聖別の意味、何を通して聖別を教えているのか? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

もしも、イエシュアがレビ記11章に記されている食規定を破れ!それらの教えは今はもう終了だ!などとマルコ7章で弟子達に言ったとしたら、その時点で弟子達からは、どんな反応が起きるか想像出来ますか?弟子達から驚きのどよめきと、反論が起きないとならないのです。なぜ???????

神の言葉を破る教えを救い主、イスラエルの神がする!その様な概念は、異邦人の思考回路の中にしかないものなのです!聖書とは違う。神の言葉は絶対であり、神であるイエシュアご自身が

ご自分の性質に反してそんな事言う、するなんて有り得ないと

言う事が異邦人には全く理解出来ていない事なのです。

 

なぜなら、聖別の根幹を表す食べ物に関して、人の命を支える土台が、今は変わりましたなどどイエシュアが神の言葉に反した事を言ったとしたら、そりゃ〜皆ドン引きして、イエシュアを質問ぜめをするからです。

今は豚を神殿の祭壇で捧げる事が出来る?それでは、トラーや

預言書に書かれた事とは全く辻褄合わなくなります。未来イエシュアが戻られてエルサレムから統治する時に、神の祭りでエルサレムに世界中が神の神殿に来たら、そこで豚を捧げる?

あり得ない空想の教えです。

彼ら1世紀の人々の聖書は、モーセの五書、預言書、諸書のみです。それに照らし合わせて、神の言葉や教えに反する事を言っていると考えている事自体が異常事態なのです。福音書以降にも、最初の75%を破る様な教えなど1つも書かれていないのに、

その事に異邦人が気が付いてないだけなのです。

イザヤ65:4, 66:3, 66:17 レビ記11

もしそんな事をイエシュアが言われたら、イエシュアはイスラエルの神でもなければ、救い主でも無い、単なる偽教師、偽預言者になる事が聖書から理解出来ないとならないのです。

イエシュアは父の教え以外は伝えない!と言っているでしょう。

父の教え〜モーセの五書であると言う理解が異邦人には無いのですが、当時のユダヤ人たちは、はっきりイエシュアの言った父の言葉、イコール、トラー=モーセの五書=婚姻契約に記された

教えであると理解して聞いているのです。

 

神は、昨日も、今日も永遠に変わらない、神の言葉も変わらない

と、神の口から直接語られた言葉に相反し、矛盾します。

神は嘘は付けない、ご自分の言葉に矛盾する事も言えない。

神が神の言葉を破る!人に破る様に教える、そんな戯言は聖書には書いてなどないですし、書いてある訳などないし、マルコ7章の箇所では、全ての食べ物はきよい、などとも原文には無い文章を、デイスペンセーション神学思想を持つ様な翻訳者が勝手に、原典聖書の文章に無い、文章や言葉を付け加えて、自分の思想を

聖書に反映させる行為を違反をしてやっているのです。翻訳で

その様なインチキが出来る、不誠実な翻訳であり、翻訳とは、

その様に、本来の元、原典に書かれた事が見えないと言う落とし穴があるのです。内容、中身、文章を何でも変化させられてしまう。見分ける方法は、神の言葉です。神の言葉は永遠に固く立ち

廃らない!神の言葉は完全であり、神は変化、移りゆく影もない!イエスキリストは昨日も今日も永遠に同じ!その神の言葉の方に立てば、神の言葉と違う解説や翻訳をしている箇所が、何か突き止められます。

ヘブライ語聖書にはその様な危険はありません!

文字数も言葉も皆同じまま、完全に保存されトラー学者であり

訓練を受けた書写学者達により厳重に書き記されて来て保存されている、神業だからです。神は最初から、神の言葉に付け加え、差し引きするなかれ、イエシュアも一点一画も廃らないと言われた通りだからです。

もし、仮にすべての食べ物と書いてあったとしても、それは、

レビ記11章にあるきよい動物=人間が食するのにふさわしい

動物の中での全てと言う事なのです。異邦人の世界と、トラーを知るヘブライ人の世界の人達の、神の言葉を聞いた時の理解は

違うのです。

日本人で、食べ物と言われて、犬猫ネズミなんて考える人は一人もいないでしょう??それらは人間の食べ物などと考えないからです。

犬、猫は、ペットにするには可愛くても、それらは人間の食べ物だと言う認識がないからです。

事実それらの動物は人間が食してはならない動物です。

人間が食するのに相応しくないと言うカテゴリーに入る動物は

何であれ同じなのです。非食用!!豚だろうが、馬だろうが、鷹、甲殻貝類、鱗のない魚などは、人の食べものではない、陸海空の清掃目的として創造された動物〜きよくない動物と神が言われたら、神はそれらを人の食べ物として神は創造されてない!と言う神が伝える真実を受け取れば安全に守られるのです。

いいじゃない!どうして食べてはダメなの?と思う。それは、

そう言う事をしたらどうなるか、人間が知らないからです。

神は人に知恵を与えている。危険だからでしょう。食べたら。肉体的にも霊的にも。何も難しくないでしょう?安全ではないよと創造主が人に教えて、どうしてそれが縛りの律法だなどと考えるのでしょう?アダムとハワも同じ罠にかかった事が最初から書いてあるのです。

どう言う思考回路?神に言われた事を退け拒否する!そう言う

考え方がおかしい思考回路なのです。毒でも安全と言われたい?

危険なら危険と教えてもらいたくありませんか?

何でも自由に食べたいから。毒を安全と言われて、どれ程多くの人がその言葉に騙されて健康被害と、死と言う酷い目にあったのか、近頃の出来事でも気が付きませんか?気がつかない。吟味なく、調べなく、考えず言われたままを何でも取り入れるのは危険な事なのです。

食べ物の教えを知る人は安全に守られて、やたらめったらな事を体に取り入れない。それを無視した人達が危険な目にあってしまうのです。イスラエルでそんな選択をした人は、トラーを無視して生きる人達だったのです。

でも人は神に言われた事を疑うのです。逆らいたい。アダムと

ハワと同じく、もしかしてそう言う意味で神は言ったのではないのかも〜と、言われた事を無視して、食べてはダメと言われたものを食べたら、どうなりましたか?死が入り込んだ。分裂が入り込んだ。神の内側から外側の隔たりの中に飛び出してその中に

閉じ込められてしまったでしょう。たかが食べ物?同じですよ。今も同じ!神が言う事を無視したら、同じ。だから苦しむのです。

このマルコ7章の論点は、人の教え=手洗いの儀式をしないで

異邦人の市場で買い物した様な手は汚れているから、その手で

食べ物に触れば、その食べ物は汚れると言う事を言って、その様な人造の儀式を生きる事を当時の人は強要していたのです。

しかも、その手洗いの儀式とは、ただ手を洗うのではなく特別な儀式としてのややこしく面倒なやり方があるのです。

 

それに則らないとダメ。誰がそんな指示しているの?神ではなくて人間でしょう?それならそんな事やる必要などないのです。

そんな事どうでもいいでしょう?て言う話であり、そんな人が

決めた教えを生きよと人に強要する事は、重たいくびきであり

不要だとイエシュアが言っているのです。人を汚すのは、人の

内側に蔓延る、罪であり、手を洗わない事が他の人に対して害を

及ぼさない、それがなんなのさ!と解説しているでしょう。

なんでも食べて良いなんてイエシュアが言う訳ないと異邦人にはその様な理解が無い。

この論点が見えないまま、食規定が変わった事が書かれているなどと考えているから、ズレた理解になってしまうのです。神が創造された人間が食するに相応しい動物、祭壇に捧げられる動物、それと、陸海空の清掃目的として造られたきよくない動物=ウイルス、菌、細菌を体に溜め込む性質の動物は人の食べ物として相応しくないのは、イエシュアが地上に来られても変わらないのです。

ゴミ、菌、ウイルス、糞、死骸、ありとあらゆるものを食べて掃除する動物。消化器官が未熟であり体の中は寄生虫、毒、ウイルス、菌に満ちている。そんな動物は、非食用。イエシュアご自身も、きよく無い動物など食さないし、人に食する様になど教えませんでした。

異邦人が厳しい教えと考えるのは、自分に慣れ親しんだ教えが

実は、神の前に汚れた生き方だと言われるのがいやだからです。

自分に取り慣れ親しんだ事と違う事は拒否したいからです。

楽しみ奪われるたら嫌ですし、窮屈を感じるからでしょう?

もし、ネズミ、ゴキブリ、猫を食べるな!と言われて、縛り、

呪いの律法などと感じますか?感じないでしょう?それらは人間の食べ物とは認識してないからであり、そんなもの元々食べないからです。全部自分の都合上の話なのです。ここ一旦置いて、

後から解説します。

どうして神が語られた教えが重要なのか分かるからです。

 

翻訳聖書にはその様な人の思想で、原典には無い言葉や文章を

挿入させて、聖書の事実を曲げることが出来てしまうから、注意して、前後の文脈を正しく読み、どの箇所もモーセの五書を否定する教えは無い!と言う大前提から読めばインチキ、臭い箇所は、はっきり検出出来ます。そして本当は、何が聖書には書いてあるかをそこから突き止めればいいのです。一番良いのは、言語に書いてある事を見る事なのです。神の言葉が変化したと言う

箇所は漏れなく100%人が解説する聖書では無いズレた教えの

注解なのです。

神との関係が存在しているのは、神が提供する婚姻契約の上に

成り立っているものなのです。クリスチャンは気が付かないだけで。メシアにより救われたから神との関係にある!そうです。

それは譲渡契約。そしてその無償のギフト=新しい命を信仰により受け取った人には次の契約が用意されているのです。

 

その契約に対してクリスチャンは呪いの縛りの律法だと多大に

勘違いしているのです。神の提示する婚姻契約を捨てるとは、

それは婚姻指輪を外して、放り投げて捨てる行為です。

神の教えは100%すべて人を守るためのものです。愛するから、生きる上での全てを神が人に教えているのです。聖書にある愛=アハヴァとは、神の提示する婚姻契約に記された教えを、

ガードして生きる事!これが聖書の愛の定義です。

クリスチャンの中で誤解されているのは、神の言葉を生きて義と

されるのだと考えて勘違いしている事です。だから殆どの教えがそんな解説をしているでしょう?

 

古代の人は、律法を行い義とされたとか。現代は恵の時代、聖霊の時代、キリストの律法=新しい教え、又はそれぞれの心に

記された教えを聖霊により生きる様になったとか、意味不明ではっきりと新しい契約と言うその意味、中身の内容が何?とも分からないまま、聖書では何を示しているのか、分からないままその様な解説をしているのです。

新しい〜再更新されると言う意味であり、婚姻契約書の中身が変化した!などと、聖書には1つも記されていない事実をまず知らないと理解がずれてしまいます。なぜなら、神の言葉は完全であり訂正付け足しする必要がないからです。

イエシュアが教えたのは、父の教え=モーセの五書、その中身は

永遠に変わらないのです。異邦人へ与えられた契約書も、モーセの五書とは違う神の教え=契約書もこの世には存在しません。

 

神は永遠から永遠に恵、恵の時代を生きるのは、どの時代も

神の恵みで贖われて救われ聖霊を内側に受けた人達は体験していたのです。その様な、神の業や救い=イエシュアの業を分断する歴史線上に神の業を考えるから事実が見えなくなるのです。

どの時代も同じ!信仰により義とされ新しい命を受け取り、聖霊を内側に受ける。2000年前の人は、信仰によりイエシュアの業を未来に見て受け取り、2000年以降の人も同じく信仰により救い=イエシュアを過去に見て受け取る。

 

何も違いなどないのです。円を考えて、円の中心にイエシュアが居られて、イエシュアはどの時点でもどんな人にもアプローチ出来るのです。イエシュアは永遠の中に存在し、2000年前に初めて救い=イエシュアが有効になったのではないからです。過越の祭の処刑だけを考えて、その時点から救い、贖いが有効だと考える思考回路で救いを歴史線上に考えて、救いの有効が処刑時点で又は使徒2章で開始したなどと、考えているから、聖書に書いてある事実が見えなくなるのです。どの時代も同じ。信仰で同じイエシュアの業を受け取る。

聖書の最初の75%に、福音が記されていて、メシアが至る所に書かれていて、同じ贖い救いをどの時代も受け取った残りの民の事実が記されている事を、はっきりと学んで知る必要があるのは、その様に神の業を歴史上分断してしまった思考回路、デイスペンセーション思想の様な教えに、聖書の事実が塗り替えられないためです。

 

続く