エルサレムにて イスラエル滞在最後の日々 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イスラエ滞在の最後は前回と同じくエルサレムの街中で過ごしています。

今回の夏は一生忘れない様な出来事がたくさんの日々になりました。そして訓練の日々は永遠に続く。

 

明日は何があるのか、明日何をアバが運んでくださるのか、全く分からない日々ですが、今も明日も過去も同じ様にイスラエルの神が居て、救い主は最初から永遠から居る事実は何も変わらないのだと考える日々でした。

 

全世界を造られた神。エデンの園をアダムとハワと共に歩み語られ人の生き方=トラーを直接教えられた神。

神は昨日も今日も永遠に変わらない。神の言葉も変わらない。

ノアにアヴラハムにイサク、ヤコブ、ヨセフと共に居て語られた神。神の性質、言葉は何1つ変わっていない。

異邦人が唱える様に、歴史の途中で七変化する神と言うのは

イスラエルの神ではなくそれは異教の神々でしょう。

 

神の言葉=教え=約束=契約が一時的と考えるのは、異邦人的

肉的思考回路であり、聖書に記された神の思索とは全く異なる性質のものであるのは聖書に照らし合わせれば明らかです。

神の言葉は不完全であり有効期限、賞味期限があり、古く廃れ〜神は古くなり廃れる性質の神と言う教えは聖書に基づいた真実なのでしょうか?

聖書を読み違える原因は、異邦人異教徒的思考回路で言語に記された言葉の意味を反映しない翻訳、そして言語に無い言葉、文章を勝手に挿入した付け足しの翻訳創作、この部分は原典を読まない限り、聖書にない言葉や文章が挿入されて違う意味に訳されていることを突き止めることは不可能です。

でも前後の文脈で明らかに変だと、何度も読み返し考えれば

疑問に思う箇所でもあるのです。

そしてヘブライ思想、聖書の思想とは異なる思考回路、思索に基づきズレた解釈をし、聖書に書かれている意味通りを読み取らない事が最大の原因で起きる誤解の数々なのです。

 

つまり、聖書に書いてある通りに正しく読み解いていないと言う事が起きているのです。自分で考えただけでもそれは分かって来ます。神の言葉どうしが互いに敵対し相反すると言うことは

聖書の中に記された事実では無いからです。

 

聖書にはそんな事など書いてない!そんな事=変化する神の言葉の事実など1つも記されていない!永遠不変の神の言葉!と

書いてあるのに、そんなシンプルな事実さえ神の言葉を人の主張で曲げて読み解くと言う事をしてしまっているのです。

まずは書いてある通り=原典、言語に書いてある意味通りに読むと言う重大な基本を、聖書を教える人は抜かしてはならない作業なのです。

 

一般の人が聖書を曲げた教えをしているのではないのです。

いつの時代も、問題は教える人達、”教師”を通して曲げられた

教えが何も知らない大衆に伝えられてしまう事なのです。

異邦人の中に神の言葉とは異なる思想が根付いた理由は、

神の言葉は終了した!今の時代は人間が勝手に仕分けて考えて

良いと教えたのは、1世紀後半から出現した異教徒背景の西洋教父達〜パウロ達の様なユダヤ人教師から完全決裂し、自分たち独自の教え=神の言葉をどの箇所でも否定する事を教えた人達。

その様な教えを、当時一般の異邦人は手書きである聖書など手元にもない、読んだこともない、学んだこともない、その様な人達が教師達の言うことを聞いて、それをそのまま鵜呑みにして信じるのは当然です。照らし合わせて確認するものがない。

今でさえ目の前に聖書があるのに、書いてある通りには読まない様に教えられるのですから、この問題の奥は深いのです。

 

神ではないただの人間なのに、神の言葉を変えた人達が存在していた、今もしている、し続けるから、神の言葉を否定する教えが蔓延したのだと言う事実を聖書から、又歴史の史実から突き止めたら見えて来ます。

 

逆に正しい教師=神の意図通りに書かれた言葉通りを伝達する

教師を通して教えられたら生徒達は正しく神の言葉を読み解く

訓練を受ける事が出来るのです。だからいい加減な考えではなく、正しく綿密な学びが必要なのです。一般的にどの学問、芸術その他の分野でもそれらを求められるのに、どうして聖書=神の言葉に関してはそれが全く無視されているのでしょう。

 

1世紀当時も人の解釈で神の言葉の本質を曲げた解説をしていた=口頭トラー=伝統の人の言い伝え=律法の戒めなどと訳されている言葉は、純粋な神の教えに人の教えが混ざったものである事をイエシュアが伝えていました。

だからイエシュアの教えを直に聞いていた弟子、特にペテロは

イエシュアのタルミッドハハン〜12弟子のリーダーであったので、イエシュアから聞いた純粋で正しいトラーの解釈=モーセの五書に記された父の教えの真髄を人に伝える役割を与えたとマタイの16章で異教の神々が崇拝されていた場所ピリポ カイザリアに弟子達と立ち寄った時、ペテロに質問したのです。

”あなたはわたしを誰と言うか?”ペテロが答えた答え、”救い主”

タナックに記された約束の救い主である。このペテロの正しい答えに対してこの事実の上=イエシュアの上=岩の上に、永遠から呼び出されエデンの園から集められて来た人々=神のエクレシア=カハール=呼び出された人々の群れ=イスラエルの大家族を加え続け建て続けると言われたのです。

 

イエシュアが来られた後初めて異邦人と言う新しいグループ=教会ができた!と教えられそう考えているので、聖書に記された唯一無二のイスラエルの大家族が1つしかない!と言う事に全く気がつけないのだと思います。教会と言う言葉も造語であり本当に不適切で元の言語〜カハール=エクレシア=神の声に呼び出され応答した人々の群れ=かの家族と言う言葉を反映しない造語なのです。聖書には異邦人でも神の言葉に応答して信じた人達が記されていることをはっきり読み取れます。同じ1つのイスラエルの神の家族。どの人も信仰により新しくされ聖霊を内側に受けていた。ダビデの詩篇の告白を読んでも、箴言を読んでも、新しくされた人の事実でトラーを考え発表している神の知恵が記されています。

 

しかも翻訳に反則があるのです。創世記〜マラキまで、カハール

エクレシアを〜集会、群れと訳し、同じ言葉を福音書〜黙示録

では教会と言う全く別の造語に訳しているので、まるで別の新しいグループ出現したと言う印象操作をする意図で使われてしまっているのです。この様な人の思想をスリこむための印象操作や

トリックはしてはならない事、一貫性の無い翻訳ルールに反したものであるのです。

 

1つ神、1つの大家族!それは歴史の途中から変化したり、

別物が出現したりしていないのです。なぜなら救いの方法は1つしかなく、福音は1つしかなく、永遠の中に救い=イエシュアの購の業は完了していてこの世界の礎が出来る前から私達は既に

存在し選ばれていた!と言う理解不可能な事が聖書には記されているからです。

2つ別の救い、購い、福音、時代ごとに別の教えや契約があると考えるのは、聖書とは異なる思想で考えているからなのです。

 

救い主が地上に来られて初めて救い購の業が完了したと考えるから事実が見えないのです。

聖書が語る世界は、永遠から全てを見る、永遠の中に完結されている救いの事実を地上で見る、それは過去も現在も未来もどの時点でも時系列に関係なく、信仰により同じ救いの実態を受け取る人は同じ救いを受け同じ様に新しくされ、聖霊=神がその人の中に住まわれる事実が聖書の最初から最後まで記されているのです。

 

タナック=モーセの五書、預言書、諸書にはイエシュア=メシアが記されている!!!と言う事実に気が付いているのかいなのかの差、それは個人個人の理解把握の違いによるだけで、そこにはメシアがびっしり記されています。

 

 

神の声に聞いて応答したイスラエルと少数の異邦人がエジプトを出てエジプト軍が追って後ろに迫って来て、紅海に直面しもう行き場逃げ場が無い。その海を2つに分けた神は私達の同じ神で

あり、神には時間や場所や物理的制限無く、何をするのも可能な神。神に不可能など無い。

 

変わった神、変形する神の約束や教えと言う教えは人間の肉の頭脳で考えついた教えであり、聖書に記されている神=神の言葉は永遠不変であり今日も変化などしていないと神の口から直接語られた言葉が聖書には記されている。

聖書を読んで神の言葉か人の教えなのかの区別見分け識別する

知識は、綿密で正しい神の言葉に対する学びからしか生まれない。神の言葉=聖霊。神の言葉を学ぶとは神=聖霊と直に交わり

教えられる事だから。

シンプルな事実を神が私達個人個人に今も神の言葉を通して語りかけている。

 

様々な問題に直面したら、神の言葉で約束されている事を実際に

実践する訓練の時であり、実際にやってみる!と言う事をする事

を求められているのです。水の上を歩いたペテロの様に永遠の中に居る現実を生きると言う事を体験させられる事は誰でも体験直面し通らなければならない道でもあります。

 

今日は何を運んで来て下さるのか。先が見えないからこそ神に信頼する。全部自分で分かったら神に導かれ教えられる必要など

なくなってしまうから、人は今の事しか見えない様になっているのだと思います。

 

 

新市街。夜中過ぎまで賑やか。

 

 

 

 

お土産やさん。メノーラやその他色々全てそろっている。

 

近くにアジア食材店がありました。

 

もうすぐ満月。

 

典型的なイスラエルの朝食。