真実に目を向ける事をする人 しない人 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1週間それぞれの場所で色々な事があり、シャバットを迎えました。シャバットを歓迎しますと言うことは神が設けられた特別の日の会見を歓迎して迎え、神と仲間と共に神が言われた通りに

その日を取り扱い過ごすと言うことなのです。

 

シャバットを歓迎する、迎える、神は常に私達と共に居られる

お方ですが、神ご自身が、神が定めた特別の時に特別な出会いをしようと言われたのですから、その言葉を聞いてそうすると言う事をしてみる事を始めるのです。神の言葉が永遠に真実であると神が言う通りに信じるならばそう行動するのが当然なのです。

 

神がそう言われたから!それ以外、それ以上にパワフルな現実

招きはあるのでしょうか?

人が作って言った記念日や教えではない。創造主である神が神の口から神の創造された記念日がどれほど神に取りそして人に取り重要であるのか聖書の最初から至る所に強調して私達のために記して伝えています。神が自ら人を呼び出してこの日に特別に出会おうと言われているのに、その日は永遠に祝われると伝えられているのに、異邦人の世界では1世紀後半以降ローマの圧力影響により神の言葉を捨てる方向へ走ってしまったのです。

 

日本人なら皆知っている”どれにしよう〜かな?神さまの言うとおり!”と言うフレーズ。どんな神なのか漠然としていますが、

神が言うならそれが一番!て言う意識はその通りです。

神がそう言われるならばそうしよう!でも異邦人の宗教の教えは神の教えを別の教えで薄めて、神の言葉教えに細心の注意を払う事から気をそらせる事をずっとしてきてしまったのです。

 

神の記念日を蔑ろにする行為の代償の重さは、死に匹敵すると書かれている程、それはそれほど人に取り重要だ!と神が伝えているからそうなのです。

肉の目、耳、頭脳には、”そんな事〜ど〜でも良い”と考えるのですが、神の思索は人の思索とは全く違う事が神の言葉の中に記されているのです。意味が分からなければ何も感じ取れませんが、意味が分かれば神が言われることがアーメン!であると神の意識

思索とぴったり1つになる事が出来ます。聖書に記された祈りとは神の考えの中に入りずれた自分の考えを軌道修正する事なのです。

創造の最初に戻る。エデンの中に植えられ置かれて生きる様に

人が神に造られた事を神と共に皆で思い出し祝う日、エデンから

飛び出した人達が自分が誰か、誰に創造されどの様に生きるのか

その源に皆で戻り祝う日なのです。

 

創造主が設けられた記念日には理由が意味があります。神が創造された!と言う事実が抜けていませんか?

 それら全てはイエシュア、福音の根幹を網羅する事が搭載されて

実際に生きて神と出会う体験を通して色々学び続ける、一年の

サイクル、人の生きる本質、神がデザインされた人生の旅路の

サイクルでもあるのです。

 

最初から、創造の前から、この世界の礎が出来るずっと前から、永遠の中から創造主である神は、神に造られて地の面に現れ出た人達がどの様な歴史の道筋を辿るのかご存知ではなかったと考えていますか?そんな訳ないのです。

最初からエデンの中、地の表に置かれた人達が転けることも、

全部全部を知ってこの世界を造られた。

後から付け足しする教えや救済策など何も無い。最初から全部が

揃って神は人をエデンの中、地の面に生きる様に迎えられた!

親が子供を迎えるのと同じ、全部準備万端!

全部の対策、救済措置、助け、恵、祝福、イエシュアが最初から永遠から居られたからです。

だから、はっきり聖書の最初に書いてあります。6日の間で全ての創造の業を終えた!だから第七日目に止まった。

うっかりこれを忘れてた〜、後から付け足して考えてこう言う

対処をしよう!こう言う新しい教えを教えよう!なんて言う事を

神がしたのだと考えているならば、それはイスラエルの神ではなく人間が作った異教の神々像、空想の神なのです。

 

だから創造主であるイスラエルの神が神の言葉や約束を途中で翻して変化させると言う思想は聖書に根拠も何も無い異教思想なのです。

聖書を読みながら勝手にシャバットは昇天以降第1日目になったなどと本気で人の教えが真実であると考えているならば、いや

シャバットが日曜日になったと言う教え実践が、2世紀の異教徒上がりの異邦人が考えたものであると言うことさえ知らないのだと思います。それは人間が作った宗教の教えの伝統に過ぎないのです。

神の教えとは全く違うのです!!!たとえそれが異邦人により

1900年以上実践され教えられ続けていようとも神の教えとは

異なるものなのです。

その場合には正しく聖書を読まず、人の思想に照らし合わせて神の言葉の方を曲げて神の言葉を否定し人の教えを高く掲げて誤解して神の言葉を読み、そしてそうする様に他の人にも伝え続けている!と言うことに気がついていないだけなのです。

 

もし神が永遠に祝われるべき私の記念日と言いながら昇天以降に

神の言葉を変えたらそれだけで神は信頼に値しない方になると言うことに気が付いていますか?

異邦人の世界の慣わし宗教と、聖書に記されている古代ヘブライ

イエシュアはユダ族であり、父の言葉=トラーを生きて教えた!

と言う根本的な事実が西洋人の宗教の教えの中から抜けているだけなのです。

 

神は人々へ本物の生き方に戻る事!神が意図した通りに生き方に戻る!と言う事を今しているのです。その生き方の全貌はどこに

書かれていると思いますか?聖書です。

 

神が人に伝えた生き方の詳細が全部書かれているものが

モーセの五書なのです。その他の聖書はモーセの五書を解説している役目の書である!と言う事実に気が付かないと見えないのです。福音書以降など特にそうです。そこに書かれているのは、

タナック=モーセの五書、預言書、諸書のほんのほんの短い

注解書であり、人の生き方の全貌の詳細は再び繰り返して記されていません!最初に全部書いてあるからです。

そして福音書以降には新しい別の神の教えなど1つも記されていない!と言う事実が見えないならば、それは聖書の最初の75%に何が書かれているのかを単純に知らないから!それが本当の

理由なのです。

 

イエシュアは何と言われましたか?父の教え=トラー=モーセの五書について語っています。イエシュアの教えは100%モーセの五書のみであり、モーセの五書に記された教えを、人の勝手な思想が混じった教えではなく、天直送の解説で人々に諭されているのです。

 

マタイ5:17 わたしがトラー=モーセの五書や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない

 

<ここにはっきりとトラーや預言書=これはタナック全体を指して話しているのですが、これを廃止するために来たのでは無いと

言っているではありませんか?でもクリスチャンの世界の教えは

イエシュアはトラー、預言書を廃止するために来た!などと

聖書とは全く関係ない読み込みをしているのです。>

廃するためではなく、成就するためにきたのである。

<この言葉は、当時のラビ的慣用句です。

廃する=トラーを間違った解釈をしている。

成就=正しい解釈をしそれを伝えて生きる!

トラーを正しく解説し生きる事をするために来た!とイエシュアが言っているのに、聖書をすらっと読んで人の教えに塗り替えて

いた時には、イエシュアが言われた本当の意味など私の目には見えてても、耳には頭脳にはイエシュアが語られた意図など全く

正しく理解など出来ていませんでした。人の教えに染まる損害を

今はよくよく理解しています。>

 

5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

5:19 それだから、これら=トラーの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これ=トラーをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

 

トラーを廃れた無用だ神の古い言葉は意味ない!と教える人達が

神の前にどんなものとして映るのか書いてあります!

天の国で一番無意味、価値ない存在である!神のトラー=教えを

行いそう教える人は神の国で重い価値がある人と神の前に呼ばれる!と書かれているのです。この意味は重たい深いものです。

神の言葉を否定し蔑ろにしそれらは無関係!と言う教えは人から出たもので神から出たものではない事を聖書から気づけない人の

代償、刈り取る結末は重たいものです。知りませんでしたなどとどうしているのでしょう?文字で書かれたトラー、聖書が与えられているのに、人の教えに聴き入ってしまい、正しい理解判断が

妨げられているのです。

 

この世界の全て、時が存在する前から〜永遠の中から

私達が神の中に存在していた事、ヘブライ語を辿れば理解出来る

様にその事実が記されているのです。

 

ミケダム〜時が始まる前の最初から〜詰まり始まりの前から、

永遠の中に私達は神の中に植えられている事実が記されているのです。ケダムと言う言葉は時を表す言葉です。時と共にに場所を

表すものでもありますが、その両方の性質があるのです。

だからエデンの園の東と言う言葉は、方角、日の出る東と言う

意味の東=”ミズラフ”ではなく、ケダムと言う言葉が使われて

いるのです。永遠に思いを馳せる様に促されているのです。

何も無い何も創造されていないその時に存在していたお方は

誰ですか?神だけしかいません。その神の中に人が創造されて

植えられた事をヘブライ聖書で創世記のはじめを読んで行くと

はっきり読み取れるものです。翻訳ではそれが見えないのです。

 

神が創造されたものは全て神の見えない性質を地上で表す影、

シャドーコピーであり美しいものです。

神と共にエデンの中で住まう様に造られた人の本来の性質を神が

共に祝う様に、神が止まられたから、人も第七日目に止まると

言ったのは神であり人が言ったのではありません。

 

シャバットと言う週一度の記念日を創造されたのは人ではなく

神であり、シャバットの主、中心は人の子とイエシュアが言われた通り、これは神の記念日なのです。

 

異邦人が神の契約を受け取った代表者に変わったと言う教理がありますが、それらを主張する人達の中で契約の中に加わった人の

独特な特徴的な神の記念日や教えを生きている人はいないのです。

 

神の約束、契約は異邦人が解説する様に内容や受け取り代表者が変わるものではないのです。異邦人も同じ契約=シナイ山で与えられた神の大家族に生き方に参加する特権を与えられたのです。

 

この契約は、救いを得るためとか義を得るためのものではないと言う基本的なことを理解していないと何のために神の契約が

与えられているのかと言う基本的な事が分からないままになり、神の教えを全く誤解して聖書を読み続けてしまうものなのです。

 

問題は全て、異邦人の世界では神の言葉を学ぶと言うことが大きく抜けていることなのです。

アヴラハムの契約無しに、シナイ山での契約は繋がらないし

理解も出来ません。

 

 

 

Shabbat Shalom