聖書とは異なるダービーの思想が20世紀に爆発的に浸透した理由 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

19世紀、ダービーの思想に傾倒した、プレスピテリアンの

ジェームス ブルックス牧師は、元弁護士であったC I スコッフィールドにダービーの教えを仕込み、訓練しました。

 

1882年、スコッフィールドはテキサス州ダラスで牧師職に

就きます。講壇からは、聖書ではなく、ダービー思想に染まった

デイスペンセーション神学思想を説教したのです。

1895年迄その職にありました。

デイスペンセーション神学の細かい事は分からなくても良いです。聖書を知らなければそれが聖書なのだと、勘違いするからです。ダービーの思想は空想であり聖書ではない人間の思想です。

 

歴史を7つの時代に分けて、神の人々への関わり、教え、対応が時代ごとに違う、人間はどの時代も神の試みに対して失敗したと言う思想です。これ聖書ではないです。

 

神が伝えている永遠不変の真理、教えに反して、一貫性、継続性の無い教えです。神の言葉を、恵と律法などと対比させています。ダービーだけではなく、1世紀後半から異邦人の世界では、

聖書を1つであると認識しない、2つの分断された別の教えと

教えられ、本気でそう信じ込んでいるのですが、聖書は創世記から黙示録まで同じこと=モーセの五書の解説しか書いてないのです。

神が説明するイスラエルの1つの群れ=イスラエルに異邦人も

加えられると神が伝えている真実を曲げて、イスラエルと異邦人は2つ別の群れであり、永遠に二つに分裂!イスラエルは地上を治め、クリスチャンは天を治めると言うのです。全部神の伝える真実に反している教えであることを頭に置いて考えて下さい。

 

聖書にはそんな事など書かれていません。あるデイスペンセーション思想のユダヤ人背景の教師は、父なる神の花嫁はイスラエルであり、イエシュアの花嫁は、異邦人であるなどと言います。

なんとな〜くそうなんだと思わされた人、その様な偽物の思想に騙されてはいけません。聖書にそんな事書いてません!

父とわたしは1つ=エハッドとイエシュアが言われたでしょう?

わたしを見たものは父を見たのであると。私達の肉の頭脳の理解を遥かに超える事を言っていますが、分裂思想は聖書の思想とは全く異なる人の考えた空想の教えです。

 

イエシュア=救いは2000年前に初めて実現化したのではなく、この世の礎が造られる前、永遠の中から屠られた子羊の血の贖いは完了して、そして私達もこの世の礎が出来る前から選ばれていたと、理解不可能な事実が聖書には記されているのです。

永遠の中から始まって、エデンの園から救いは1つ、福音は同じ

なのです。

ユダヤ人とて、様々に人の思想に染まり浸かり、聖書を歪めて解説する人もいるのです。

ヘブライ文字から暗号の様に教えを読み解くなどするユダヤ人達の教えがありますが、そんな複雑な事を神は伝えていません。

ヘブライ語聖書を読みながら、デイスペンセーション神学に

傾倒する思考回路を持つ人も中にはいるので要注意。聖書を語っているのか、人の思想を語っているのか照らし合わせる基準は

神の言葉だけです!だから神の言葉を熱心に求めて、神の伝える事を知り、偽の教えに騙されない様にしないとならないと神が

言われたのです。

聖書に書いてある通り、様々な偽教師が出て来て、人を聖書では

無い教えに導いて行くと警告している通りだからです。

 

注意点は、聖書には何が書いてあり、何が書いてないのか?を

はっきり知る事です。スコッフィールドの偽聖書を読んだ人は

聖書を読んでいるのではなく、彼の思想注解解説の方を読み、

それが聖書だと思い込んでいるだけなのです。面倒でしょう。

聖書読むの。何が書いてあるのかちゃんと学ぶと言うのは、言語に何が書かれていて、その当時の人達に当てて書いたものが、どの様な意味で記されているのか正しく学ぶ人がいなければ、正しい解説など出来ないからです。

だから、その様な人間の思想を通して〜神の言葉が廃れたと言う思想を持つ人達が、福音書以降、特にパウロの書簡を曲げて歪めてパウロが意図してもいない事、神の言葉が廃れて、別の教えに

なり、神の言葉は人間が自由に選べる、又は神のシャバットが

日曜に変更され、又は安息日はいつでも良い、きよく無い動物を今は自由に食せる様に神が教えを変えたなどと、本当に聖書に反する事を勝手に解説し、書いてある内容とは異なる解説がクリスチャンの世界でがっちり恒久的に浸透してしまっているのです。

 

神が神の教えを変えれば、なんでもありならば、神が伝える聖別の定義が無くなり、聖なる民、祭司の国の意味も吹き飛び、混ざり物、異教の神々の国の人との区別が無いと言う事になってしまいます。

そして、ダービーの言う様に、秘密裏に実行される再臨と空中軽挙でクリスチャンだけがこの世界から取り除かれると言うのも、ダービーの空想話です。そんな事聖書のどこにも書いてません。

モーセの五書、預言書、諸書にも書いてません。預言もされていません。

再臨は2度があるとダービーが言ってますが、そんな事も聖書に書いてません!誰もが主の再臨を目撃するからです。

神が人に秘密にしている計画があるなどとダービーが言っている理由は、詰まり、聖書には書かれていないから、秘密、伝えてない計画があるなどと解説しているのですよ。ここまで来ると、

彼の様な人は空想ファンタジーを書く舞台作家になったら良かったのかも。いや、人に曲がった聖書のお話を伝えられては困ります。

神は、救いの方法は1つ、福音は1つと教えているのに、聖書とは真逆の教えを語っているのです。そして、イスラエルがどの時代にも神の教えを生きる事を失敗したから、次のプランへ次の

プランへと進んだと言うのです。

そして、神の言葉を恵と律法などと対比させています。

れは神が語る神の言葉の性質とは真逆の思想です。神は永遠から永遠に恵の神であり、トラーは恵みに満ちていると書かれているからです。大体律法などと言うトラー=神の言葉、教え、インストラクションと言う意味を全く反映しない翻訳用語は完全に

削除しなくてはならない不適切な翻訳用語なのです。

アダムとハワから、もれなく全員、イエシュアを通して以外、

父の元に来ることが出来ないと言うのはどの時代もどの人種でも同じです。

ノア、アヴラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、預言者達、皆1つの救い=イエシュアを通して父の元に取り戻されて

1つのイスラエルの大家族の群れの一員にされているのです。

このイエシュアの子羊の血の贖い、福音がタナック=モーセの五書、預言書、諸書の一面に記されている事に気が付けないのは、

タナックに記されている内容を学ばない、知らない、理解していないからです。

み言葉と聖書に書かれていれば、それは100%父の教え=モーセの五書=婚姻契約=トラーの事なのです。神の教え=トラーが

シオンから出て世界の四隅へ伝えらえる!と書いてあるでしょう。

イザヤ2:3 多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。トラーはシオンから出、

主の言葉はエルサレムから出るからである

ミカ4:2 多くの国民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。彼はその道をわれわれに教え、われわれはその道に歩もう」と。トラーはシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。

 

神が伝えるトラーの教える義の道とは別の道を歩もう!と教えているのが、クリスチャンの世界の〜律法に戻る気か〜!と言う

教えなのです。神の言葉に根付いて生きる事から意識を外らせる

思想。

トラーとは違う教えが世界に伝わるのが神の意図ではないのです。だから、神の教え=聖書を正しい理解で、書いてある意味

通りに理解する軌道修正が必要なのです。

イエシュアの実態を歪めて他の人に伝えてはならないのです。

イエシュア=言葉です。神の言葉を歪めるとは、イエシュアを

歪めて人に紹介している事なのです。

イエシュアを通して贖い出された人は、聖なる民、祭司の国民の生き方をする!とはっきりと神が教えているのに、まるで気が付かないまま自由の律法〜キリストの律法=イコールそれらの教えはトラーを新しくされた人として生きると書いてあるのに、その意味を全然読み取っていないで、別物の教え=自分に確信を持つことを生きよと教える、自分主義の教えを唱えているのです。

神に与えられた婚姻契約を捨てた生き方をせよ!と異邦人は言いますが、それは神の言葉に反する真逆の教えです。

 

心=頭脳に割礼がされた人が生きるトラー=再更新されたモーセの契約がエレミヤ31章であり、イエシュアが過越の晩餐で語られ再更新されたモーセの五書の契約書の事なのです。

モーセの契約とは別の教えなんて聖書のどこにも記されてなどないです。ちゃんと聖書に書いてある意味通りに正しく読み取り

注意深く考え直せば神の言葉の永遠不変性の真実が見えてきます。

特にパウロの書簡の翻訳、それに対する注解、解説は、不真実、不具合いが多過ぎて、聖書に書いてない言葉も翻訳には付け足されていますから、神の言葉に矛盾する神の言葉を否定する教えが書かれている様なニュアンスのある箇所は、ずれた解説をされている箇所は、注意して読めば検出出来ます。

神は神の言葉を変えない!と言う大前提をダービーの様な人が崩壊させるから、違う教えになったと勘違いしているのです。

だから、クリスチャンの世界では、デイスペンセーション神学が

語る空中軽挙を否定する人がいても、神の言葉の一貫性、永遠性連続性を否定する教えは受け入れて、イスラエルが生きられない律法=古い教え=破棄と言っているのです。

ダービーの思想は、最初から神の言葉を否定した教えの上に成り立っているのですから、神の言葉が伝える聖書の真理とは異なる人の思想なのです。

そして、1つ、神の契約はイスラエルに与えられたもので、それは今も有効と言う、その部分は、聖書とマッチしています。

しかし、それは契約はイスラエルだけへの契約ではなく、同じくイエシュアを通して聖なる民、祭司の国に加えられた異邦人、

もれなく全員、同じイスラエルに与えられた婚姻契約を生きる事に招かれている事実を理解していない所が聖書とは違う思想なのです。

そして、時代ごとに神の教えは変わると言う一貫性、継続性が

無い教えなので、神の言葉を正しく仕分けるなどと言う教えを

ダービーがしているのですが、神の言葉に対してその行為は、

冒涜的行為であり、神は人にそんな事をする様になど伝えてなどいません。逆に神はそれを禁じています。

一番の問題、異邦人の世界の中にある聖書観〜神の言葉が最初と最後では違う教え!イスラエルと異邦人は別の群れ!と言うこの偽り嘘の教えを取り除かない限り、聖書が1つとして繋がって

同じテーマで同じ救い、福音が最初から最後まで記されているのにも関わらず、その事実を人の思想に妨害されて読み取れていない事が1世紀後半から今に至るまで起きているのです。

どうして、イエシュアが父の言葉、ご自身でもあるその言葉を

永遠不変と言っておきながら、歴史の途中でご自分の言葉を

終了、否定するのですか?そんな教えはイスラエルの神の言葉、聖書ではない!おかしいと気が付かないとならないのです。

イエシュアは父の教えを正しく伝えて教え生きるために来たと言っているのに、神の言葉は永遠に堅く立つと言っているのに、

どうして、その父の教え=トラー=モーセの五書を終了するために来たなどと言う、間違った解説=パウロの書簡の内容を曲解されているのに、気が付かないのだろうと考えたら良いのです。

それは人の思想を買って、神の言葉の意味を塗り替え、聖書に

書かれている意味を読み取らない事をし続けているからです。

スコッフィールドの知人はこの様に話しています。

”スコッフィールドは、自分自身の考え=注解を聖書の横に書き

記し、注解書と言う名前ではなく、聖書と言う名前で出版したい。”と話していたそうです。どうしてだと思いますか?

さすが元弁護士頭が切れますね。

当時、他の聖書学者達が出版していた注解書と、何の聖書教育の学歴も経歴も背景も名も無いスコッフィールドがその人達に

入って注解書を出版したとしても、それは余り話題にもされないだろうと考え、だから注解書を出版するのではなく、聖書として出版すれば売れると言う考えに至ったのです。

神がやってはならないと言う事〜神の言葉に付け足し、差し引き

するなかれ!をやったのです。

そしてスコッフィールドの考えは上手行く事になるのです。

 

聖書と言うタイトルで出版すれば、それは聖書と読者は思い、

実はその中にはダービーの思想で聖書を読み解く注解が聖句の

横に並べて書き記されてしまった只の偽物聖書なのです。

活字とはインパクトがあるでしょう?今はネット次代になりましたから、新聞や報道が言う事が正しい事だけではなく、嘘が盛られていると言う事を正しい情報を集めて発見している多くの人がいますから、書いてある事イコール真実では無いと考えられる人がいます。

でも、この19世紀に、肉にアピールする様な思想を活字で書かれたら、聖書を本当には知らない人々、教師達も含めて、そんな教えに簡単に惹かれて、流れて行ってしまったのです。

 

続く