7つで1つの完全な家族の姿 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

日本の夏は湿度が高く暑さも格別ですが、乾燥した暑さは、

灼熱を感じる暑さです。昼間外に出ると乾燥したサウナに入っている感じがします。

昨日はシャバットの一日を朝から友人達と過ごしました。

いつものズームでの集まりが午前中、午後は別の友人宅に招かれ

色々な話をして、夕方は海外から来ている友人達が合流して

シャバットを閉じる祝いをしました。

 

聖書を読むと、”安息日”を神が聖別しているので、人も安息日=

シャバット=第七日目を覚えて聖別してガードせよと神が言われた言葉は、シャバットが神に取り、そして人に取りどんなに重要であるかを教えている神の言葉、イントラクションであることが

記されています。シャバットを破る汚す〜自己像の破壊、家族の破壊、人が神に修復された事実を生きる事を妨害するものでもあるからです。

神の教えは人の肉の頭脳には、それが何?と理解出来ないものですが、神の言葉を聞きそれを実際に生きる人には神が何を言っているのか理解し始める事が出来る様になっているのです。

 

そのシャバットを汚す事、神の言う事を無視する事は、神に取り

どんな意味になるのか考えてみたら良いと思うのです。

夫に”これこれはとても大事な事だからあなたも私と同じ様に

大事にしてね”と言われて、その夫の言葉を無視し、ないがしろにする妻、自分はこれは大事ではない!と考える!と勝手な行動に走る事がどう言事か考えてみる、人に言われたことを軽くあしらうと言う事は相手に対する愛も尊敬も尊重も何もない事を意味するものです。

 

神を愛するとは”イエスさま愛します〜”と口で言う事ではなく、

実際に神に言われた事を生きる事でその人が本当に神を愛しているのかどうかが証明されるものです。そう聖書には記されています。

イエスさま愛します〜と言いながら神の言う事を無視し、勝手に神の言葉を人間が仕分け、判定し、神の忌み嫌う様々な事を神の教えを知らないままやりながら、生きるのは悲しい事です。

神の宮である自分を汚す行為が何か理解していない、使徒15章に記されたイエシュアを信じたばかりの異邦人の問題が書かれているのです。

だから神が何を教えているのかはっきりと知る必要がある。

それはどこで分かるのか?神の言葉からです。

耳元で神が囁くのではない。永遠不変の揺るがない真実、神が人に伝える人間の本来の生き方を証拠として文字として与えられたそれが”シナイ山”で与えられた婚姻契約=トラーなのです。

ここに贖われた人の生き方が記されているのです。

 

トラーは贖われるために人に与えられたのではないのです。

贖い出された人に与えられた神が伝える神の似姿である本来の人間の生き方!だから出エジプトする前ではなく、後に与えられた事でも分かります。絵画的教えです。

 

ヘブライの世界は思想や哲学の世界でなく、全て”動詞”実際に

生きる事が語られているのです。

西洋の世界は哲学、比喩、寓話、思想の世界であり実際に生きる

事など強調されない思想の世界です。ヘブライの世界では何を信じているかはその人が何を生きているかで表される、でも思想の世界は何を信じているのか、その人の生き方を見ただけでは

分からない事が多々あるのです。

思想と行動がマッチしていないからです。

 

自分でしっかり神の言葉に向き合い神が人に教えている永遠不変の言葉の意味を考えれば、真実が見えてくるけれど、神の言葉を最初から捨てる様に教えられ、無視する様に教えられ、意味がないものになったと教えられ、神の教えの大部分を捨てて生きて

いれば、神が人に伝えている重大な教えは自分にはいつまでも

理解出来ないし、神の永遠無限につながる真理の教えを考えて

みる機会さえ奪われていて、神の思索から遠く離れ、人の教えの中を模索し探求しずれてしまう。

 

神の教えを聞かなければ神の言う通りは自分には伝わって来ない、だから人が考えた勝手な教えで神の言葉を塗り替え作り出し続けてしまうと言う事が、歴史の中で連鎖的に継続的に行われ続けている、それが宗教=人の作り出した人由来の神へのアプローチです。

 

でも神ははっきりどの様に神と関係を持つのか、どの様に神の前に近づくのか、何をガードして生きるのか人に教えています。

人が考えた神へのアプローチではなく、神が伝える神に対する

アプローチを人が知る必要があるのです。

問題は自分が考えたアプローチを神が喜ぶ、受け入れると勘違いしている事なのです。なんでも良いから愛していれば良いと言う

それとは逆、神は人が勝手に編み出した礼拝をどれほど忌み嫌い拒絶するのかはっきりと聖書のページの面に記されているのです。

 

そんなに難しいことではない。神が言う通りを聞けば人は理解出来るものなのです。

シャバットは永遠不変、神の記念日も神の教えもイエシュアが来られて以降も何1つ変わらない。そんなシンプルな事実さえ理解出来なくなってしまったのは、人の教えのせいなのです。

 

今日は日曜日でイスラエルは仕事、学校行事、サマーキャンプ

などなど活動の初日です。

 

イスラエルは愚かで古い教えにしばれているから、救い主イエシュアと同じ生き方を続けているのでしょうか?

そうではないです。神の教えに根付いてい生きない世界が異教の

神々の国だからです。異邦人の世界で主流な教えは、イエシュアを信じながらイエシュアに対して知らない間に敵対することを教えられそれらを生きる様に教えられてしまっているのです。

異邦人は最初の愛を忘れた!と黙示録にある警告通り、

最初の愛=婚姻契約=トラー=モーセの五書に記された神の教えを忘れて生きている!と言っているのです。それが神の教えを生きる事を捨てて忘れた人達の姿であると記されているのです。

なぜ神の言葉や教えに敵対する、否定することが神の義であるのか?そんな事聖書のどこに記されているのでしょう?

聖書は創世記から黙示録まで同じ教えしか記されていない!と

言う事実を多くの異邦人クリスチャンは知らないからだと思います。

聖書に書いてある内容が見えないのは、得にパウロの書簡を、パウロがモーセの五書を破棄し否定し終わらせた教えをしていると誤解した解説で読み込みしているのは、不適切な翻訳や神学の

せいで、聖書を曲げて解説しているからです。パウロがもし

そんな教えをしたらパウロの書簡は聖書ではなくなります。

 

聖書の暦では1週間が始まるのは、日曜日からです。神が創造の業を開始したのも日曜日=第一日目から。その日は休む日、止まる日ではなく、創造、活動の初日。シンプルな事実が聖書には記されていて、歴史の途中で異邦人がその事実を消して別の教えに塗り替えた!こんなシンプルな事実に気が付けないのは、自分の周りで伝統的に実践されている宗教の暦、宗教の教え、宗教の祭りを祝い、神の伝えた永遠不変の教えを変えてしまい、混ぜ物の教えに浸ったら何が本当なのか分からなくなる。だから厳重に、姦淫の罪=異教の神々の教え、人の教えを神の教えに混ぜる事を聖書ではずっと警告しているのです。

 

何をいつどの様に祝うのかそれぞれの自由なのですが、人が神の教えや記念日を塗り替え,人間が考えて作った別の日が神の記念日だと言う事は永遠に天が許可されない事に聖書からいち早く気がつく必要があります。人が日曜日が”主日、聖日”と言ってもそれは神には聖日ではないことは聖書の至るところにはクリアーに記されているのです。

 

日曜日は聖日、主日と言うならば、それが神が聖別された日で

あると聖書のどこに記されていますか?神の子らはそれを祝う様にイエシュアは言いましたか?イエシュアが何曜日に昇天されようと神の記念日は変わらない事を聖書から読み取らないとならないのです。シャバットはイエシュアの地上での誕生や昇天だけを強調して祝う日ではないのです。

シャバットは、神の子らが契約の中に入られている”印”!

神の全ての業が完了したので止まられた!その中に全てが網羅されているのです。神が止まられたから人も同じ様に七日目に止まり祝う!と記されているのです。

神の創造された神の記念日はレビ記23章に完全版として記されています。それを個別に取り出したりはしょったりして祝うものでもないのです。

日曜日は神が聖別した日ではなく、異邦人異教徒思想の西洋教父達が2世紀以降に勝手に自己聖別した日、彼らの宗教の教えの

記念日である事実は永遠に変わらないのです。

事実から目を背ける、聖書から目を背けたら何が真実なのか

見えなくなり、人が勝手に神の教えや記念日を曲げて良いと言う

冒涜を言い始めてもそれが神に対する冒涜だとも気がつかない

無感覚に陥るのです。

 

 

本当に騙されてしまう。事実ではない偽の教え、偽科学、人を

滅ぼすための偽のフォーミュラetc etc etcこれさえあれば守られる〜それらがまさか人をダメにするものであるなどと考えない

嘘は大きければ大きほど騙されてしまうものです。

宗教の教えも人を滅ぼしてしまいます。本当の自分が分からなくなり何を生きて良いのか本当は分からないままになる。

 

半分真実を知りながら半分嘘まやかしを信じてしまうのは、

巷に流れる教えが真実だと思い込んでいるからなのです。

 

狭き門から入りなさい。狭き門?それを見出す人は稀とある通り

人は騙されてしまうもの、それがアダムとエバの最初の騙し事件

サタンの嘘に騙された事ではっきりと教えられている事です。

 

神を愛しながら神の言葉を否定し、挙げ句の果てには敵対心を持たせる教えを言い続ける矛盾に真実を求める人にはいつかはっきりと気が付くはずなのです。神は永遠に変わらない神の言葉は

永遠に変わらないと言っているのに、途中で気が変わり嘘をついたと言う事を言っている事に気が付けば良いのです。

 

聖書を読みその中に何が書かれているのか、人の教えに塗り替えられた解説だけを聞いたら、聖書に記された真実の中身は見えないものとなるのです。

 

 

シャバットで皆であつまり神の伝えている言葉を一緒に話し合い

考え、ヘブライ語聖書に記された中身を分かち合う事は本当に

楽しい事です。そして交わりには美味しい食べ物飲み物があります。これは神の命令なのです。どうしてでしょう?人は神の創造物を、五感を通して喜び楽しみ神がどんなに良いお方であるか体験すると書いてあるからです。匂い、目で見て、肌で感じて

触れて、聞いて、味わって環境を自分の存在の中に取り入れる様に神は人を造られた。神は物理的世界を造られたのです。

そして皆で一緒に神の与えられた恵を分かち合うと本当に喜び倍増しますよね。一人では味わえない。なぜなら人は他の人が居て

完全なる存在であるからです。

 

神の家の中に置かれたメノーラは1つに金で7つの支柱に分かれている、7=完成された姿、異邦人イスラエル全てが合わさり

初めて完全になる。どちらが欠けても不完全である事を教えているものです。