世界へ叫び告げ知らせる日 聖なる集会 ミクラ コデシュ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の創造された聖別され、神ご自身が神の子ら皆を呼び出して祝い特別なアポイントメントの日が全部神の口から直接語られた言葉で記されています。レビ記23章。

1世紀後半、ローマ帝国の迫害の勅令により神の教え=トラー特にユダヤ的な色が濃いもの、特別な記念日を祝う事を禁じられ

オリジナルの神の教えや生き方、記念日を祝うと重税=70万円相当の金で支払う事を課せられ、払えなければ家族の誰かが投獄され重税を支払うまで飲み食いできない事実上の死刑で処刑されたので、異邦人は、元々神の教えになど根付いてない、そこまで神の教えをガードする熱意ガッツ決意がないので、パウロの様なユダヤ人教師達と完全決裂して、ユダヤ人との関係も絶ち、異邦人だけで集まり考える独自の路線=西洋宗教の教えを編み出し作りそれに生きる実践にそれて行ってしまいました。

 

異邦人クリスチャンが今聖書に記された神の記念日を祝わない

祝わないまま1900年来た本当の理由を一般には全く教えられていないと思います。神の言葉が廃れた!終了した!と言う異邦人=西洋教父達の教えについて行ったからです。それが本当の理由です。神が古い教えや古い記念日を終了したから、祝うのをやめよと神が人に伝えたからではない事をまず聖書の記述を根拠に知って考えて行けば良いのです。偽情報からではなく、事実真実からだけ考える訓練が必要なのです。

 

神の家族に伝える神が呼び出している記念日は異邦人が解説するに反して永遠に神は終了などしていません。異邦人が神が伝える聖別した呼び出し日を祝う実践をしないだけであり、世界の中ではユダヤ人と神の教えを愛して生きる異邦人達、イザヤ56章に記された宦官の様に神の記念日を生きて実践している、して来た人達がいるのです。

神の家族、神の国の実態は、異邦人は西洋人が作った新しい記念日を祝い、ユダヤ人が神の創造された聖別された記念日を祝うのではないのです。

聖書に記された神が人に伝える事実と、人が作った宗教の教えや

記念日の違いを識別して、はっきり分けて考える必要があるのです。

さて、神の教えでは、秋の祭りは、第七の月の1日から始まります。”ショファーを吹く日” ヨム  テルア。

週一度第七日目のシャバット以外、神の記念日は曜日とは何も

関係がありません。だから毎年神の祭りの日程は曜日が違うのです。第一の月、第七の月の暦の日で指定されています。

一方西洋宗教が作った記念日は12月25日のクリスマス以外全部必ず日曜日です。太陽神信仰ローマ教がその土台にあるからです。太陽=サン、サンデー。

テルアと言う言葉は、叫ぶ、告げ知らせるなどと言う意味の言葉です。聖書の暦では、2023年の第七の月の1日は、今週の

金曜日の日没から始まります。ちょうど週一度のシャバットと

重なる日程になっています。

 

ショファーを吹くとは、色々な意味があります。

戦争、有事の時。警告、警報として鳴らす。敵に対する勝利、

神からの警告の声。知らせの声。

警報〜霊的に目覚めよ!と言う神の声にもなぞらえられる。

シナイ山でとどろいた音は雷ではなく神の声を意味しているのです。

悔い改めを呼び起こす神の声。悔い改めと言う翻訳の言葉は、

ヘブライ語では”戻る”と言う意味です。何に戻るのでしょう?

神の契約の教え=トラーに記された生き方に戻れ!と言う警告

です。だからトラー=神の教えを排除する場合には、何に戻り

生きるのか中途半端、不明になってしまうと言う事を知っておいたら良いと思います。悔い改めとは、神にごめんなさいと言い、過去に犯したずれた生き方を悔いて改めると言うだけに留まらず、自分の生き方を神の言葉、教えに照らし合わせずれた生き方をこれから今から軌道修正して生きる事を意味するからです。

だからその軌道修正の基準=神の言葉を捨てれば、何に戻り何を基準に生きたら良いのか不明なまま自分解釈、自分の悟り、人の教えを基準に生きて悔い改めたと考えてしまうのです。

皆が知っている有名な聖書箇所がありますが、それらがまさか

神の祭り、聖会、レビ記23章に記された神の聖別された特別な日を喜び歌っている事などは以前は全く知りませんでした。

 

ヨム  テルア ショファーを吹く日の喜び、神の訪れ到来声を

聞くリハーサルの日でもあります。

神の御顔の光=神の教えを聞いて生きて神の記念日を生きる人
はさいわいとあります。この言葉はイエシュアが語られた申命記の解説を抜粋した山上の垂訓で訳されている”さいわい”と同じ
言葉です。
 

詩篇89:15 祭の日の喜びのを知る民はさいわいです。

主よ、彼らはみ顔の光のなかを歩み、(口語訳)

 
15 幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。主よ。彼らは、
あなたの御顔の光の中を歩みます。(新改訳)

 

16いかに幸いなことでしょう

勝利の叫びを知る民は。

主よ、御顔の光の中を彼らは歩きます。(新共同訳)

 

翻訳によって翻訳のされ方、言葉の使い方や印象が違いますね。口語訳だけは”神の祭り”とあります。それでもそれが何の祭りなのか知識がない場合には何の祭りの事を話しているのか翻訳読んだだけでは全く分かりませんよね。だから想像して考えてしまう事が起きるのです。そうすると聖書に書いてある本来の意味を把握しないまま、人が考え付いた教えの解説を聞かされてしまうのです。
クリスマス、イースターのこと?違います。聖書にはその様な
祭りは記載されていません。
新改訳、新共同訳では、全く何に対しての何を話しているのか
不明で翻訳からだけでは事実を汲み取る事が出来ません。
そして神の祭りを祝うと言う意味を知り、神の祭りが何なのかを学び、実践しないならこの様な箇所を読んで、即座にこの聖書箇所は秋の祭りのヨム テルアを迎える喜び、テルア〜ショファーを聞いたらそれが神の声を意味している、神の声を聞きそれに応答することの幸を語っているなどと言う事は思いつきもしません。
聖書に書かれている本来の意味、内容など知らない把握しないまま翻訳で字面を読んでいると言う事がたくさんあると言う良い例でもあります。
 
ヘブライ語ではなんと書いてあるのでしょうか?
אַשְׁרֵ֣י アシェリ(イエシュアが言われた幸いなるかなと同じ言葉) הָ֭עָם ハアム ザ人々=神の民子ら
יוֹדְעֵ֣י  ヨデイ=婚姻契約夫婦間の間で知ると言う親しい関係の中で体験する知り方の意味の知ると言う言葉。
תְרוּעָ֑ה  テルア יְ֝הוָ֗ה アドナイ  叫び 喜びの声などと訳されている ショファーの音、神の声!
בְּֽאוֹר־ ブ オル=光の中  פָּנֶ֥יךָ ペニハ あなたのみ顔 
神の実態を見て
יְהַלֵּכֽוּן׃ 彼らは歩む
とあります。

他の箇所でも神の祭りを賛美している有名な箇所があります。

詩篇118:24 これは主が設けられたであって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。
 
これクリスチャンのプレイズにありますよね。英語で”This is the day that the Lord has madeルンルン"と言う歌詞ですが、
日本語ですと”この日は主が造られたこの日を我らは喜ぼう”と
言う歌詞だと思います。
定冠詞がついている”THE”とは、神が聖別された特別の記念日
レビ記23章に記された神の創造された記念日です。ヘブライ語の定冠詞は”ハ”と言う言葉が付いています。これは過越の祭りの日を喜び歌っているものなのです。普段の日を喜び楽しみ歌っているのではないのです。どの日も主の日=神が人々を呼び出し祝う聖別された日は毎日と言うのは聖書の教えではありません。
神は全ての日を造られましたがある日を特別に聖別=神の意図通り目的通りの意味があるものとして取り分けている!と言う事実を無視した教えは人の教えです。
人の中にある文化の中にある祝日、誕生日や結婚記念日なども
特別な意味がありますよね。
毎日が記念日なんてそんなのは何も意味がありません。区別がなくなる。聖別と言うヘブライ語の言葉の意味は、普通と特別な目的に分かたれて区別していると言う意味でもあるのです。
いつでも記念日ならいつでも聖日なら、それは神が語る聖別されたものではなくなり、意味が無くなるのです。
特別な日を特別な準備物理的にも心の準備もして喜び期待して待ち望むでしょう。だから意味があるのです。
 
これを読んで”この日”とは過越の祭りの祝いの事を喜び歌っているなんて考える異邦人は皆無だと思いますが、詩篇118は過越の賛美の歌なのです。書いてある内容を読んでその意味を理解して過越を毎年祝う人には分かる。なぜならこの箇所都上りの
祭り、過越を迎える時に歌う詩篇でもあるからです。
 
118編はイエシュアの贖い救いを歌っています。
過越の祭りの一連を出エジプトの出来事に重ねて理解すれば、
もっと深くイエシュアの贖いの意味が見えて来ます。

詩篇118:21 わたしはあなたに感謝します。あなたがわたしに答えて、わが救=イエシュアとなられたことを。

118:22 家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。

118:23 これは主のなされた事でわれらの目には驚くべき事である。

古代の人達はまだ地上に来ないイエシュアの贖いの業、救いの意味を様々な方法で教えられていたのです。神殿での動物の捧げ物を通して、様々な儀式を通して、イエシュアがされた業の意味、
イエシュアにより贖い出された人は、神の前にまっさらに罪許されている事実、新し人で神に受け取られている事実が全部記されているのです。
 
神殿にいる祭司は、白い服を着ています。動物が捧げられる前に
既に白い服、神の前に雪より白く許されている、義とされている事実から全てを語り教えているからです。異邦人の教えの様に
”あなたはどうしようも無いドロドロの罪人”などとは教えません。ドロドロでずれて罪まみれの人はどうなりましたか?
イエシュアと共に死んで葬られた!!!死んだゾンビはそのまま
又再び生き返りますか?死んだら生き返りませんよね。永遠に葬られ死んだ!と書いてあります。それが神が伝える事実です。
”お前はすでに死んでいる”と言うアニメのセリフにありますが。
それらの事実がレビ記の中で、祭りの中の様々な儀式で教えられているのです!大贖罪日にエルサレムで行われた一連の儀式は
イエシュアの贖いを教えているものなのです。
大祭司が至聖所に入り贖いをする。
人の教えでは罪人はまだ生きていると言いますが、それでは仮死状態。イエシュアの業は不完全で半端ではありません。イエシュアと共に死んで葬られ、新しくされた!と言う事実を神は常に人に伝えているのです。そう感じられなくても。実際にいつもその事実を生きる事が出来ていなくても。人間なら犬ではない!と言うのと同じ事です。
新しくされている、でもそれは自分が絶対にズレないと言う意味などではありません。
完全なる第一のアダムもずれましたよね?どうしてですか?
本来の自分の実態ではない生き方行動を”選んだから!”神の教えではなくて偽物の教えに騙されてそれに聞き入ったから。だから今も新しくされた人でも、以前の自分のままで生き続け考え続け思慮に欠けて気分感情に任せて行動したら、それは肉の人がニョキニョキ出てきて支配されてしまいズレます!
生き慣れた生き方、クセが出てくる。でもそれはあなたの本来の
性質ではないよ!と教え、戻れ!神の性質通りに生きよ!神の伝える本物のあなたの生き方トラーに記された生き方に戻れ!
それが本物の悔い改めた生き方の実践なのです。
 
 
 
 
続く