神の教えを縛りの呪いと完全に勘違いしている異邦人の世界の教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ヨハネ14:24わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、

わたしをつかわされた父の言葉である。

神=言葉=聖霊=イエシュア=トラーと言う聖書に記された

事実が分かれば、聖書に書かれている意味が理解できます。

言葉=神!神の言葉を否定、退ける=聖霊、神を退ける!

 

父の言葉〜モーセの五書=婚姻契約書=はじめの愛です。

愛とは、神の言葉をガードして生きる!それが神が伝える愛の

実態です。神を愛しま〜すと言いながら、神の教えを捨てましょうそれは呪いの律法だから!と。変だと気が付かないとなりません。とんでもない不真実な教えを、神の教えだと本気で信じて来た。私は、聖書ではなくて、人が作った教えを聖書だと教えられそう信じて来て、15年前にそれが嘘!と言うことに気がつき始めたきっかけは、オリジナル聖書、ヘブライ聖書を最初から学ぶ機会を与えられた事でした。それがなければ、私の場合、何が

聖書で何が人の教えなのか見分けられませんでした。

 

しかも、翻訳聖書を読んでも、オリジナル聖書の様に中身がどんどん掘り出せない、浮かんでこなかったのは、書かれている言葉の意味、そして聖書が1つとして繋がっている事実が全く目えなかったからです。

でも信じた最初に聖書を最初から最後まで読んだ時の印象は、

1つとして繋がっていると実感したのです。分からないままに。

聖書を分断させて教える教えは、人間の教えです!と言うことに

今世界の多くの異邦人でも気が付いているのです。

神が時が満ちて真実に皆を戻そうとしているからです。

1つ神に、1つ教え=契約に、1つの大家族が、同じ神の教えを生きて、未来再臨以降は、皆が神の教えを生きて、神の記念日を

生きると預言されている事が確実に実現するからです。

 

 

境界線、安全な囲い、鎧兜であるのに、それを捨てさせる様に

教えるのは、サタンの策略だと創世記の最初から書いてあるでしょう?

どうしてでしょう?神の言葉から離れたら、人は自分が誰か分からなくなり、宗教の教えを編み出し、神が伝える事では無い混ざり物の教えを生きて、聖別を失って迷い出てしまう事が起きるからです。

サタンは神の言葉には力があり、私達を生かす源である事を

知っているから、そこから離れる様、離れる様、いつも仕向けて

いるのです。

 

そして、モーセの契約は、条件付きの契約であるのです。地の塩

世の光とは、聖別された生き方、神が伝える生き方を生きる事で

世界に表される神の実態、栄光の話をしているのです。

それを捨てたら、それは、神が直接天から下している光や塩とは

異なる混ざったものになってしまうのです。

 

もしも、あなたが神との親しい関係の中で神と顔と顔を合わせて

生きる、祝福恵みを享受したいなら、あなたはこれこれを生きてこれこれを生きてはダメです。

 

なぜなら、神の性質に造られた人の姿通りを生きるのが、神の国をシャロームに反映させる生き方で、神の性質に反する生き方をすれば、自分を他者を傷つけ、歪み、破壊をもたらして、エデン=喜びではなく、悲しみが入り込む。

 

世界に地の塩、世の光としての役割である人が、イスラエルの神の性質を正しく他者へ伝える事が出来なくなるからです。

だから、契約を受け取る代表者、この地上で神の国を反映させる

国、イスラエルと、そしてその中に住まうイスラエルが、

神の教えからずれたら、世界をみな迷わす事をしてしまうから、

特に厳しい訓練、刈り取る結末を与えられ、曲がった生き方から

戻る様に、神に教えられなければならなかったのです。

 

神が提示する生き方から離れたら、神との関係にも隔たりが出てきてしまう。だから、神の性質通りに生きる事=聖別された生き方に同意して生きて下さい。それが命を選びなさいと言う神の知恵の生き方の提供なのです。

 

クリスチャンの中では、食べ物の規定に抵抗感じると思います。だっていつも食べているものに誰かが口出しする様な感じで

嫌ですよね。自由奪わないでよね!と。

そして今はなんでも自由に選んで生きる、神の言葉なんて関係ない!と思っているのです。

神が創造された記念日なんて意味ないし、重要ではないと考えているでしょう。いや神が神の子らを呼び出している記念日が

いつで何なのかさえも全く教えられる事などありませんよね。

 

そしてカトリックやプロテスタントが祝う日が主の日、聖日だと本気でそう信じてそう思っているのですが、本物の神の呼び出し日は、神の口から直接語られて、神は神が聖別したミクラコデシュ=聖なる集会の日をレビ記23章で教えています。

 

 

食べ物の教えですが、どうしてこれがダメなのか簡単に分かります。

きよくない動物は、人間の臓器、内臓、心臓、脳や細胞にどれほど毒、害なのかと言う事は研究でも知られています。

清掃動物が取り入れた毒を人間が取り入れるのですから当然。

 

1958年アメリカのジョンホプキンズ大学の教授がレビ記11章にある動物、きよい動物、きよくない動物を調べてみようと、

調査しました。

鱗やひれある魚は毒がなく、逆に鱗やヒレの無い魚は毒である事

を発見しました。

David L. Machat the Bulltein of History of Medicine P446-448

毎年アメリカでは、中国の豚から100種類のウイルスが発見されています。H1N1聞いた事あるでしょう。豚インフルエンザなど。そして動物と人間の間を行き交うウイルスをきよくない動物を食する事で起こしてしまい、そして環境をも汚染し疫病を流行らせる、これは全て神の知恵を無視した行動により発生したものです。神がちゃんと伝えているのに、人間が聞かないから。

 

神が世界を創造され、きよい動物=人が食せるもの、きよくないもの=陸海空の清掃動物として創造された、人が食するのに適さない動物であると人に伝えているのに、人間は神の知恵を簡単に捨てたのです。神の知恵を捨てるとは本当に愚かな行為なのです。神は全ての教えを意味があって伝えているのに。

豚なんて、聖書ではきよくないけがれた動物の代表として書かれているでしょう?豚に真珠とか。どう言う意味で書かれていると思いますか?神の言葉からその事実に気が付きませんか?

 

人が神が清掃動物として造られた動物が、その役割通り陸海空の環境のゴミ、ウイルス、糞、死骸をふんだんに食べ掃除し、

それを動物の体に溜め込み、解毒が不完全な清掃動物なのです。それを人間が取り入れ、自分の体の臓器や細胞にダメージを与える。そして様々な病気、感染症もそこから出て、他者へ移してしまうと言う恐ろしい現実があるのです。

人が神の教えを破り、環境破壊や人の健康を破壊しているのです。聖書には、イスラエルが神の教えを破りその様な食生活をした時に疫病が蔓延して多くの人が亡くなった事実も記されています。神の教えは物理的霊的精神的一枚岩です。

何故なら、神の言葉は1つであり、私達の存在も心体魂精神霊と言うバラバラでな言葉ではなく、”生きるもの”ネフィッシュと言う言葉で表されているから、見えない世界と見える世界は一体。

物理的霊的も同じ!聖別は食べ物=生き方、神の記念日で教えられている事が聖書には書かれている、それに気が付かないのは

最初の部分に書かれている事を学ばないからです。

 

これらの動物の性質を通しても、神が霊的な面で教えているのが

分かります。私達は内側に毒を溜め込む性質に造られていません。反芻する動物は味わい吟味して自分に相応しくないものを

自分の内側、口から吐き出します。そして貝毒とある様に貝は

しっかり毒を取り込み、内側に溜め込みます。これらはあなたの

性質ではありませんよと教えているのです。しかもノロウイルスとは、貝、牡蠣その様なものを食して他のものに移って行くそうです。いい迷惑ですよね。周りもそのウイルスに汚染されて一家全滅になる。。。とほほですよね。そんな病気を呼び込むものを

食するのは、知恵のない事です。知れば避けられる病気なのに

自分だけで済むのではなく、他者へもウイルスを移す。

 

聖別と言う事をどこで教えていますか?

イスラエルと言う1つの国民を呼び出し神の国を地上で反映する国家を形成し、そして全てのイエシュアを通して贖われた他の異邦人もこの同じ婚姻契約を土台にイスラエルの神の大家族として生きる事に召されたと書かれているのです。

聖別とは、時=神の記念日、場所=聖別された場所〜人

そして人=神の宮である人は、神の聖別を保って生きる事が記されているのです。

聖別に関して、聖書の一番最初に記されているのは”シャバット”

です。そして、人が食べる物に関しても聖別が記されているのです。

 

1ペテロ1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。

1:16 聖書=トラーに、わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。

 

パウロがこの箇所を書いている時に考えているのは、モーセの五書です。どんな事をしていても、神の伝える通りを生きる事と

教えているのに、クリスチャンの世界では、パウロが新しい教えを語っていると誤解していますが、そんな事は天地がひっくり

返っても1000%あり得ません。それならば、パウロの書簡は

神から聖書として認定されません!

この1ペテロ1:16の引用は、モーセの五書=レビ記11章にある、食規定に関しての教えからの引用なのです。知っていましたか?神が提示するきよい動物〜その食規定の教えを全部教えた

中で、わたしが聖であるから、あなたも聖でなければならない

と言われたのです。神の宮である人は、汚れた食べ物を取り入れて、聖なる宮である自分の体を汚してはならない!と教えているのです。現に病気になんてなりたく無いでしょう。その様な食文化は、異教神を信じる人達が行うものだからです。

他の人がする違反行為で自分も同様に苦しむ。

そう言う事をする場合に、宿営の外に出されると書いてあるのは

他の人が汚染されないため、みんな命を守るための神の教えなのです。

 

文脈を無視、逸脱して、その聖句だけ取り出しても、神が伝える教えは全く意味不明になります。聖別は、神の記念日を

通しても教えられています。時と場所=人に対する聖別をレビ記

で教えているのです。その定義は変化しないのです。

 

神は食べ物を通しても、人に聖別とは何かを教えているからです。けがれた汚いものを体に入れたら、健康が損なわれ、毒素を体に取り込み、周りの人をも汚染して病気にしてしまう事は、考えれば分かる事です。

神は知恵深く、神がこの世界の創造主である事を忘れたかのごとく、人間は神の教えを退けて、その人の頭の中にある勝手な脳内ジーザスの教えを語っているのです。

そして、その食規定はクリスチャンが空想解説する様に、昇天

以降も変わらないのです。そしてその様な動物を食して、病気になり、他の人にもウイルスを撒いているのです。

 

あなたがもしも、2000年前の人間の構造と全く進化していて、今は別の構造性質になって、どんな毒を食べても解毒出来る

別の臓器を持っているのでなければ、神の創造された動物が

創造をもう一度やり直し、最初から造り直されているのではなければ、それらを食したら同じ作用を人の体にもたらします。

 

しかも神が汚れた動物を食べるなと言うのに、どうして食べたいと思うのか?その理由を考えたら、自分の中にある問題が見えてきます。

自分の欲、願望?自分の思う通りにしたい、神が決めたルールは嫌だ、神の言う事なんて聞きたくもない、色々あると思います。

でもその基本は、自分の都合、自分信仰、自分が神、自分よがりの礼拝です。だって神の言う事なんて関係ない!て思うのでしょう?そんな事露骨に思うなんて考えませんが、神の言葉をどの部分でも否定する教えや態度はそうなのです。神ではなく自分の考えを取る!危険。

 

あなたの前に命と死を置いた。あなたは命を選びなさい。

自由選択です。でも勝手な自由選択が、周りの人を同時に

苦しめると言う事を忘れてはならない。それは神が伝える愛ではないでしょう?LGBTQも同じです。

どんな教えでも、神が言うことに反するとは、神がデザインしたことから外れる、ずれ=罪だから。それは他者へ良い事など

もたらさないからです。

 

続く