は理解出来ません。

 

聖書は時系列関係なく、永遠、今、過去、未来と歴史の順番に

関係なく神が選んだ歴史の出来事、人物の生涯を通して、大事な教えを全て人に教えています。

神の救い、贖い、赦し、恵、祝福は2000年前にイエシュアが処刑され、昇天されて以降に始まったのではなく、永遠から永遠に同じ。永遠の中から同じ。エデンの園から同じ救い贖い赦し

福音同じ!1つの義の道しかないからです。

 
そして、この世の礎が造られる前から、屠られた子羊の血は完了し存在して、私達もこの地上に肉体を取って生まれる前、
同様にこの世の礎が創造される前から既に選ばれていたと言う
摩訶不思議、理解不可能な事を神が永遠の中から語っている事実を、時系列上に置き換えて考えるから、永遠の真理=救い贖いの事実がどの時代も同じである事を、神が人に伝えている事に気がつけないのです。
2000年前に救いが初めて有効になり、初めて聖霊が人の中に
来て住まう事が始まったと考えているのは、モーセの五書を知らないからです。聖書読んで、預言者達の記述、登場人物が同じ
贖い、救い=イエシュア、聖霊を受けていた事が読み取れていないだけなのです。
そして、使徒2章以降の、シャヴオートの祭りの出来事で、
聖霊が初めて下り新しい教え、新しい群れが出現などと人の思想に基づいて考えているから、聖書の事実が見えなくなるのです。
 
異邦人の群れ=教会と言う造語で表される別の群れなど出現していないし、神はそんな別の群れなど2000年前に新しく創造していません。
よく聖書を読んでみれば分かります。聖書に記されている1世紀のイエシュア信者達は、ほぼユダヤ人です。少しだけ、異邦人がその群れに混じって居るだけです。諸外国、異国に住んでいた人達だってユダヤ人が大衆であり中心であるのです。
その中に異邦人が居ただけです。
使徒やパウロの書簡を読んでも分かるでしょう。異邦人がモーセの五書に幼い頃から親しんでいた背景のある人なんていません。異邦人なのに、イスラエルの神の聖日、聖会、主の日、シャバットや祭り=過越の祭りを祝う人などいません。異邦人なのに
モーセの五書を代々生きている人なんていません。
1コリント5:6-8, 11:20-29過ぎ越しの祭りや仮庵、シャバットを代々祝ってきた異邦人なんて、テモテの様に混血ではない限りいません。今でもいないでしょう?ユダヤ人の群れが、トラーの巻物を所有し、彼らの会堂や群れがトラーの巻物を所有していたても、異邦人単独の群れはそんなもの持っていませんでした。
 
使徒やパウロの書簡を読んで、パウロが人々にモーセの五書とは
違う新しい教えを教え、又はモーセの五書を否定する覆す教えをしていたなどとダービー思想で空想して聖書を読んでいると、
聖書の記述を正しく読み取れません。使徒21章にパウロの神の前の重大宣言モーセの五書に忠実に生きて、教えている!と証明しているのが何よりの証拠です。それにモーセの五書を否定るするトラー教師は偽教師と聖書に書かれていますから、そんな人が神の使徒として、神のトラー=教えを諸外国に教えに行き、聖書となる書簡など書く任務など与えられる訳などありません。
 
最初から、神は人の中、間に住まいずっと彼ら古代の人と共に
実際に目で物理的にも見にえる臨在まで与えていたのです。火の柱、雲の柱、荒野を付いてきた岩、契約の石の板=契約の箱、
天からミシュカン=神の移動式神殿に、神ご自身が下した24時間7日間ずっと消えない”火”を与え、その火で、24時間耐えず
オラー=立ち上るコルバンと言う意味の、全焼のコルバンが祭壇の上に焼かれてあったのです。
この祭壇から立ち上る芳しい香り=私達神の購いの業で新しくされた人達は神の中に受け取られ愛され喜ばれている事を教えているものです。天に上る煙は、神の中に私達が受け取られて存在している事を教えているものなのです。その事実全然見えませんよね。翻訳聖書読んで、律法は呪いの教えだ〜廃れた〜などと教えられていれば、レビ記に書かれている本当の意味をヘブライ人の様に教えられないから、神が私たちに伝える麗しい慕わしい真実を知らないのだけなのです。
出エジプト40:38 すなわちイスラエルの家のすべての者の前に、昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らの旅路において常にそうであった。
詩篇18:46「主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。
あがむべきかな。わが救いの神
 
同じ1つの救い=イエシュア、同じ聖霊、同じ福音を聞いて来た
事をパウロは出エジプト、荒野の旅路を通してモーセの五書に
書かれた事実を読み取っていますか?イエシュアの贖い、救いの
実態を同じ様に太古の人達も受けていた事実が書かれています。
 

1コリント10:1 兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、

10:2 みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。10:3 また、みな同じ霊の食物を食べ、

10:4 みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。

雲=神の臨在=神の供給を意味しています。岩=水=イエシュア

出エジプト17:1−7 ヨハネ7:37

どの時代の人も、神のトラーを生きて義とされた人はいない、

これからも義とされる人は今も未来もいないと神が教えているのに、過去の古代の人は神の律法を生きて義とされたなどとダービーの思想を聖書であると解説してしまっているのです。

その様な教えは、この様なダービー思想から来ているのです。

聖書ではない教えを聖書のページに搭載して人に浸透させているのです。クリスチャンも聖書=神の言葉の真理ではなく、ダービーの思想を通した聖書解釈=聖書とは異なる教えをずっと聞かされているのです。

20世紀のアメリカの教師、パスター、神学校の教師は、聖書ではなく、ダービーの思想を神の言葉の上にレベル上げし、上昇させ、そして聖書ではなく、ダービーの思想註解を聖書のページに書かれたものを読んで、それで熱心に学び、神の言葉を学んだと思っていたのです。

しかも、それらの人達は、モーセの五書などヘブライ語に基づき正しく学ばない、翻訳聖書をダービー思想で読み解くだけで。

欽定版聖書=英語聖書をダービーの思想を通して読んでいただけです。少なくとも15年前まで、どの国に住んでも、私の周りには、今の様に、ヘブライ語聖書からヘブライ思索で人の神学ではなく、書いてある言葉の意味通りを教えられると言う人は一人もいませんでした。ユダヤ人イエシュア信者教師と出会う機会が

なかったからです。

神の言葉を否定する事は死に値する冒涜であり神の子らが神の

言葉に敵対心を持たされている、それはあの蛇の仕業なのです。エデンの園、最初から同じ!騙されるなかれ!神の言葉を否定し、真実ではない記述を聖書の中に書き記しています。読まなくて良い聖書です。いや、原典聖書=ヘブライ聖書をヘブライ思想で知らない人は、聖書とはズレた思想を信じ込まされてしまうでしょう。

 聖書 神の群れは、1つ。エデンの園から1つ。

ユダヤ人と異邦人両方合わせて完全になる1つの家族。

これは神の宮に置かれている”光”金のメノーラでも表されています。世界を照らす世の光〜イエシュアの光=1本の純金で出来ている7つの支柱。イスラエルも異邦人無くして、完全=7にはなれないのです。なぜなら、神のデザインした人間は最初から

1体の性質であるからです。その事実だけを考えても、分裂させる思想は、人を神の真実から引き離し、偽の教えをするのです。

イスラエル=自然のオリーブの木に接木された野生のオリーブ=異邦人。イスラエルの囲いとは別の囲いにいる羊=異邦人を

イエシュアが1つにする、異邦人の群れ同じイスラエルの羊の

群れに加えられる。

 

ダービー イスラエルと異邦人は永遠に別物の群れ。

聖書にはない、教会と言う言葉=異邦人の新しい群れと考えているが

それは、聖書には書いてない、聖書の概念と全く反する人間の

思想。教会と言う元の言葉は、エクレシア=神に呼び出された人々の群れ=ギリシャ語の裏にあるエクレシアと言う翻訳の元の言葉は、ヘブライ語=カハール、ケヒラ=同じ1つ神に呼び出された1つの群れ、エデンからずっと未来エデンに戻るまで継続

され続けて行く同じ1つのイスラエルの神の子ら群れ。

教会と言う人が勝手に作った創作造語は、本来の意味を反映していない。カハール、エクレシアを福音書以降は群れと訳さず、

あえて”教会”と言う今迄聞いたこともない造語を作り出し訳としてあてがい、あたかも別物の群れが出現したと人に印象付けて

いてる、不適切な翻訳。でもその言葉が浸透してしまったので、

皆考えもせずに使っているだけなのです。

 

4 聖書 再臨は1度だけ。最後は天と地が1つとなり、全ての人が1つとなる。エデンから出て、(創世記)、エデンに戻る。(黙示録)で完結する。

 ダービー 再臨は2度。最初の再臨は秘密裏に行われ

クリスチャンだけが秘密裏にイエシュアが再臨される時、

地上から突然消える!永遠にクリスチャンは天に留まり、イスラエルとは分断された群となり、天を治める。ユダヤ人は地上に

残り、永遠に地上を治める。永遠に二つの分裂した群れになる。

2つ分裂した群れ。空想話としては面白いファンタジーかもしれませんが、これは聖書の記述と真逆な人の思い付いた思想です。

 

ダービーの思想が書かれた箇所、読んで見ると、クリスチャンの世界で語られる教えとピッタリ同じ。アリの巣を発見した気分になります。出所はここ=ダービー思想であった!聖書ではない。

言葉にはインパクトがあります。言葉は何かしらの概念を表しているものであり、人に思想の土台となるものを植え付けるのに役立つものです。神=言葉とある様に言葉には実態が伴うからです。

もし永遠と書いてあったら永遠と受け取らないとならないのに、

人の思想の横槍で、永遠だけど、今は暫定的、変化したと言う教えで、クリスチャンはその矛盾に気が付いてないのです。永遠が

途中で変化する?あり得ない、でも人の思想が、理由付して、

神は人が生きられない教えを、取り除いたよ〜罪の定義を変えたよ〜、そんなおかしな思想を刷り込まれても気が付かないのです。どうしてか?神の教えを退けて、人の教えを基準に考えるからです。そして自分に都合の悪い神の教えがあるからでしょう。異教神の国々に生きる自由の方が肉には楽、アピールがあるし、馴染みのない神の教えは違和感感じる。全部自分が中心自分がどう感じるか、自分の考え、都合が中心、神の言葉ではなく、自分の確信が基準になればその方が簡単だし、楽に思うからです。

 

では、聖書に反する、聖書ではない、ダービー思想が聖書のページに一緒くたに書き記されている内容を検証、見てみます。

これらのダービー思想はクリスチャンの世界で語られる教えピッタリそのもの、定番の教えです。ピンクで囲った聖書のページの下部に記されている、反モーセの五書思想=ダービー思想を、

スコッフィールドが書いたものです。

 

恵 恵とは私達に対しての、我らの救い主、神の愛である。

<聖書の真実です>恵は、義の行いによるものではない。

<聖書の真実です>ヘブライ語の恵みとは、受けるに値する何もしていない、何もその様な価値がない、でも受け取るから、恵と言うからです。

記事が長くなるので、この後にスコッフィールドが註解として

記している内容は聖書とは真逆の思想なので、それを書いていきますが、まず最初にスコッフィールドが裏付けとして引用した箇所を解説します。

テトス 3:4 ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、

3:5 わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。

 

この様な箇所、パウロの今は恵の時代と言う箇所と同じ誤解をして読んでいるのです。イエシュアが現れたとは2000年前の地上の事ではなく、個人個人の人生にイエシュアが現れて、その人がイエシュアを通して新しい人、義とされた時の事です。

なぜなら、イエシュアは永遠から永遠に存在し、エデンの園から

同じ、救い、贖い、赦し、助け、恵み、祝福を与え続けて来た

事実が書かれているからです。

パウロが今は恵みの時代などと言うのを、昇天以降恵みの時代が

始まったとダービーは言いますが、神は最初から恵み、恵みの時代は2000年前に始まったのではないのです。

贖い、救いを受けていない人には、その神の恵みが分からない。

でも個人的に神に出会うイエシュアを通して新しくされた人は

その時から神が恵みである事を自覚し知る事が始まるのでしょう。自分が神を知らなかっただけでしょう。でも神は存在し

神は神を知らない人にも太陽、水、空気、必要なものを与え続けて下さっているではないですか?その神の恵みに気がつかない

神が分からないからです。その事をパウロが言っているのです。

あなたが、神に気がついた!神と歩む恵みを自覚する人生が

始まった!と言う事です。それなのにダービー思想は、2000年前から初めて神が恵みの時代を与えたなどと言う空想話を

盛り込んでいるのです。神は永遠から永遠に恵みに富て紹介しているでしょう??その言葉が永遠に真実であり永遠にアーメン。

偽のイスラエルの神像を作り出してはならない〜神の顔の上に

別の神の顔を置いて、神の実態を別の教えで覆い隠してはならない!

 

続く