聖書全部を誤りの無い神の完全な言葉、聖霊により書かれた言葉と信じます!とクリスチャンも言いますよね。そう考えていない人、教師、パスターなども中にはいますが。
本当に本気で心底ネフィッシュ=自分の全存在で、聖書全部は
誤りのない神の言葉であると信じているのでしょうか??
もしそうならば、どうして神の言葉が途中で変わると言う人の
作った教えが神の教えであるなどと信じているのですか?
神が最初からずっと、神の言葉は完全で、永遠で、廃らない
永遠に固く立つと人の神の言葉の真実を人に伝えているのに、
その神の言葉が昇天以降変化したなどと言うダービー空想思想を
神の教えであるなどと信じて聖書を曲げて読んでいるのでしょうか?
2000年前とそれ以降、神も、神の教えも何も変化していません。人間や動物が進化変化していない通り、神の性質も神の言葉も、救いの方法内容も、神の教えも何も変化してなどいないのです。
エデンの園を飛び出した最初から、同じ救いの方法=イエシュア
を通して以外誰一人として父の元に来ることは出来ない事を
聖書からその事実が書かれている事を、正しく読み取れていないから、人の思想に占拠されてしまうのです。
旧約聖書、新約聖書と言う、概念や実際のタイトルページは
神が挿入して教えたのではない、マルキオンやダービーの様に
神の教えを2つに分断して解説する人の思想を聖書に盛り込んで
いるだけです。神の言葉に対する違反を人間がしているのです。
パウロの書簡でさえ、完全に勘違いして読んでいるではないですか?この違いを良く分けて考えてみてください。
信じるだけで良いんですよ〜とクリスチャンは人に伝えますよね。そうです。救われる、贖われる事に関しては人の努力や行いで達成、獲得出来ない性質のものだからです。
贖い、救いは永遠の中に屠られた子羊イエシュアの血の代価が
支払い済みだからであり、そしてこれはアヴラハムへの契約の
約束に基づいた完全譲渡だからです。
そしてクリスチャンが見逃しているのは、コインの裏にあるものなのです。アヴラハムの契約とモーセの契約は1つで繋がり、
コインの裏表である事を認識していますか?
信仰により義とされ、聖霊を内側に受けて新しく生まれた人は、
その後どう生きると神に教えられていますか?神の口から出た
1つ1つの言葉により生きる=行動!と書いてあるでしょう?
神の口から出る1つ1つの言葉=モーセの五書の事を指して話していると気が付いていますか?
2テモテ3:16 聖書=モーセの五書、預言書、諸書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。
17節にも、神の言葉は、人があらゆる行い=良い業=トーヴ
な生き方、行動=神の意図通りの業に対して、十分準備され、
完全に整えられた者となるためとはっきり書いてあるでしょう?
詰まり、新しく生まれた赤ちゃんには、生まれた瞬間からの成長の過程があり、その成長をさせるのは、神の言葉により生きる!この部分をクリスチャンの世界では、神の教えの大部分を端折っているのです。
いや、知らない間に神の性質=トラーを生きると言う事を多くの人はしています。でも聖なる民はこの部分は神の教えを生きて、この部分は無関係と言う生き方はしないと神が人に伝えているのです。異教徒の様に生きてはならない。
よく、聖書を解説する人が、信じるだけで、あれこれコレコレ
しなくてはいけないとか、してはいけないと言うのではないんですよと説明していますが、そうです!神の教えは人がやるおきてリストではないからです。
神は人に、神の性質通りに造られた人が、その性質通りに生きる
事を教えている実にシンプルな事実を伝えているだけです。
盗むなかれ〜それは神の性質に造られたあなたのやる事では
ありません!簡単でしょう?盗む〜神の性質に造られた人の生き方ではない!と言っているのに、どうしてそんなに複雑にやや
こしくするのですか?
姦淫するなかれ、これは神が伝える婚姻関係の生き方、同性愛も
罪、どんな間柄で婚姻関係や性交渉してはだめか、動物含めて
神が人に教えている。それは神の創造された人間のデザインに外れた生き方は何かを教えているからです。難しくなどないのです。
聖なる民は何を生きよと神に教えられているか分かっていますか?クリスチャンは、聖なる民、祭司の国の国民に生き方を
神の教えを退けているので、大部分知らないのです。
それは、モーセの五書に記されているからです。読まなければ
それらが今も有効で神に伝えられた生き方であると認識しない
場合には、それらを生きていないからです。
アヴラハムへ与えられた契約〜信仰だけにより受け取れるギフトは無償です。何も努力もない、ただ信じて受け取るだけです。
そして、モーセの契約は、花嫁とされた人=聖なる民、祭司の
国の国民、イスラエルの神の大家族のメンバーにされた人に
与えられた生き方であり、それは、人を守り、成長させ、完全に整えられた者=成人として成長する為に与えられているのです。
保護ガード、パウロが話している武具、”鎧兜”は神の言葉の事です。そこに記されているのが、神が創造された神の性質通りの元の人の生き方〜イエシュアが生きて示した生き方であるので、
それを新しくされた人はイエシュアが地上で示した通りの神の
教え=トラーを生きる!と教えているのに、信じるだけで良いのです、あれこれコレコレする、しないでは無いと言い、神の教えている事を混同して理解していないのです。
コインには、裏表がありピッタリくっついて1つです。これを
人間の思想教理は、切り離しているのです。アヴラハムの契約=
信仰により義とされるは、無条件譲渡、信仰により受け取る以外
方法はないのです。そして、神の聖なる民にされた人達には、
条件付きの婚姻契約に生きる事を与えられているのです。
神の婚姻契約=シナイ山の契約は、イスラエルの神〜イエシュアを信じた人達に与えられたものであって、異教徒に与えられたものではない事を理解して下さい。
花嫁として嫁いだら、夫の家婚姻した家族の生き方をこれからは生きるのですと教えられているのです。
シャバットは異教徒に与えられたものではなく、イスラエルの神
との関係に入った人にもれらなく与えられている契約を通してイスラエルの神との関係を結んでいる印である!と神が伝えています。だから異教徒はシャバットを祝いません。
それらは人を守り、神との関係を正常に最も親しく育み、神の
祝福を受けて喜び生きる全てが教えられているものなのです。でもその神の教えをクリスチャンの世界では律法などと呼び、
さらには、古い厳しい縛りの律法から解放されたなどと神の婚姻契約をその様に考え取り扱って、勝手に神の教えを曲げたり変えたりしているのです。
このブログは、ちょい攻撃的な事を書いていると思われるかもしれませんが、どうしてその様に聞こえるのでしょうか?
それは、世間で1900年流通している思想は聖書ではないと
言う殆どのクリスチャンが反対する様な聞きなれない事、一般に流通している聖書解釈の内容が人の思想であり、聖書に照らし合わせて何が違うのか?と言う事を書いているからです。
クリスチャンの中にはある意味知らない間に神の実態=トラーを生きている多くの人がいるのです。
でも、聖書の記述、神の言葉とは異なる事を言い行動する事は
真実ではないものなのです。
個人的に誰かを攻撃する目的ではないのです。聖書には何が書かれていて何が書かれていないのか、聖書ではない人が作った思想や教理は聖書ではない!と言う事を知った人達は、聖書とは違う思想、解釈に対して、聖書に書かれた神の言葉の真実を話さなくてはならない責任があるのです。
そうでしょう?イエシュアを救い主と知った人は、生活全てを
通して、イスラエルの神=イエシュア=救い主が誰であるか
どんなお方であるのか、自分の人生を通して正しく人に生きて
伝える責任が与えられているのです。偽の聖書観、偽のイエシュア像、偽のイスラエルの神像を語ってはならないと神から禁じられているからです。
神が言ってもない事=嘘を神が言った言ったと人が言い続けているその矛盾と軋轢は耐えられなものなのです。
神はいずれ、嘘を全部一層し、神の言葉だけが世界を覆うと預言しています。
進化論、人間は微生物から進化して、そして更に猿から人間に
なったのだとあなたの友達があなたにそう言って来たら、その意見に同意しますか?笑われても、世界は神に創造されたと勇気を持って言いませんか?神の言葉が廃れた〜嘘です!神の言葉は
今は無効、嘘です。神の言葉は生きる必要がない、嘘です。
人の確信する事を今は生きれば良いのです。ユダヤ人だけ生きれば良いのです。それも嘘です。
全ての生きる基準は、神の口から出た一つ一つの言葉=トラーに
より生きると神が教えているからです。
議論になるならやめますが、それでも嘘を本当などと認めないし、言えないでしょう?それと同じであると理解して下さい。
善を悪、悪を善と言う。真実=神の言葉を廃れた、無効と言う
その背信に耐えられなくなるでしょう。本当の事が一旦分かれば。世の中は今罪に大きく扉を開いてしまっているのです。
その原因は神の言葉を否定している事から始まるのです。
クリスチャンでさえ今や罪=同性婚認証、容認、受け入れている時代ソドムとゴモラを繰り返す事にまっしぐらの時代になって
いるのですから、神の言葉を正しく知り生きて伝える責任があるのです。背信の時代に在って安全に守られるために。
神が言ってもない事を本当と言う、その嘘を本当と言うほど、
違和感、圧力、矛盾を感じる事はないのです。
しかも、神の最も大事な聖なる呼び出し日=シャバットを西洋人異教人が勝手に変えてしまっているのに、聖書を読みながら、
シャバットは7日目と書いてあるのに、その事に全く気が付かないで、安息日を守りこれを聖とせよと言いながら、それが週の
第一日目=日曜日だと思い込み、神のシャバットの記念日それに繋がる神の祭りも捨てて、神の記念日、祭りの意味も理解していないのです。
聖日はどの日でもいい、自分達は昇天を記念する、キリストを
信じる新しい群の記念日を祝うのだ〜と、日曜日、クリスマス、イースターが神の呼び出された聖日であると言っていますが、
神の聖日、呼び出し日、聖なる集会、主の日はレビ記23章に書いてあるものが本物です。他は単に人が作った記念日である認識をしないとならないのです。
聖書には1つもそんなこと書いてませんし、イエシュアもパウロもペテロも誰一人としてそんなこと教えてないし、実践もしていませんでした。
又はこう考えるでしょう?使徒は過渡期の教えだから、新しい
教え、新しい記念日が全部書かれていないのだ〜、彼らはまだ
新しい教えを知る途上であったと解説しますが、そんなウソは
やめましょう。聖書に書いてない事は空想、想像でしかない、
人の考えついたあれこれなのです。
こう言う事を神の言葉で背信と言い、主よ主よと言いながら
主の教えではない事をする無法=トラー無し!と書いてあるのに意味が通じていないのです。マタイ7:21-23
マタイ 7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法=アノモス=トラー無し=モーセの五書の教え無し=を働く者どもよ、行ってしまえ』。
続く