神の創造された記念日は全部繋がっていて1つになり意味があります。イエシュアの業、福音、そして全て地上で成就する預言的
祭りでもあります。
それらを毎年神の暦、命のサイクルを生きる事を繰り返し、生きて祝い、神を深く知って行き、本物の自己像を神の教えから正しく学び生きて、新しくされた人として神の時、記念日から記念日へ生きる中の命のサイクルの中で新しい人として生きる中で、古い自分=イエシュアと共に死んで葬られた影響の残骸を脱皮して新しい人としての実態を再学習、再所有して行く事が聖書には記されています。
それが成長〜成人〜御霊の実がなると言う言葉で表され、新しくされた人が生きる細かい詳細は、タナックに記されているのです。
神の記念日は暦として簡単に全部分かる様にまとめて書かれているのはレビ記23章であり、神の創造された日が聖別された聖日であるのです。聖書に”主の日”とあったらそれは日曜日の事と
クリスチャンは解説しますが、聖書にはその様な事は記されていません。聖書にある”主の日”とは神の定めの日、レビ記23章の事、又は神が特別な事をされる日の事を指して使っているのであり、日曜日は永遠に神が聖別した主の日ではありません。
例えばある年は、神の祭りがちょうど土曜日の日没から始まり
日曜日の日没で終わると言う事もあります。でも神の祭りは
週一度のシャバット以外曜日には全く関係ないものなのです。
新月も満月も曜日に関係なく決まった暦のサイクルの中の時に出てくるでしょう。それと同じです。
ローマ教が決めた彼らの思想で定義した”主日”=日曜日であるだけであり、それは神が伝える聖別された日、主日ではない。
しかも聖書に登場する人、聖書記者、預言者誰一人として日曜日=神が聖別された日などと言う認識など無いのです。その様な記述はどこにもされていませんし、神は神が創造された記念日=
定めの日を昇天以降も変更などしていませんし、これからも
変更などしない事が書かれています。
聖書の記述からはっきりその事実を確認し正しい認識に戻す必要があるのです。神が言われてない事を人が勝手に改ざんし伝える事は神の言葉に対する偽証であり、神はそれをする事を人に禁じているからです。人が言った事ではない事でも、あの人が言った
なんて言ってもない事を言ったらそれは偽証罪であり、大変無礼非礼な事でしょう。だから聖書に無い教えを勝手に神が言ったなどと言い続けるのは偽証であることを、気がついた人からやめなければ、正しいイスラエルの神像、正しい福音、正しいイエシュア像を世界に伝えないまま、人の思想で歪めて曲げた偽物のイエシュアを伝えてしまう事を知らない間に続けてしまうのです。
それをしているから多くのユダヤ人は偽物の教えで薄められた
イエシュア像を拒否しているのです。彼らにはそれらが偶像、
宗教の教えとしか見えないからです。トラーに反することを主張し教える救い主?なんてあり得ないからです。
人の教えと神の教えを聖書からまず最初に区別する作業をしなくてはならないのです。
それらは祭の意味の説明と共にトラーの他の箇所、出エジプト、民数記、申命記にも記されています。神の記念日の中心、シャバットは創世記の最初から記されていて、神が週の7日間の日唯一聖別しているは第七日目のシャバットだけであり、神が創造の業を完成し止まった!とその祝日の意味、完全なる神の創造を神が喜び祝った事が書かれています。
何も欠けるものがない。イエシュアの完了の業も既に永遠の中に
完結され存在している!それが地上で人が生きるに必要な全てとして準備され現れ出たのです。神が創造された全ての中から人は生きる事、それをする事、神が与えた人間の生き方=安息の中
神の中に生きる本質を教えられている記念日でもあります。
神が人に伝えている神が神の子らを呼び出している特別に聖別された記念日が存在し、それは歴史の途中で変わらない性質であることを神が直接人に伝えています。
未来永劫永遠に祝われるものであることが記されています。
異邦人が神の記念日を彼らの宗教思想神学教理でどの様に語ろうとも、創造主である神が神が造られた記念日は何であり、どんな性質でどんな意味があり、いつどの様に祝うと神ご自身が聖別した呼び出し日=アポイントメントの日と解説しています。人が語る非聖書的な勝手な主張より、神の言葉の方が正しいに決まっているのです。誰の教えを信じるのか?なのです。
人?それともイスラエルの神?
神は意味がありこれらの記念日を最初から人のために創造し神の記念日は命に匹敵するほど重要であり大事だから、人がこれらを
汚したり蔑ろにする場合の代償もはっきりと人に伝えそれが聖書には記されています。
神の教えを捨てるとは大変愚かな行為であり神が言われる事が理解出来なくなる事を招き、自分が誰か分からなくなるので、自分を損なうものである事は明らかです。
実態を映し出す鏡を壊したら歪んだ画像の自分の姿しか浮かび上がりません。神の言葉は本来の自分を映し出す鏡なのです。その鏡を割って壊す、捨てるなら神が伝える自分の生き方など不明になります。神の言葉は人が生きる本来の姿を映し出す鏡なのです。
神に呼び出され特別な会見祝宴をし神と神の大家族と”一緒に喜び楽しもう!と神から直接言われているのに、その神に対して神の招きを拒絶して”そんな古い律法の教えの祭りなど拒絶、結構です”などと、神が伝えている意味を理解する場合には言わないはずです。呼び出している相手が誰であるのか、その会見の意味が何かはっきり人が理解していればそれを無視すると言う事が何を意味するか分かるからです。神が伝える事を聞いてその意味を知らないなら、そんなのどうでもよ〜いて事になるのでしょう。
価値が意味が分からないないからポイ捨てしている。
人間の間柄でも親しい家族、仲間で祝う特別な日をすっぽかすと言う事はどう言うことになりますか?関係にヒビが入り、隔たりができます。関係を重視してないと言う証明であるからです。
なんで特別な祝い集まりに来ないの?
旦那さんが妻の大事な記念日、誕生日や結婚記念日の祝いをすっぽかして、一方で仲間との飲み会には死守し必ず行くならそれは
妻に対してどう言う行為?妻を大事にしていない、ないがしろにしているのでしょう。
神の記念日の重要性が理解出来れば自ずから神の招きの日に対するう取るべき態度、意識、行動は変わるのです。大事なものを神が言う通りに大事に取り扱う事をする。
これから秋の祭りがやって来ますが、これらは未来に起きる預言的祭りでもあります。イエシュアの再臨、イエシュアが王として世界を統治する新しい時代を迎える準備のリハーサルでもあります。
春の祭りは既に地上で成就したイエシュアの業です。これらは
イスラエルと言う国民と少数の異邦人が体験した歴史的事実を
通しても、子羊の贖いの血、神が設定した奴隷からの救出など様々な出来事を通してイエシュアの福音の業を教えている歴史の中で起きた重要な出来事でもあるのです。
一人一人イエシュアに贖い出された人全てに共通する出来事、
道のりがイスラエルの辿った歴史を通してトラーに記されている事に気が付けます。
神の似姿に創造されたのに、神と共に住まう場所エデン=喜び=神の中から外に飛び出てしまい、全ての人は神と隔たりのある場所に閉じ込められて迷い出てしまったのです。迷い出る。
元の場所、神の中、元の自分に自分の力では戻る事が出来なくなってしまったのです。
神がその隔たりの閉じ込められた場所まで来てくださり贖い出し救い出して下さったのは、全てのイエシュア信者に共通する出来事です。
イスラエルの歴史を通しても教えられています。神の子らであったのに、カナンの地からヨセフを通して飢饉を逃れてエジプトへ70人のヨセフの大家族が移住します。エジプトで重要なポストに就いていたヨセフが亡くなった後、次世代のエジプトのパロはヨセフを知る事なくイスラエルに苦役を課す様になり彼らは奴隷の様に働かされます。
エジプトでレンガを積み上げる仕事はこの世の虚しい人生目標、神に仕える生き方が出来ない、偽の主人、偽の教え、偽の自己像で空虚な人生目標を生きて失われた状態になった現実を表しています。カナンの地を出て430年の間エジプトに滞在してしまったからです。
本当はイスラエルはエジプトをもっと前に出て本来の場所に戻らなければならなかったからなのです。本来居るべき場所ではない所に長居し過ぎたのです。
そして、神の時が満ちてエジプトからイスラエルを神が脱出させるのです。イエシュアにより贖い出された全ての人も時満ちて
神より奴隷状態から脱出させられ元の場所=神の中、本来の自分を取り戻され父の元に引き寄せらたのです。
10の災いは数日間に起きた出来事ではなく10ヶ月以上の長い間の出来事でした。10の災いを見てみると最初は水が血に変わり飲めなくなる。カエル、シラミ、ハエの襲撃。そして次に経済を支える家畜などさらに命を脅かす疫病や、腫れ物、雹、イナゴの大群、そして深い暗闇、最後は命〜初子の死。
家畜の災いから以降、命を支えるもの命そのものに迫った災いになりました。
それら10の災いの裏にあるのはエジプトの神々であり、イスラエルの神のエジプトの神々への裁きです。
暗闇は、エジプトの太陽神=サタンへの裁きであり、最後はファラオに対する裁きです。だからエジプトの中には掴めるほどの暗闇であるのに、イスラエルの住まう場所だけには光があったとあります。
光〜イエシュア、創造の最初にあった光、これは目で見える光もそうですが、霊的な光、エジプトの霊的闇=サタンに仕える闇を
表しています。
この世界にはイスラエルの神とそうではないもの、聖霊か悪霊かのどちらかしか存在しません。中途半端な半分良い、半分悪のグレーゾーンの霊なんてないのです。聖霊か、他は悪霊かどちらかです。だから別物の教えに混じってはならない、偶像礼拝、高き所の礼拝をして悪霊と交わってはならないと神が人に伝えているのです。聖霊ではないものの出所は別物=悪霊だからです。
宗教の教えはイスラエルの神に属する聖霊ではないからです。
それは聖霊=イスラエルの神ではないから!だからその警告は厳重なのです。イスラエルの神が出どころではないものは、聖霊が語る教え=イスラエルの神の言葉、教えではないからです。
ファラオがこの世の神々より上であると豪語して生きていたから、最後はファラオに対する初子の死の裁きなのです。
ファラオの初子、エジプトの初子が打たれたと言う意味は、悪霊に繋がる死を絶つ事、神の命を継承する生き方をしないラインを
絶つと言う裁きであり、イエシュア=初子によりそれがなされた
のです。イスラエルの神に繋がるイエシュアに連なる人達が命を継承する。だから子羊の血で家の鴨居を塗りなさいと言う神の
言葉を聞いて実行した人達の家は、異邦人を含め全ての初子が
守られて死が通り過ぎたのです。
全部福音の要素エッセンス中核を表しています。子羊の血、子羊イエシュアとは、この過越の子羊の血で教えられているのです。
神の声を聞いてその通りにする人達は命が安全に守られる。
エジプト脱出も、子羊の血で偽の主人=エジプトの王、エジプトの異教の神々から買い戻され切り離され本物の主人=イスラエルの神に贖い出され引き寄せられた事が書かれています。
神が直接神の口からその事実を語られました。
出エジプト19:3 さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、「このように、ヤコブの家に言い、
イスラエルの人々に告げなさい、
19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、
あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。19:5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。
19:6 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。
神ご自身が人々を贖い出されました。紅海に直面した時もう逃げ場が無い所に立って行き詰まった時、モーセが語った言葉があります。何と言いましたか?
出エジプト14:13 モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救=イエシュアを見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。
14:14 主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。
続く