聖書ではない人間が考えついた教えと神が伝える教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書翻訳用語の律法と言う翻訳も不適切であり、その様な翻訳は元の言葉の意味を正しく反映していないどころか、神の言葉に対するズレた意識を刷り込み続けていますが、その事にも気がつかないまま、ずっと大衆の中で当たり前の様に使われ続けている

翻訳用語。

元のヘブライ語、トラー=神の教えインストラクションと言う意味を全く表していない、ふさわしくない翻訳なのです。

 

聖書の最後の25%の箇所、福音書以降に書かれているのは、

キリストが神の言葉を終わらせた〜などと言う意味など、

1つも書かれてさえもいないのに、その様にクリスチャンの世界では、聖書に書かれている内容、事実をきちんと確認する事も

なく伝統の教えを解説し続けているのです。

進化論と同じく、皆が言うから、その声を停止する方が困難。

 

しかも、神を愛すると言う聖書に記されている意味は、神の仰せ=神の言葉を愛して神の言う事を生きる事!と言う意味が、

ヘブライ聖書=神が人々に伝える愛の定義なのに、神を愛する人は、神の言葉を無視して、自分のインスピレーションに従い生きる、それが霊に導かれて、思いのままに生きる新しい時代の恵みの生き方、それぞれが考えるそれぞれの自分礼拝、自分の教えを

崇拝して生きるなんて、聖書にはどこにも書いてないのです。

 

1つ1つ聖書と照らし合わせて考えて行けば、やがて神が伝える

永遠の真実が見えて来ます。暗闇を照らす光の様に、神はそんな

歴史の途中で約束や言葉を変える様な、ご自身の言葉に反した事

を行う訳が無い事が聖書には、証拠としてはっきりと記されているからです。神=言葉=イエシュアとヨハネが記した意味を異邦人は理解していないからです。神=言葉=聖霊=一体。

 

先ず、聖書の性質自体、聖書解釈の基本的原則を破って聖書解説をするから、様々にズレた聖書解釈を唱える事が出来るのです。

聖書=ヘブライ語の聖書(翻訳ではないです)は、原文のまま完全な元のまま状態で保存されていて、どの聖書箇所も互いに相反する、否定、矛盾、敵対する様な教えなど1つも記されていないと言う原則を無視した聖書解説をしているのが、西洋神学の教理を土台とした聖書解説なのです。

先ず、混乱して勘違いてしている聖書の箇所を、はっきり事実と嘘を見分けないとならないのです。そして、”契約”と言う事、

神との関係に人が在ると言う意味は、神が提示する契約に基づいてその関係が成立し保存され、進行して行くと言う大きな鍵を

知る必要があります。

 

前にも書きましたが、クリスチャンが信じるだけで良いのだ〜

と言っているのは、アヴラハムの契約の事です。創世記15章。

神が人と結んだ契約には大きく4つあります。

1 ノアの契約 2 アヴラハムの契約 3 モーセの契約

4 イエシュアによるモーセの契約の再更新

 

この4つです。

ノアの契約の印=虹、アヴラハムの契約の印=割礼モーセの契約の印=シャバット、4イエシュアの再更新されたモーセの契約の印=過越の祭の晩餐で祝うマッツア=種無しパン、贖いの杯のワインです。

 

契約と言う日本語では余り反映されませんが、それ以外に無いので契約と便宜上言います。ヘブライ語ではブリットと言います。

契約には儀式が伴い、動物を割いて、契約をどちらかが破る様な

事があれば、この裂かれた動物の様になる事を確認します、

と言う意味があり、だから契約を結ぶ事を、ヘブライ語では契約を切ると言うのです。

これらの契約は、古代中近東に実際に存在した契約があり、それを土台に聖書も記されているのです。特に、申命記は、契約書

形式で記されており、それは古代の宗主国条約の形式で記されています。

契約には様々なものがあります。労働契約や、譲渡契約、又は

不動産や婚姻契約など。

どうして聖書が婚姻契約と呼ばれるのか、その契約書の中に記されている言葉が、婚姻関係を表す用語で記されているからです。

神が人と結んだ契約は、人間の知る関係の中で最も親しい婚姻を

表すものとして伝えているのです。これ以上の親しい近い関係は

無いからです。

アヴラハムの契約は、無条件譲渡契約です。この契約の事を指してクリスチャンは信じるだけで良いんですよ〜と言っている事に気が付いていないと思います。この譲渡契約は、神だけが裂かれた動物の間を通り、アヴラハムは眠りに落ちて、裂かれた動物の間を通りませんでした。

100%神から一方的に与えられ、この与えられた約束は神は取り消さないと言う意味です。永遠にこの約束を信仰により受け取る

人たちから、新しくされた命を取り消す事はない。

そうです。新しくされる事、聖霊を受け取る事は信仰により

受け取る以外、方法はない。その贖いの事実の根拠は、イエシュアが永遠の中で支払われた子羊の血の代価が存在するからです。

 

この贖い救いの事実が2000年前に初めて出現し、有効になったのだとクリスチャンは教えられ、考えているから、西洋思想の時系列上に神の永遠の救い贖いの業を考えているから、イエシュアの永遠の存在、贖い救いは永遠の中に完了している!完了=

シャバットの事実が見えないのです。聖書に書いてあるのに。

 

最初から信仰による”義”は神から人へ与えられ、教えられているのです。神が人格を、人へのアプローチを変化させたと教えるのは、デイスペンセーション神学=人が考えついた聖書とは異なる

不完全な不真実な思想なのです。

神は永遠に変わらない、神の言葉も、神の福音も、神の人への救いの方法も、アプローチも関わりも同じ。インマニュエル〜人と共に人の内側に住まう神の性質は、永遠から永遠に変化しないからです。その事がちゃんとトラー=モーセの五書に記されているのです。

どこにそんな事書いてあるの?なんて考える場合には、書いてある永遠の事実が読み取れていないと言う事でしょう。

古代の人はタナックからメシア、救い、贖いを理解していたのです。

翻訳や、人造宗教神学の思想に覆われて解説され、ヘブライ語聖書の元に何が書いてあるのか言語の意味から学び、正しく把握しなければ、その事実は見えないままになってしまうのは当然なのです。でも神の言葉が変わらないと言う事実から、読めば分かるのです。

エデンの園から同じ。神により口頭で伝えられていた事が、

シナイ山で初めて文字として記された契約書と言う永遠の

証拠として正式に与えられたのです。だから、解説も前後の脈略もなく、エデンを出てから、カインとアベルはコルバン=捧げ物をしている事が書かれているのです。聖書の最初に解説が書かれていなくても、彼らは神の前に捧げ物をするとはどう言う事なのか、神に教えられて知っていたからです。

 

トラー預言書諸書には、メシア、福音が全部はっきりと記されているのに、その事実が読み取れないままなのです。

古代の人達、残りの民はどの時代も贖い、救いの事実を体験的に知り、聖霊を内側に受けていた事が記されているのです。

だから、メシアが来られる事を待っていた人々が居たのです。

タナックにメシアが記され、同じ福音が最初から書かれているからです。

それも皆ユダヤ人は、メシアは神の祭りの時に現れると考えていた、どうして?神の祭りは預言的祭りであり、メシア、福音を

網羅する祭りだからです。その通りに、過越の時にイエシュアは

処刑され、初穂を祝う日にイエシュアは復活されたでしょう。

彼らのタナックに記された、祭り、記念日、聖別された日の理解は正しかったのです。

そして、ここからがクリスチャンが多大に誤解している事なのです。贖われて救われた人達、その後神にどの様に生きよ、何を

基準に生きよと言われているのか、分からないまま多大に誤解しているのです。

 

アヴラハムの契約=信仰により義とされた人は、救われた時点、その状態、そこで終わりではないのです。ここから地上の旅路、

約束の地に行くまで、顔と顔を神と合わせて合見える日まで、

地上の仮庵=地上にありながら、イエシュアの中に住まう天の現実の中に生きる訓練の旅路が始まるのです。

 

神に贖われた人達は、イスラエルも、異邦人も皆同じです。1つの家族としてイスラエルの神の大家族に加えられたのです。

聖書にはそう書いてあるのです。2つの家族など存在しない。

ユダヤ人は地上、異邦人、又はイエシュアを信じたユダヤ人は

天を治める。こんな空想ファンタジーは聖書には書いてありません。異邦人クリスチャンと言う、教会と言う名前のグループが昇天以降出現した。それも聖書の語る真実ではありません。

では混血の人はどうなるの?聖書には最初から1つの家族しか

記されていないのです。

前回の記事に書いた様に、エレミヤ31:31はクリスチャンが

想像している様な、モーセの五書とは異なる別の契約だとか、

異邦人がそれを受け取る代表なんてそんなこと書いてないのです。その契約は、ユダとイスラエルの家に与える!と書いてあるでしょう?異邦人への契約ではない。じゃ異邦人はどうなるの???それはちゃんと最初から教えられています。異邦人でも神の言葉を聞いて信仰により義とされた人は同じイスラエルの家族として加えられる!!!!

その事実からずれた聖書解説をするから、そして神の契約に別の契約が出現したなどと考えているから、聖書の事実からずれた

解説を生み出し続けるのです。

 

贖われた人達は神に娶られたと言うヘブライ語で神が人に伝えています。

出エジプト6:6それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、

『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。

7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは

知るであろう。

 

この出エジプトの内容は、全部イエシュアの贖いの血、子羊の血の意味、実態を教えているのです。最初から。

子羊の血で贖い出された人達が、奴隷=出エジプトから脱出したのです。そして、エジプトから出た後、7週後に何が与えられましたか?婚姻契約書です。クリスチャンがペンテコステ、聖霊降臨祭と呼んでんでいる祭は実は、レビ記23章にある、聖別された呼び出し日=ミクラコデシュ、神の都上りの祭りの1つであり、婚姻契約書を受け取ったことを記念して祝う祭りなのです。

 

神の記念日=福音を網羅する祭りや記念日をは教えられない、

祝わない人には、何のことだか書いてあってもピンと来ませんが、聖書に照らし合わせて考えたらこれらの祭は全てイエシュアの業を表して教えているものです。

 

子羊の血で贖い出された人は、神の前に呼び出されて、邪魔者がいない荒野で、神の声を聞く訓練の旅路に召されたのです。私たち異邦人も同様に同じです。このイスラエルの出エジプトした

人の中には少数の異邦人が居たのです。彼らも同様にイスラエルの12部族として数えられていた。同じイスラエルの神の家族とされていた事がちゃんと最初から書かれています。

 

神の大家族の一員とされた人は、婚姻関係にある契約の命=愛の姿を生きる事!と神が教えています。これをクリスチャンの教え

では多大に誤解した非聖書的解説をしてしまっているのです。

律法は廃れた〜〜〜〜と言うでしょう?それらはこう言う事を

言っているのです。神との婚姻契約は廃れた〜それを破って

生きるのだ〜!完全に変な教えです。神の教えに反している教え。

だから、それらの思想、2世紀以降に人間が作った思想を土台として、プロテスタントも、カトリックと同じ信仰の信条を土台としています。聖書に記された、これらの人達、1世紀のイエシュアや使徒、パウロや、イエシュア信者やユダヤ人とは全く異なる教えや、実践、記念日を祝っているのはその為です。

 

神の婚姻契約に記された事を生きるのは強制ではありません。

神の教える通りを生きる事への拒否権を人は与えられているのです。でも神の教えを生きることを拒否することは安全ではない、危ない、危険なのです。

神は人に何と言われましたか?この婚姻契約が再更新され、約束の地に入る前に、言われました。

あなたの前に命と死を置く。あなたは命を選びなさい。

命を選ぶ=神が婚姻契約の中で伝えている生き方を選べ!それが

命!これが道だこれに歩め!とは、神の教え=イエシュアが教えた父の教え=トラー=モーセの五書に書かれた生き方をイエシュアが示した様に生きよ!と言う意味なのです。

 

 

 

続く