信仰義人とその後の生き方を混同して考えている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

エデンの園の最初から、誰一人、時代、人種に関わらず、神の教えを生きる行いにより義とされる、新しく生まれ変わる人は一人もいないと、聖書に書いてあります。

イエシュアを通して以外、誰も父のもとに戻れる人は一人もいない!贖い、救い、赦し=動物の血は罪を消さない!と聖書には書いてあります。

詰まり、デイスペンセーション神学とは、それぞれの時代を7つの神の支配制度に分けて、神の人に対する取り扱い、アプローチ、救いの手段がそれぞれの時代の制度内では異なる、別物の

内容である説明する、それは聖書とは、な〜〜〜〜〜んの関係も

ない、人の思い付き〜人の思想=脚色創作台本で聖書を利用して語っているのです。聖書の進化論です。ダーウイン=人間、動物の進化論と同じ、ダービー=聖書、神と神の言葉が進化変化するダービーが主張するその根拠としている引用箇所です。

でも、パウロは何を説明していますか?

 

ローマ3:20 なぜならトラーを行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。
トラーによっては、罪の自覚が生じるのみである。
 
<はっきり書いてあります。古代も今も未来も、誰一人神の教えを生きた結果により義とされない。詰まり異教徒の様な修行を
考えているのでしょう?断食したら、寝ずに祈ったら、御百度参りしてご奉仕したら、一回もミスせずに神の記念日を祝ったら、あれこれしたら、これこれしたらきよめられ神に罪許される、
特別なご利益が貰える様な異教徒思考回路です。聖霊を受けて新しく生まれ変わる実態が無い人は、神の言葉=罪の定義、人間の本来の生き方を読んだら、どれほど自分が本質からかけ離れているのか、それが知らされるだけ、罪の自覚が生じるだけで終わります。解決がない。イエシュアを通してしか解決がないから。>
 
ローマ3:21 しかし今や、神の義が、トラーとは別に、
しかもトラーと預言者とによってあかしされて、現された。
<この様な箇所、読んで納得して理解したと思う様な箇所ですけど、どう言う意味か説明してと言われたら出来ない箇所ではないのでしょうか?
トラーに記された”神の義”=神から離れた人間がどの様に神の元
神の義にされるのか、トラーに記されています。その事実は、
書かれている文章だけではなく、実際にトラーと預言者とに
よって明かしたされた、永遠の中から存在するイエシュア=言葉=トラーが肉体を取って地上に現れた!事により明らかになりました。何の事を言っているのかきちんと正しく書いてある意味通りに把握しないとなりません。>

トラーと預言者により語られた事、方法とは何ですか?

トラーを実践する事とは別に、預言者により語られたのは、

イエシュアの贖いの代価の血を信仰による受け取る義です。

贖い=出エジプト=子羊の血の代価=アヴラハムに与えられた

契約を受け取る人は、聖別され、神のトラーを生きる事に聞き

生きる。贖われた人達=神の聖なる民=花嫁に神の教え=婚姻契約=トラー=モーセの五書が与えられた。

イエシュア=永遠の中に居る神イエシュア〜永遠の中に存在し、
永遠の中に屠られた子羊の血の代価が人のために払われ、存在していた。その事実を地上でも人に証明するために、イエシュア=
救いが肉体を取って人となって2000年前に約束通りに預言通りに来られた。
預言者はメシア=救いの実態、贖いの意味=福音の事実を預言書に書いているのです。神から言葉を預かった預言者の言葉が預言書になっているのです。
全ての人は、もれなく、このイエシュア=世の罪を取り除く神の子羊の代価を通して”義”とされるのであり、神の教えを生きたから義とされるのではない、無条件譲渡、神からのギフトにより人は義とされる証明をされたと言う意味が書かれているのです。

アヴラハムの契約を思い出して下さい。義とされる事実を受け取るのは、信仰による以外に他に何も代替え手段、方法はない!

アヴラハムは未来に地上に来られる同じイエシュアを信仰により

受け取り信じた!その事がモーセの五書には書かれているのです。信仰義人は、エデンの園から同じ。

21節に、トラー=神の教えの行い、20節に書かれていることです。罪が許され人が義とされるのは、イエシュアとイエシュアの贖いの血=子羊の血以外に方法はないからです。行いをしたから義とされるのではありません。ここをじっくり考えて区分けして理解しないとなりません。子羊の血の代価で贖われて義とされた人、聖なる民、神の花嫁となった人達は、その事実、実態通り=聖霊が内側に住まわれる人になったので、神の義の性質=神の言葉=イエシュア=聖霊を生きる事に招かれたのです。神の義はモーセの五書にその全貌が書かれているのです。福音書以降だけ読んでも、神の教えの全体、全部、完全版はそこには書かれていないので神の教えの全貌を理解出来ないのです。罪の全貌も書いてない。神の教えの抜粋しか書かれていないからです。

信仰義人と、新しくされた人がその後どんな生き方をするのか、その2つの違いがはっきり見えていない為、信仰義人された人は、その後神の性質を生きる事に招かれている、その2つの内容二つの契約、コインの裏表で1つであるのに、信じるだけで後は神の教えは生きる必要がない、自分の確信を今の時代は生きれば良いなどと、神の言葉ではなく、ダービーの思想で考えているので、神の教えと人の教えとを混同しているのです。

どう言う意味かと言うと、クリスチャンが言う信じるだけで良いのです〜と言うのは、義、聖霊を受ける、新しく生まれ変わる

この事実に関しては、信仰により受け取る以外方法はない!と

言う事を言っている、それをまずはっきり理解して下さい。

100%全ての人、古代も現代も未来も、信仰による以外生まれ変わる事、父のもとに取り戻される事などない事を理解して下さい。ダービーは聖書とは異なる自分の思想を語っているから、

その偽の教え=古代は律法を生きて義とされ、今は恵みの時代でキリストを信じて義とされると言った、その偽の教えに惑わされてはなりません。聖書が語る通りに、どの時代の人にも神は差別なし、信仰により義とされる事はアヴラハムを通しても証明されているからです。モーセの五書に書かれ事実を、パウロが3:2で

話しているでしょう。全民族の父なるアヴラハムに与えられた

信仰義人の事実は、人種、時代関係ありません!と聖書に書いてあるのです。

これをクリスチャンはダービー思想で、古代は律法を行う事で

義とされていた、現代は恵みの時代で、古い律法を生きて義とするのは終わり!と言う聖書が語っていないダービーの作り話を

語っているのです。

救い、贖いは既に永遠の中に完結し存在している事実から考えれば見えてきます。信仰により先取り、でもその事実は、永遠の中にもう既に完結し存在している!地上での出来事だけを考えていると見えなくなります。

そして、クリスチャンの世界では、律法=神が破棄した教えなのに、そんな古い教えの縛り、縄目から解放されたのに、その古い教えにわざわざ戻るのは、神の恵みを捨てる悪い事であると、神が伝える教えに完全対局戦を張り、神の教えに真っ向から戦いを挑む様な思想で聖書とは真逆のダービー思想を唱えて、神の言葉の大部分を自分の都合や確信により捨てているのです。

だから信じたらただ信じるだけで、道徳的な事以外神の教えの大部分は生きなくて良いなどと言い続けている、その神の言葉に

真っ向から敵対する反聖書的思想に気がついていないのです。

神=言葉=聖霊=トラー=イエシュアと聖書では記されている意味を理解したら、人間が神の言葉を分解する事は、イエシュアの

体の大部分をもぎ取り、機能不全な状態になっている事に気が付けます。

神の者、最高の宝、聖なる民となった人は、神の性質=イエシュア=トラーを生きると書いてあるのです。神の教えの内容に2つ別種類があるなんて反聖書的思想で神の言葉を考えているから、

見えないのです。聖書の最初の部分がはっきり理解出来れば、

こんな人の編み出した思想は聖書ではない事は、聖霊による確信を持って、聖書の記述を根拠に証明される、理解出来ます。聖霊=言葉、それを破壊せよと異邦人は教えられているのですから。

神が単純に教えている教え=神の創造された神の性質の本来の人の生き方を神が人に伝えているだけなのに、なんでそんなややこしい教えに変形しているのか?その原因は、異教徒、異教神の

世界に生きた人達には、イスラエルの神の教えは馴染みない、

異物であり、そして最初から人間は神の言う通りに忠実などと言う事が嫌だから、色々な理屈を付けて神の言葉を否定しているだけなのです。自分の主張が一番大事。神の言葉に反しても、それが自分の確信になるなら、それを根拠にして良いなどと言う教えは、聖書ではありません!神の教えの1点1画も人が捨てる事を神が禁じているその神の言葉、声、教えがまるで通じなくなっている状態だから神の言葉が廃れたなどと言う聖書とは異なる人の思想を信じているだけなのです。神の言葉に立たない、神の言葉を捨てるなら、それは神が伝える事に反して生きいても気が付かないまま行くのです。

神=言葉=イエシュアと聖書に書いてある意味を全く理解していないのです。イエシュア=神=言葉=聖霊は変化進化しません。

神の言葉を捨てるとは、イエシュアを否定する事であり、イエシュアに反した生き方をする事であるのに全く気がついていないのです。神の子らの印を神はたくさん与えて、それらを通して、命を保護する事を教えているのに、クリスチャンはほぼそれらに関しては頭上を通り過ぎ、自分には関係のない教えだと思い込んでいるのです。祝福を捨てていても気がついていない。

神は譲渡契約=アヴラハム=信仰義人と、そして神の子ら、神の

家の一員になった人にはもれなく条件付き婚姻契約=もし!あなたがわたしの中に親しい関係で留まりわたしに近づきたいならばあなたは、命=神の教える通りを生きる事を選びなさい!と書いてあるのです。

コインの裏表で繋がる2つの契約は、人間が切り離せません。

契約を破り、違う生き方をすれば、それは死=神との隔たりを

生きる事を選んでいるのです。だから神の存在が遠くなる。

コインの裏表を切り離している思想がダービー思想であり、

神の言葉は今は生きる必要がない、自分の確信することをそれぞれが自由選択=道徳的な事以外は皆自由選択などと教えているのです。

それでは聖なる民の性質が消滅し、聖別の意味も消滅し、罪の

定義も消滅しますから、恵は必要なくなると言っている事に

気が付いていますか?罪の定義無し=罪が判定されない=よって

恵も要らなくなるのです。

神の言葉を捨てること、それが塩が塩気をなくす原因になるのです。LGBTQの様にいくら外側の見かけを変えても、本質、DNAは変わらない、神の言葉を捨てる事は本来の臓器を体から切り取る行為、正常に機能しない体になる事、それと同じなのです。

トラーには罪の聖別の人の生きる全ての定義の完全版の詳細が記されています。モーセの五書にだけ、神が定義する罪の全部、

聖別の定義の全部が記されています。だから福音書以降には、

罪が何であるのか、聖なる民は何を生きるかの全部書かれていないので、福音書以降だけしか読まない人には、神の定義する罪は正しく理解出来ません。

ローマ3:22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。

そこにはなんらの差別もない。

<パウロははっきり書いています。信仰による神の義、全ての人に与えられる。それには何の差別もない。詰まり、古代は神の義を神の言葉を生きる事、行いで獲得し、2000年前からは

救いは信仰により受け取ると言うダービー思想は、聖書とは全く

相反した教えである事が書いてあります。信仰義人とは、ルターが言ったのではなく、エデンの園の最初から神が人に教えている事実であり、その事が創世記15:6に記されている、アヴラハムに与えた約束、契約なのです。信仰義人が何か聖書=モーセの五書から読み取れば、何をパウロが話しているのか理解出来ます。パウロは100%モーセの五書に記された神の言葉を話しているからです。

ここ注目です!クリスチャンの世界ではダービー思想で、別の

救いの方法、贖い、赦しの方法があると主張しますが、それは

聖書の語る事とは真逆です。人が義とされるのはエデンの園から同じ、イエシュアを通して神が罪ある人を、罪なし!と宣言する方法=イエシュアを通して以外ない!この事実をはっきり理解

していないから、人の思想創作が始まるのです。

永遠の中に屠られている子羊の血の代価がモーセの五書には

至る所に記され、神の宮=ミシュカン=神殿でそれを教えられていたでしょう。実体験を通して。それを読み取っていないから、

2000年前に初めてメシアが来て、みんながメシアを初めて知って、初めて救い、贖い、赦しを受けたなどと考えているのです。

1世紀のユダヤ人はタナックに記されたメシアを待望して待って

いたでしょう!タナックからメシアの事実罪を取り除く子羊の血の代価を理解していた。使徒2章前に、エデンの最初から、ゆるし、贖い、救い、聖霊を受けていた人達は大勢いるのです。

神の言葉を理解し、受け取り、生きたか、生きないかの違いだけ。そして21節にある様に、どの時代のどの人種も、イエシュアを通して義とされる事実は、区別がない!差別がない!と

書いてあります。

 

続く