神の言葉に関する様々に誤解している概念を全部一掃し1から
正しく神の言葉を見直し考える必要があります。
どうしてその様な考えに至るのか、それは信じた最初から誰かに
神の伝える教えや概念とは違う教えを教えられ刷り込まれそれが
自分の信仰の思索の土台になってしまっているからです。
刷り込み=インプリンテイングです。鳥のヒナが初めて見た
物体を母親だと認識してしまう、それは母親鳥ではないのにそう
信じ込むのと同じ作用です。偽物なのに本物だと信じて疑わない。
古い箇所の聖書 創世記〜マラキを旧約聖書と一般的に呼んでいます。便宜上そう呼んでしまっていますが、それらの言葉は神が伝える神の言葉の実態に反した言葉であり、本当は最初から聖書の中に挿入されてはならないタイトルページなのです。
なぜなら、人は”言葉”により物事に対する概念を構築して行くので、神の言葉に対する相応しくない表現を使い続けて、神の言葉に対して違う概念を抱いてしまう事を避けなければならないからです。
しかも、西洋神学思想教理では、古い聖書=廃れた、破棄されたと信仰の最初から教えこまれてしまっているのですから、神の言葉に対する誤解はどんどん膨張して行く負の連鎖なのです。
神の言葉自身により聖書に対するタイトルが付けられています。
”トラーの書” ”証”などと言う言葉が神の言葉に対する神が付けたタイトルがあるのです。旧約聖書、新約聖書とは異邦人が考えた聖書のタイトルであり、神は神の言葉をその様に別の実態のタイトルを名付けたり、紹介したりなどしていません。
次に大きな誤解は、古い箇所の聖書は、救い主が来られるまでの仮の教えであり、仮の義、仮の許しが与えられるために行うものであったと言う教えですが、本当に根本的に神の言葉を誤解しているのです。神の教えの中に、仮の教えもないし、仮の義や許しなども存在しないと言う事実をまず聖書から知らないとならないのです。仮に許すそんなケチくさい神はイスラエルの神ではない!瞬時に許し、瞬時に受け取り、瞬時に新しくされる!それが
神が伝える事実です。詩篇の記者の告白を読んでも、理解出来るでしょう。
イエシュアが来られた以降も、神の言葉は永遠に同じなので、
聖書に登場する1世紀の人達の記録を読んでも分かる通り、彼らが生きていたのは、モーセの五書であり、昇天以降も神殿が存在し、その中で動物が神殿の祭壇で捧げられ、芳しい香りのバーベキューされた動物を祭司と皆とで分け合い供する宴会!それが
神の家の食卓、祭壇の喜び。春と秋の祭りにはエルサレムに都上りをして祝い、週一度のシャバットも第七日目を祝い、そしてシャバットでは会堂でトラー、預言書が読み上げられていたのです。パウロもシャバット=第七日目ごとに会堂でトラーを教えた事がはっきりと記されているのに、それを日曜日に教会で新しい別の教えを教えたなどと読み違えていました。日曜日は彼らの世界は神の暦のより今現在に至るまで労働の第一日目であり、シャバット=止まる日、休日ではないのです。聖書を自分の解釈で勝手に読み込みし続けるとは、聖書に書かれた真実を曲げて読んでいる!と言う事に気が付けないです。人の教えと言う別の顔で神の語る真実を覆い隠しているからです。
試しに聖書を読んで、ご自分の目で何が書かれているのかを確認する事をお勧めします。そして聖書に記された記述を人の教えとすり替えて読んでる事に気が付いて考えてみたら良いのです。
7は永遠に1とはならない!神の言葉は永遠不変であると神が言われたので、一時的で仮の教えなどには決してならない。そんな単純な事実にさえ盲目になって聖書を読み違えているのはどうしてだろう?人の教えが神の教えと本気で信じて聖書に書いてある内容を自分解釈の別物に読み直している事が原因なのです。
神の教えや記念日は何も変わってなどいない事は、使徒行伝以降を翻訳聖書を読んでも小学生程度の読解力があれば、はっきりと読み取れるはずです。パウロは日曜日に礼拝で献金を募れなどと言ったと誤解する箇所も異邦人が勝手な読み込みをして解説しているだけです。1コリント16:1ー4
神の教えによりシャバットは永遠に第七日目であり、シャバットに献金などお金を集めたりしない!と神が教えている事をパウロは破る様に人に教えたりなどしないからです。それともパウロは気分により場所によりシャバットを第七日目や第一日目、コロコロ変えて祝ったとでも考えるのでしょうか?日曜日になど誰も
シャバットとして止まらない、集まらない!それが古代のヘブライの世界なのです。
普段の日=日曜日=労働日だから仕事中になど集まらない。
クリスチャンも月曜日の昼間10時に学校仕事休んで礼拝などしないでしょう。
シャバットで禁じられている資金、金銭集めや労働はしないから普段の日である日曜日にそれぞれが手元にお金を取り分けてと
パウロが言ったのです。
現代の西洋宗教の慣わしでは、日曜礼拝の席上で誰かが来て献金を集める事を空想して考えてしまっているから古代のヘブライの世界も同じと考えてしまうのですが、1世紀のユダヤ人達の中に日曜礼拝など存在さえしていないし、誰もそんな発想などしない、日曜日は労働日であり、日曜日はローマ帝国、太陽神の日、皇帝の日です。その様な日曜日の集まりもないし、ローマ教の様な席上献金なども存在しなかった事実があるのです。
使徒2章はイエシュアが昇天された以降も”穂を数える”7週を過ごして、シャヴオートを迎え、エルサレムの神殿で皆が集まっている時に神がシナイ山で現れた様に特別な現れ、啓示があった
大きな出来事がありました。これから世界の異邦人達へ広くトラー=神の教えが運ばれる幕開けだったのです。
シナイ山では、イスラエルと少数の異邦人に最初神のトラー=
婚姻契約が与えられました。今度は同じ婚姻契約が世界の四隅まで広く伝えられる終わりの時が来たのです。
神は神の記念日に特別な現れをする事、シナイ山での出来事、
過越の出エジプト、過越のイエシュアの処刑、復活、昇天などでも分かるのです。
あの祭りはシャブオート(ペンテコステ)婚姻契約書=トラーを受け取った事を祝う祭りの日であったのです。
シャブオートを祝うとは、彼らは昇天以降も全部の祭り、神の記念日を祝っている!と言う意味であり大前提がある事を忘れては真実が見えなくなります。使徒20:6でもパウロは過越種無しパンの週の祝いが終わった後ピリピから旅立った記録がありますが、
諸外国に居ても昇天以降過越の祭りを祝った記録です。
ちゃんと事実を読み取れば、過越を祝うと言う意味は、レビ記
23章に記された神の記念日の全てを祝っている!と言う事実がある事をはっきりと知らないとならないのです。未来預言のゼカリヤ14章で全世界が仮庵の祭りでエルサレムに祝いに来ると言う箇所も、同様に全ての神の祭りを祝う事実が記されている!
と言う永遠の事実を読み取らなければなりません。
全部の祭り=レビ記23章に記された神が創造された神の呼び出し日、神の記念日=定めの日を聖書に登場する人たちは昇天以降も祝っていたのです。
私は使徒2章を読んで、そこに記されたものが、神の祭りの日
シャヴオートであり、イエシュアは過越からずっと弟子たちは
自分達の地元の家に戻らずエルサレム=都に留まり春の最後の祭りシャヴオートの祭りを待って祝う事を遺言された事の意味にも
以前は全く気がつきませんでした。理解に大きな欠け、空洞が
出来てしまうのは、神の言葉を捨てて学ばない知らない実践がないから分からないせいなのです。
しかもシャヴオートを異邦人は”聖霊降臨祭”などと言う聖書には無い別の名前を付けていて、聖霊が初めて人に与えられた出来事が起きたのだなどと非聖書的な誤解を招く教えを教えられてしまって事実が見えないまま、新しい聖霊時代が始まった〜などと言う人の思想を聞かされて来ました。神は神の時に自由自在に神の考え通り不思議な現象や奇跡を行われる、それは神の自由であり
意味がある事ですが、使徒2章で初めて聖霊が降ったのではない。これから世界へ神のトラーが運ばれる、シナイ山での出来事の再来であるとヘブライ人なら理解出来たでしょう。しかも他国の言語で使徒達が話し始めたのですから、それが何を意味するのかも考えれば分かります。世界の四隅にいる異邦人にもトラーが
伝えられる幕開け。
聖書には聖霊は信じる人の中に最初から住まう事が記されており人は最初から神の息吹を拭き入れられて生きるものとなったとある通り、イエシュアの贖いをどの時代も受け取る人は、神から切り離された状態から電源に繋がれスイッチオンに戻るのです。
どの時代にも神が伝える福音の事実=イエシュアにより贖い出されている事実を神の言葉、教えから理解する人残りの民が存在している事、そして最初からイエシュアがタナック=モーセの五書、預言書、諸書の至る所に記されているのです。それらが聖書の記述から読み取れない、見えない、理解しない場合にはイエシュアが記されている事が見えないだけで、残りの民、目が開かれた人達は新しい命の実態を受け取り生きていたことが書かれているのです。ヘブライ語聖書ではそれが顕著に見えます。
そうでなければ、どうして神と対話し神と共に歩んだ残りの民の
記録が聖書に記されているのでしょう?と考えないとならないのです。今よりもっとずっと深く濃厚に直接神と対話し神の臨在を体験、しかもある時は耳で目で見て、地上に生まれる以前の時代に古代の人々に直接イエシュアが現れ会って、共に生きた人々の記録が記されているではありませんか。
イエシュアが地上に来られるまで救いがない、許しがない、聖霊が与えられていない、義とされることがないなどと考えているから事実が把握出来ないのです。
福音は1つ救いは1つ、イエシュアを通してでなければ誰も父の元に来ることが出来ないとある通りです。歴史線上の時系列で物事を考えるから見えないのであり、永遠から神は語っている、神は永遠の中に既に全てが完了している事実を知れば、円の中の中心をどの場所からでも見える、受け取る事が出来ると理解出来るのです。神には時空の制限など無いからです。何にも制限されずどの人にも神は近くづく事が出来るからです。
古代の人はユダヤ教を信奉し、イエシュアが来られた以降の新しい時代はキリスト教を信奉したと考えていました。
でもイエシュアはカトリック教を教えに来たのではない、
古い時代の人はイエシュア=救いの内容、福音が抜けているユダヤ教と言うものを信じて義とされていたのでもない。
こう言う思想も聖書とはズレている仮説です。
神の言葉は宗教ではないのです。聖書にはユダヤ教やカトリック教、キリスト教その他諸々の宗派の教えが記されているのではないのです。
宗教とは、イズムです。イズム〜神の言葉、教えに人の教えが混じったものです。それが宗教です。神の言葉は人の思想が混じらない純粋な言葉、教えであり、聖書には宗教の教えが書かれているのではないからです。これを多大に誤解しているのです。
神の国には、このグループはなになに先生の”なになに教”このグループは何々派、”なになに宗派”などと分かれていると考えているのでしょうか?
神の国はイエシュアが王であり中心で、神の性質=教え=契約の愛の実態=神のトラー=教えインストラクションを生きる人で
構成され、人の教えや宗教を生きる人達で構成されているのではないのです。皆神の前に平等であり、優劣があるのでもなければ、人種、生まれ、職業や社会的立場や地位で分かれているのでもない。
だからエレミヤ33章に”新しい契約”=再更新された同じシナイ山の契約を生きる人達、その人達は神の言葉の意味を理解し、
それを生きる人達だから、誰も”主を知ろう!”と言わない状態になるとあります。腹に刻まれたトラーを生きる人達、頭脳に割礼がされ聖霊が内側に住む人達で構成される大家族と書いてあるのです。
イエシュアが過越の晩餐で言われた”新しい契約”とは、イエシュアの血で贖い出され新しくされた実態を持つ人達に与えられた
エレミヤが語った事実と同様の内容を話しているのです。
使徒たちはエルサレムの神殿でトラーを実際に様々な儀式を通してシャバットや祭りで実体験を通して教えられて来た、その内容
をイエシュア=子羊の血の実際の地上での出来事、イエシュアのトラー通りの生き様、贖いを通して深く深く今まで教えられて来た事の理解が増して行った事でしょう。
続く