異邦人の世界の教えでは、イスラエルが頑固でうなじがこわいために荒野で40年もの長い放浪生活の旅を神から課せられたのだなどと解説するのを聞きます。
40と言う数字。40年。40日40夜。
人が誕生するのは40週満ちて。
贖い出されて新しく生まれ変わり、新しい命に頭脳が切り替えられて生きる学習の旅は、一日二日数ヶ月では足りない。
荒野の40年のイスラエルと少数の異邦人たちが辿った旅路で
それを教えられているからす。
40年と言う年月には意味があり、必要な時だったのです。
一人一人も救われた!と言って次の日に全てがいきなり変わらない現実があるでしょう。それは死んだ古い自分の記憶が自分の中に確実に存在していて、それは簡単には変えられないし、消えないからです。先祖代々から受けた知らない歪み、又記憶全部含めて誰かにキズづけられ、トラウマになる事件に遭遇したら、虐待されたら、親に愛されず放置されらその体験をする人達がそのキズや、本来の自分が受けるべきものに欠けて生きたら欠乏に苦しみ続けます。
全ての人が神の義から外れて迷い出たから、全ての人は何がしかのズレの影響を受けてしまっています。罪、ズレの影響を受けていない無傷な人なんて存在しない、そう神の言葉で説明しています。
救われたら以前の自分の記憶やズレそれらが一瞬に消えるなんてそんな事はないのです。その人がその問題の傷に直面し対処解決しようと考えない、しないなら何も解決しない。
その出来事に対する反応は、対処しない限り変わらない。
その人がそのキズに問題が何であったのかはっきり見ない、向き合わない限り、変化しないのを人は知っていると思います。
古い人、死んだ人の自分の記憶の中で生きてきたから、人は誰でも歪み、ズレを負っています。しかもアダムとハワからの罪、
先祖代々の罪、ズレの記憶が知らない間に自分の肉=エッセンスの中に記憶されてしまっているのです。人の罪=呪いは代々に影響するとはそれです。
それを切り替えるには時間が必要、学習が必要、神が何を自分に指摘し教えているのか知って実際に神の性質の実態を生きる本物の人間、本物の自分を再学習する旅、時間が必要なのです。
それが荒野での40年、贖い出され救い出された人達の人生の旅路で表されて教えられています。
新しい人で生きる命のサイクルのデザインが神の定めの時、
記念日から記念日で生きる1年のサイクルの中で神がそれぞれに
特注のレッスンを与えて教え導いているのです。
だから神の定めの時の意味、福音の中心、イエシュア=新しい人で生きる成長の旅路を生きないなら、今の時はこれを教えられて
いると言う自覚がないままになるのです。しかも収穫祭のたびに
御霊の実がなる。神の教えを聞いて生きて自分の問題に向き合い
対処し、ズレに気づいて新しい人で生きる秘訣を学び続ける人は
神の定めの時、収穫祭のたびに御霊の新しい実を得ると書いてあるのです。
魔法使いの杖の様に人は一瞬で変化するのだ〜なんて言う教えを聞いて、それは本当だと考えるているなら、聖書に書かれている事実とは違う”瞬時に変わります!”などと言う人の教えを信じてしまう。
だから宗教の教えが強調するのは、瞬間の変化や、不思議、奇跡を常に求めてばかりいるのでしょうね。それが聖霊の働きだとなどと説明してしまっている。奇跡不思議体験を得る人は信仰が
深いとか褒められる。聖霊に満たされているからだ〜と言う。
聖霊に満たされている状態とは、神のみ旨、意志通りに完全に
ぴったり一致してその中で神に支配されて生きている状態のことを聖書では言っているのです。だから酒に酔わないで御霊に満たされなさいと言う意味はそれです。酒を飲むなではなく、酒に酔った状態=何かに支配される。
別物に支配されるのではなく、聖霊=神の実態思索とぴったり
1つになり支配されて生きる状態に留まると話しているのです。
その人の中にある深い問題はそんな瞬時になど解決などしません。すると言うなら無理があります。自分が問題を乗り越えて行くには必ず乗り越えるべき様々な内容、プロセスがあってそれを通過して癒しに至るからです。問題が深いほど傷が深いほど困難であり、年月を重ねれば重ねるほどそれを変えるのは困難です。
癒されるプロセスがある事がはっきりトラーに記されています。
レビ記の中には何度もなんども繰り返し神の前に問題を持ち出して、神と共に神が見ている通りに問題を見て語り合い、新しい人とされている事実から神は全てを教えている!西洋宗教の語る
”あなたは如何しようもない罪人に過ぎない!”などとなんて人に教えない。それは神が伝える神に贖い出された人の自己像ではないからです。
以前の自分は自分の力では変えられない、どうしようもないから、イエシュアが命をかけて共に死んで下さり、共に復活して
その命にあずからせて下さり新しくされた!と書いてあるのではないのですか?
そして癒される方法プロセスがちゃんと書いてあるのです。
古代の人達は神殿の祭壇〜神の家の中の神との一番親しい交わりをするお茶の間会見の場所の中で実際にそれを行なって学習したのです。ダビデが語る内容はそれです。
誰かの語る瞬時に問題が消えると言う教えは安易で楽に聞こえるけれどあり得ません。でもそんな瞬時変化なんて起きません。
今種を植えたら瞬時に実がなると言うのと同じ事を言っている。
新しくされた実態を受けるのは瞬時!許しも瞬時!仮の許しなんて半端なものは神の辞書=トラーにはありません!完全に許されている!でも生まれたての赤ちゃんには長い時間をかけて成長する過程がある!その事実を見逃していませんか?
自分はこう考えたい、こう言う感情は持ちたくない、こう行動したい!でも古い自分が未だニョキニョキ事あるごとに妨害してきて思う通りに生きられないから格闘する!パウロもそれを話しているでしょう。
古い自分の記憶を切り替える!と言う作業はその人自身にしか
出来ない作業なのです。他力本願神任せ〜なんて世界ではない
実際に自分が生きて再獲得すると言う事を通して古い自分で学習した全てを新しい人に切り替えると言う作業がある、それがはっきり聖書に記された記録、教えなのです。
聞くだけの人になってはいけない。行いの伴わない信仰は死んでいる。口先だけの教えを唱えてるだけど実際に行い〜神の性質を生きる事をしない、学ばない人は、口先で唱える思想だけで実態中身が無い、成長がない、御霊の実もない。古い人のままイエシュアと共に死んだ状態の人のままで生きている!と言う事が書かれています。
イスラエルが辿った聖書に記されている出来事、その他全ての
出来事、登場人物の名、それが起きた場所の名で表される全ては
意味があるメッセージなのです。
そして1つ知らなくてはならない大事な事は、聖書に記されている出来事は歴史の中で起きた、人間が考える重大な事が記されているのではなくて、神が考え人に教えるための重要な出来事、事件が選ばれて記されています。それらの出来事は人の中に起きる事、共通している事であり、簡単に言えば、人の中に潜むズレ、それから生じる破壊的な生き方、偶像礼拝、周りの人々に同様にずれた生き方が波及し影響を及ぼひ皆神の教えとズレた生き方に先導して共に破壊され、挙げ句の果てには神から隔たる場所に追いやられる。彼らが約束の地を失ったのではなく、聖別された神の国に住まう状態ではなくなり神の国から吐き出されたのです。
”生ぬるい”=混ぜ物の教えの中に生きているなら吐き出そうと黙示録にあるのと同じです。
物理的霊的な事は1つ裏表で繋がっています。神の性質を生きるならその時にイスラエルには雨はふんだんに降り、豊かな収穫があり潤い、神の与えたものを喜び楽しみ味わい生きる事が出来る。神の契約の命から外れて生きたら雨が降らず、収穫もなく、神の与えた祝福を受け取り喜び楽しみ生きる事が出来なくなる。
神の言葉は律法でそれを生きたら神に認められる、仮に許される、仮に義とされる、その様なものではないのです。人が神の性質通りを生きたら、神が伝える祝福実りがある生き方が出来る!それが神の言葉で伝えられている内容なのです。全然違う概念、思考回路でしょう。
ズレたままの生き方で祝福を受ける事が出来ないと言うことを神がはっきり教えています。誰でもズレた事をやりながら正されないなら、その生き方がダメなのだと気が付けないからです。
贖い救いを受けるのは無条件!神が一方的に与えていて、それを信仰により受ける人は人種、歴史の時に遮られず漏れなく誰でも受け取れます!それが無条件!だから割礼としての契約の印が与えられているのです。無条件に神から与えられているもの。
でも新しくされた人にはその後の生き方と言う条件が付いている
事を聖書から読み取れば理解出来ます。自分が考える所の勝手な生き方〜神から疎遠の場所に追いやられる。宿営から断たれる、出されるとあります。他者に悪影響、罪を学習するスキを与えてしまうことになる、危険分子になるからです。
神の子らとされた人は、神の家族として神と神の民と共に1つとして生きたいなら、好き勝手な生き方は続けられない、出来ないよと神は人の教えています。自分が他者が破壊されないため!
いや好き勝手に生きる場合には、それは神の家族から追放される、隔たりの場所に出される!と書いてありそれが実際にイスラエルが体験した聖別された神の与えた約束の地イスラエルではない、異教の神々の地への追放で教えらているのです。
神の子とされたら神が伝える本来の生き方を生きたい!と願望するのが本来の人間の性質なのです。
エジプトに居た時の様な奴隷状態に戻り、偽物の王、偽物の支配者、偽物が統治する場所で、惨めに生きる様になってしまう。
家族が肉親が親が子を食べる様な悲惨な状況に陥った。
その教訓はどの時代にも誰にでも当てはまるものなのです。
長い年月神が何もアクションを起こさないから関係ないと思いますが、神の忍耐は長〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜いのです。
怒りとは鼻とヘブライ語であります。忍耐は長い鼻で表されますが、神の怒りが鼻の先まで達するには長い時間がかかる。
それほど神の忍耐は深く長いと言う事を表している言葉です。
イスラエルもある時は1000年近くも偶像礼拝=高き所の礼拝をし続けてもその間何も神からの直接の裁きがなかったのです。それと同じなのです。でもある時にここまで!罪が満ちてしまった時にここまでと言う神の定めたタイムリミットがあるのです。
偽物の教えが氾濫し宗教が氾濫してそれが神の教えだと思ってしまうけど、そうではない。
私達も好き勝手な聖書には無いイスラエルの神像とはずれた神像や神の教えとは違う事を言い続けてもそれが2000年近くてもやがてこれで終わり!と言う神からの終止符が与えられる時が
来るのです。
イスラエルがそれほど痛い目に合わないとどれほど”ズレて”いるのか気が付かない。
そして神の元に戻り駆け込む放蕩息子の例えの中にある話で良く分かると思います。放蕩の旅=偶像礼拝、神の教え、婚姻契約を捨てて生きる惨めな代償、でも父の家、父の愛を思い出して戻る!これが書かれています。
そして、それらの事柄は、時系列上に並んで書かれているのではない。
繰り返し同じ性質の事が記されていたり、今の時から永遠の中へ
過去から今、未来、未来から今、過去へと飛んでいます。
創世記の最初の3章を読んでも、時が行ったり来たり永遠の中からまた神が造られた世界へと飛んで記されています。
一人一人イエシュアにより贖い出され救いを得た人はこの世の旅路を同じ様に新しい人の実態で生きる訓練を生きる道のりがあるのです。
たった二人、ヨシュアとケラブだけが第一世代で約束の地に入った。この2と言う意味も、深い教えであると思います。
続く