今週金曜日の日没から秋の祭りの一連の記念日が始まります。
秋の祭りは神の暦の第七の月1日から始まります。
この日は”目覚ましコール”神の声になぞられるショファー角笛の音、神の創造された祭りを神の呼び出しの声を知る人はさいわいとあります。ショファーを吹く日、ヨム テルア です。ユダヤ人の世界ではこの日を新しい年の始まりを意味するロシュハ シャナと呼びます。新しい農業のサイクルの始まりの時でもあり、
新しく1年の神の記念日のサイクルが始まる時でもあります。
そして新しい時代が始まるのも秋の祭りの時だからです。
この日は2023年は9月15日金曜日の日没から始まります。ショファーを吹いて神の国が近づいた!悔い改めとイエシュアを迎える準備の目覚ましコール、ショファーを吹くのです。
讃美歌にも”終わりのラッパが鳴ってその時我が名も呼ばれる”
と歌うでしょう。この秋の祭りの一連が何を意味しているのか
聖書に基づき考えたら再臨、最後の審判、そして神の統治、
イエシュアの中に皆が住まう新しい時代を迎える事であることがぴったりマッチして理解出来ると思います。
バプテスマのヨハネがこのヨム テルアを迎える今の時期に
ヨルダン川で多くの人達に祭の日を迎える準備、悔い改めを促す
事をして洗礼を行なっていた記録が福音書にあります。
マタイ3章
悔い改め〜戻る=神の教え=トラー=モーセの五書に記された
生き方に照らし合わせてズレている事を軌道修正する、それが
聖書で記されている悔い改めと言う翻訳の意味であり、その言葉は”戻る”と言うヘブライ語です。戻る=神の教え、インストラクションに記された生き方に戻る軌道修正の事を話しているのです。漠然と悔い改めと言うと何か良く見えませんが、神の伝える
人間の性質の生き方=トラーに記された生き方に照らし合わせて
どの様にズレていたのか神の目から見て認識する事、そして本来の生き方をする決意をして生きる事それが聖書に記された本当の悔い改めの意味です。自分の感覚、悟りや宗教の教え=人が作った教えに照らし合わせても本当の悔い改めは神の前には意味が無いものになってしまいます。
そして聖書に記されている洗礼=バプテイゾー(ギリシャ語)と
あります。イエシュアのいとこのヨハナンが1世紀に編み出しものではなく、モーセの時代もそれは存在していました。
バプテゾー=ヘブライ語ではテヴィラ、立場の変化を水に完全に浸る事で前の状態に死に新しくされた事を意味する儀式です。
聖書に記されているのは、自然の水、川や池などの水の中に
完全に浸る事をしていました。
信じたからすると言うだけではなく、水に浸る事は人生の中で何度も行われるものなのです。
ヨハネが秋のヨムテルアの日に向かう時期で悔い改めを促し人々がヨルダン川に入った事でも分かります。また神殿に入る時などもミクバ=水の池をくぐります。結婚する時、出産後、神殿に入る時にタメー=汚れた状態とありますが、出産や病気その他の状態が癒された後にも水を潜る、立場が変わる時、職業が変わる時様々な時にミクバに入ります。
だからイエシュアがヨルダン川に入って洗礼を受けたのは
イエシュアが罪人で神を信じて悔い改めたからではないのは分かると思います。クリスチャンの世界だと、人はイエシュアを信じたから洗礼を受けるとだけ繋げますが、それだけで考えるとイエシュアがヨルダン川で水に完全に潜り浸った事が意味不明になります。
イエシュアが公的に皆に分かる様に新しい働きに入るその変化の
時でもあったからです。
皆が神の祭の前にその様にヨルダン川に入った、その様にイエシュアも公にイエシュア自身がトラーを生きている証しでもある事を人々の前に証明した事が考えられます。
神の教えを重視するからヨルダン川に入り神の教えを生きる軌道修正を皆が神の記念日、祭りの準備の中で考え行動する。
これは秋の祭りの性質を考えれば分かります。第七の月の10日は大贖罪日であり、これは個人ではなく国全体が神の前に悔い改め、何がずれていたのかを振り返る日を迎えるからです。
そして神殿を巡り、福音の中核を教えている一連の儀式があるのです。
そして一年の最後を締めくくる祭りは秋の祭りです。過越の祭りは春で一年の中の一番最初の都上りの祭りであり、聖書の暦の第一の月、過越の祭から始まるからです。
そして秋の祭りが終わると又一年のサイクルが始まりますが、春の祭りまでシャバット、新月以外神の呼び出し日=定めの日=祭りが無い冬を挟む長い間を迎えます。
よくよく歴史の事実、神の福音を照らし合わせて考えると聖書に記された歴史の中の出来事と、救い、贖い、イエシュアの業はぴったりマッチしているのがはっきりと見えます。
最初にこの世の終わりや再臨なんてありませんでした。
最初は始まり。最初は元々神の中、エデン=神と共に顔と顔を
合わせて安息の中だけに生きる世界が始まりでした。
でもそこの場所から飛び出して、神との隔たりの中に閉じ込められてしまったのです。閉じ込められた場所までイエシュアが来られて助け出して下さったのです。
神の創造も初日に止まらない。週の最後の第七日目に止まる。
これも最後に再臨、最後に皆が元の場所永遠の安息に入る事を意味しています。
エデンから飛び出した人が神に贖われている事実を受け取る。
永遠の中から贖いの業、それが存在する事実をイスラエルの歴史で実際に起きた事を通して教えています。
そして神も定められた特別な記念日の過越の時に実際に地上に神であり人として生まれて来られたイエシュアが実際に処刑され昇天されたのです。タナックを理解していたユダヤ人は毎年神の祭=都上りの祭の時に救い主が現れるのを待望して待っていたのです。過越の時に子羊の血で覆われた人達には死が通り過ぎた。そして新しい命を受け取った人達は、復活の命の事実で生きる事に招かれたのです。
婚姻契約をシナイ山で受け取ったのは奴隷であったエジプトに居た時ではなく、贖い出された後受けたのです。
子羊の血で新しくされた人は、神の実態=言葉=イエシュアご自身の性質が記された本来の人間の姿=婚姻契約に生きる、神の家族とされ、神の最高の宝とされた人達は神が伝える通りの実態=贖い出されてイエシュアの復活の命を授かった人は、聖霊が内側にすむので神の似姿の性質を生きる事が出来る様になっているからです。
アダムもノアもアヴラハムもイサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ
預言者達、皆”イエシュア”を内側から知り、贖い救いの実態を
体験を通して神から教えられて聖霊が内側に住まわれ、神と直接語り合う親しい関係に生きていた事が聖書には記されています。
イエシュアがなぜこの様な事を言ったのでしょう?
”ヨハネ8:56 あなたがたの父アヴラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。”
アヴラハムがイエシュアの業を理解していた証拠がイエシュアの口からも語られています。
アヴラハムは、イエシュアを知っていた。イエシュアの贖いの業
救いの業を知っていた。聖霊を内側に受けていた。
アヴラハムは神が語る言葉、トラー=教えでイエシュアの贖いの実態を神から教えられ、同じ救い、同じ福音を受けて聖霊を内側に持ち新しくされていたからです。
そして新しくされた人は、神の性質通りに造られたエッセンスを
生きる事をアヴラハムは神から口頭で教えられていたのです。
父の同じ教え=トラー=神の教え、インストラクションを知っていた。
創世記26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしの
さとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。
アヴラハムも神から直接語られたトラーで、同じ福音=イエシュアの贖いの業、子羊の血で新しくされる事実を知っていたのです。
聖書のどの箇所にも、”神、わたしの言葉、教え、いましめ、
定め、おきて、さとし、知恵etc etc と書かれていればそれは全て同じトラー=神の教え=モーセの五書に記された神の教えの様々な側面を語っている言葉で福音書〜黙示録の中でもその言葉の意味は変わらないのです。
モーセも直接イエシュアと顔と顔を合わせて対面し語りなおも
生きている!と書いてあります。
シナイ山の山頂〜天が直接降りてきたその場所で婚姻契約の契りを結んだ祝いの宴会を70人の長老とイエシュアで祝っている事
が書かれているのです。イエシュアと語り飲み食いする宴会に
招かれた。
イエシュアの贖い救いの業の事実は永遠の中に完結しており、
どの時代も皆同じ救い贖い許し新しくされる事実を得ている!
それがアヴラハムの契約、肉に付ける割礼の印でも、神が与えた契約=信仰により義とされる事実は神が代々に渡り子孫に対しても証明し保証している事を表されているものなのです。仮の救い、仮の義、仮の教えなどと言うものは聖書には最初からその様なものは1つも記されていない!と言う事実をまずはっきりと
神の言葉から読み取り理解しなくてはならないのです。
その様な事実を読み取ればイエシュアは永遠の中から存在し
”時”に”空間”に妨げられずに人々に現れ出て同じ福音をどの時代の人達にも語っているのです。
しかも紅海が目の前でいきなり割れてイスラエルだけ安全に進み行き、イスラエルの民を殺そうとしたエジプト軍は全て海の水に飲み込まれてしまったのです。
前代未聞の大いなる奇跡を神がされた事を見てイスラエルの人々と少数の異邦人は直接神が生きて働かれる現実を体験したのです。
神=イエシュア=聖霊、どの名で呼んでも実態は同じです。
イスラエルの神は神が伝える通り1つ=エハッド=1つ以上で全く1つの神であると紹介している通りだからです。申命記6:4
多くのユダヤ人は聖書=タナック=モーセの五書、預言書、諸書を読みながらなぜイエシュアがメシアであることが分からないのだろう?と考えると思いますが、イエシュア=メシアであるその事実に盲目なだけなのです。
彼らの中にも色々な教えが存在して、メシアとは時代ごとに与えられる預言者の様な存在であると考えている人達も居ます。
だから神殿崩壊後のローマ帝国に対する反乱、第二ユダヤ戦争=バルコクバの乱の時にラビ アキバが救い主だなどと言ったので、イエシュアが救い主だと信じる多くのユダヤ人はその人物はタナックに記された救い主であるわけがないので、その戦争に参戦しなかったのです。
その当時、イエシュアを信じるユダヤ人達は、異邦人信者からは
圧力をかけられ、一方同胞のユダヤ人からは戦争にも参戦しない
人達であると白い目で見られ、いつの時もユダヤ人イエシュア信者はユダヤ人、異邦人の両者から反感を買っていたのです。
イザヤ書から”苦しみを受けるしもべ”と書いてあるのをイエシュアではなく、それはイスラエルだなどと解説するのです。
特にメシアに関して書かれている箇所を意図的に読まない、読ませない様にする、意図的に違う解説をラビ達がしています。
でもその様な中でも、神=聖霊は神の言葉から個人個人にはっきりと、イエシュアが直接教えると言う事が起きているのです。
パウロにも同じ事が起きたでしょう。復活のイエシュアがパウロに直接現れて”あなたが迫害しているイエシュア”である事を直接
話されたのと同じ事が多くのユダヤ人にも起きている。
もし神に事実を見せられ迫られたら絶対に否定出来ないと言う所まで追い詰められてしまう。イエシュアに出会ってしまった〜と言う覚醒が起こされる。同様にどうして異邦人は神の言葉=モーセの五書=トラー=イエシュア昨日も今日も永遠に変化ない、
永遠に破棄されることの無い同じ言葉であると神の言葉で語られ聖書に記されているのにその事実に気が付けないの?
それはユダヤ人と同様に神の性質のある部分を見落としているからです。誰かが代々伝統で語る非聖書的な教えを両者が聴き続けて事実では無い事を信じているからです。だから神の言葉通りの軌道修正がどちらも必要なのです。
続く