聖書に記された全ての教えは同じ1つの神の言葉トラー | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

創造主である神が創造された物理的世界、特に自然界の性質や

要素を通してその実態と重ねて人が理解しやすい方法を通して

様々な神の真理を教えています。

種まきと収穫、空の鳥や動物、空、山、谷、荒野、水、川、植物様々な創造物、イスラエルの季節、風景、土地を通して教えられています。

 

種が蒔かれ、根が出る、生ける川の水の辺りに植わった木は、

その種はしっかり根を張り、芽を出し幹を出し、やがてたくさんの枝が出来て実を付ける。

詩篇の冒頭1章に書かれているのは、トラーを解説するものです。最初からトラーが強調されている。詩篇はトラーに記された知恵の宝庫を生きる事が記されています。

これを当時のヘブライ人聖書記者、預言者が何を土台に考えて

聖書=神の言葉を書き記したのか知って、読み取ると、聖書に記されている全てには、トラーが書かれている事が分かるのです。

 

詩篇1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。

 

さいわい。イエシュアが語られた山上の垂訓で語られた教え

言い回しと同じです。”アシュレイ”さいわい、まっすぐ、正しい、祝福されたと訳されていますが、イエシュアの教えは全て

トラーを語り話して人々に教えているのです。

 

父の教え以外に語らない!父の教え=モーセの五書=婚姻契約、トラー以外語らない!とイエシュアが言っているからです。

父の教え?テレパシーで天と交信して行き当たりばったりの教えをしているのではないのです。

失われたイスラエルの羊は、神の教え=トラー、婚姻契約に根付いた生き方からズレて失われてしまったのです。それらの人達の元にだけイエシュアは遣わされたと言われた意味があるのです。

イエシュアが、モーセの五書、預言書、諸書=タナックに記されてなどいない別の新しい教え、聞いたこともない見たこともない

生き方をしたならば人々はイエシュアがタナックに記された救い主である事は認識出来なくなってしまうのです。

イエシュアが語られる事、山上の垂訓は申命記に記された教えを要約しているものです。トラーの純粋な真髄、人の教えの解釈が混じってない天直送の神直々の解説を人々が聞いたから感嘆したのです。聴衆は100%モーセの五書を考えて聞いている事を

その知識が念頭に無ければイエシュアがモーセの五書とは違う新しい教えをしたのだ!などと聖書ではないズレた解説をし続けてしまい他者に聖書ではない別の教え=宗教の教えを伝えてしまうのです。

 

どんな人が”さいわい” アシュレイと書いてありますか?

神の意図から外れた生き方、歩む事をしない人達。

その内容はどこに書かれていますか?

モーセの五書の中に記されている、神が伝える”ズレ”罪の中に歩まない人はさいわい、祝福されるとあります。

 

主のおきてとは、モーセの五書=トラー=神の教え=婚姻契約に記されているものです。おきて、命令、仰せ、いましめ、さだめ、あかし、さとし、知恵、み言葉などと訳されているこれらの言葉は全てトラーの教えの内容を指して語っているものなのです。

だから福音書以降に同じ様に、これらの言葉が記されていたら

それら100%全てモーセの五書に記された教えの内容、真髄を語っている事実を知って福音書以降も読む必要があるのです。

 

聖書に記されている内容は、最初から最後まで全部同じであり

一貫しており、聖書の最初と最後の部分が別の教えを語っていると言う異邦人創作の幻想、空想にすり替えて読めば神が語る真理真相は見えなくなってしまいます。神の顔の上に別の顔を置いたら、別の顔を見続けて、本物の神の顔=教えが見えなくなるのです。神の警告を忘れるなかれ!なのです。

 

詩篇119篇は神のトラー=教え、インストラクションがどの様に麗しく知恵に満ちて人を生かすものであるのかを熱烈に告白し解説している箇所です。以前詩篇119篇を読んでそこに書かれているのはトラーに関する賛美、神の教え=トラーを慕って書かれているなどと1ミリもその様な発想は考え付く事がありませんでした。

モーセの五書を呪いの古い廃れた律法だと言うならば、それは

詩篇も箴言も、福音書以降のイエシュアの教え、パウロの書簡も同様に全て同じく呪いの律法であり、同様に古い呪いの律法神の言葉なので廃れますとなるのです。

なぜなら聖書は全部モーセ五書=トラーしか語られていないからなのです。

ある部分を削除し、ある部分を採用し取り出して抜粋を語っているのではなく、どの箇所もトラーに記された神の教えの真髄のある側面、ある性質、内容を語っているからです。どの箇所も矛盾互いに相反することがない、和合し一貫して一致した教えが貫かれて記されているのが本物の聖書の内容記述です。時系列で破棄されるべき神の言葉など聖書には1つも記されていません。

最初から福音、救いは1つしかない!この事実にはっきりとタナックの記述から気が付く必要があるのです。

詩篇1篇2節を読んで思い浮かぶのは、申命記です。

1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。

箴言にも同じ事が書かれています。

3:18知恵は、これを捕える者には命の木である、これ=神の教え=トラーをしっかり捕える人はさいわいである。
箴言7:1−2わが子よ、わたしの言うことを守り戒めを心に納めよ。

2戒めを守って、命を得よ。わたしの教えを瞳のように守れ。

 

申命記5:32 それゆえ、あなたがたの神、主が命じられたとおりに、慎んで行わなければならない。そして左にも右にも曲ってはならない。

6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。

 6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。

6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、

 6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これ=トラー神の教えについて語らなければならない。

 

これはイエシュアも語られた言葉ですが、イエシュアはトラー

全体を考えてこの箇所を語っているのです。何より愛が大事とは

神の定義する愛=契約の愛=アハヴァの実態の中に全て神の教えが凝縮され網羅されているからです。

神を愛する人は、神の教え、インストラクション=トラーに記された内容をガードし愛して実際に生きる人とイエシュアが言われた言葉の意味をその通りに理解すれば良いのです。

この箇所、詩篇1篇の2節で語られている事と同じです。

1日中神のトラーを思い巡らして神の教えを生きる人。

その人はどうなると記されていますか?

 

1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。

パウロは御霊の実と語ったのはこれと同じです。しかも時が来るとあります。それぞれの植物には実を実らせる時、季節があります。神の時、暦、一年のサイクル、神の定めの時=祭り=モアデイム=季節=神のシャバットからシャバット新月から新月、祭りから祭りを神の教えるイエシュア、福音を実践し新しい人として生ける水=イエシュアの命に浸って生き続ける人は、神の時、

モアデイムごとに豊かな実を結ぶ。

新しい人として神の時の中、神の教える訓練を生きて神の教えに聴き続け生きる人は、御霊の実がなる。

神の祭り、春、秋の祭りは全て収穫の祭でもあるのです。

全部教えが繋がっているのが見えてきます。

 

そして”木”とは、救い主を表すものでもあり、木の性質を知れば色々な要素が見えます。木は長く生息するものであり、一年ごとに年輪を作って行きます。多く水を吸った年は太い年輪が出来る。このことからもしっかり神の教え=聖霊に教えられ神の性質を生きて新しい人の実態を生きる人は、確実に成長を遂げ、神の時、季節が来たら御霊の実がなると言う意味です。

生木=救い主=イエシュアに繋がれる枝=神に贖い出されて神の命の実態を生きる人達は、多くの実り、イエシュアの性質に相応しい御霊の実を得る。

パウロも100%モーセの五書、預言書、諸書に記された教えからだけ教えているのです。

 

1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。

1:6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。

申命記は約束の地に入る前、イスラエルと少数の異邦人に対して

神の教え=契約=ブリットの再確認、再更新をして記されたものです。この申命記の書式は、当時中近東にあった契約書の形式で記されているものなのです。

 

宗主国・家臣条約と条約がありましたが、その形態で記されています。

どんなものかと言うと、宗主国〜より力があり優れた国家の王が

家人となる相手国に対して、王がどんなお方かを紹介し、そしてその王が様々な守り、保証、約束、契りを交わす約束をしますが、家人となる国家は宗主国が提示する内容に忠実に生きる事を同意するのです。条件がある!結婚する夫婦は様々な約束

条件の元同意して生きるでしょう。それと同じです。

それぞれが勝手な生き方を持ち込み相手を破壊するなら結婚生活の実態は成り立たないからです。

そして、トラー=聖書が婚姻契約書と呼ばれる理由は、そこに

記された言語が婚姻契約に使われる言語だからです。

娶る、裏切る、愛する、夫、妻、新婦、花嫁、姦淫の罪、etc 

それらの言葉により、神と神の民は婚姻契約の一番親しい間柄の

関係にあると記されています。

 

だから聖書にはイスラエルの神がどんなお方であり、何を人に

して下さったか、そして神の民とされた人達は神に対してどんな生き方をする様に神に伝えられているかが記されているのです。

異邦人が語る様な、神の言葉は律法=するするなかれの掟リストなどではないのです!神の教え言葉は、神はどんなお方か、あなたは神にどの様に造られているのを教え、神の性質に似せて造られた人は神の性質通りを生きる!それが書いてあるのです。

 

続く