ノアの時代 ソドムとゴモラ 神の教え デザインを破壊する人間の教えと悪行 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

全ての問題の根は、神の言葉=教えのをどの部分でも、人間が

付け足し、差し引きし、人間の教えに塗り替えてしまう事で起き

た、起きている、起きるのです。

 

今世界では神の創造のデザインを覆そうとしている大きな動きが

あります。神は人を男と女に造られて、そして祝福されて神の

デザイン通りの人達が地の面を満たす様、神の意図通りこの世界を治めるように祝福されたと書いてあります。

創世記1:28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

 

多様性の価値観を認めよ!性別を自分で選ぶのは当然の事だ!

人間の権利だ!と世界が主張し、悪は悪と言う人達は”人を批判しているのだ〜”と言う事が堂々と主張される時が到来しました。

これらは全てこの世界は、人は誰に造られ、どんな性質に造られて生きるのかを、神の言葉=教えから知らないから自分で自由に

選んで生きるのは当然!自分の命だから権利だから当然だ!と

言うのです。

この主張は、”今は何でも許される!シャバットはどの日でも良いのだ!人が決めて自由に選べるのだ!それが恵の時代の新しい生き方だ!”と言う主張となんら変わりない性質の問題なのです。

何が共通点なのか?神が教え、指示を与えている事、神がデザインした人間の生き方、神が聖別した時を、人間が曲げているからです。

神がデザインし創造された麗しい世界、性質を歴史の最初から人間が破壊し続けているのです。

ノアの時代、ソドムとゴモラの時代の如く悪の根は最初から存在していたのです。

洪水で全ての悪が消えて新しい世界が始まったと思ったら、

ノアの家族に”悪の根”を持ち運ぶものが存在していました。

考えたらおぞましいです。創世記を読んでいると思いますが、

そこに書いてある世界を実際に想像したら、人が生きれないほどに腐敗した世界、同性愛がはびこり、子供までそんなことをしている事が書かれています。

創世記9:22 カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。

9:24 やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事知ったとき、

9:25 彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。

 

この箇所ただ酔った父の裸を見たと考えると思いますが、それだけでノアがハムに対して呪いを宣言するまでにまでに反応し

憤った意味が見えてきません。 וַיֵּדַע אֵת אֲשֶׁר עָשָׂה לוֹ

彼にやった事を知ったと言う言葉は、単に見たと言う事ではなく

肉体的にやったと言う事が見える文章です。

レビ記20:17で書かれている”裸を見る”とは性的関係を持つ事を表す 婉曲語句表現と同じだからです。

 

レビ記20:17 人がもし、その姉妹、すなわち父の娘、あるいは母の娘に近づいて、その姉妹のはだを見、女はその兄弟の裸を見るならば、これは恥ずべき事である。彼らは、その民の人々の目の前で、断たれなければならない。彼は、その姉妹を犯したのであるから、その罪を負わなければならない。

 

そしてノアは天幕の中で裸を暴露された(וַיִּתְגַּל)とは近親相姦のテーマを想起させる意図があり、「裸の暴露」はレビ記の禁止事項における近親相姦の婉曲表現として機能しています。

 

レビ記18:6 あなたがたは、だれも、その肉親の者に近づいて、これを犯してはならない。わたしは主である。

 

同じ内容の罪がその後も続いている事が記されています。

 

創世記19:4 ところが彼らの寝ないうちに、ソドムの町の人々は、若い者<ナアル=幼児から未成年の男の子>も老人も、民がみな四方からきて、その家を囲み、

19:5 ロトに叫んで言った、「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」。

知ると言うヘブライ語は”夫婦間の関係”を表す知ると言う意味で使われる言葉です。

ハムの父に対して犯した同性、近親相姦、この罪の根が絶えないまま次世代へずっと継承されています。ロトも自分の娘をこの様な人達に差し出すと言う発想をしている事が記されています。

 

創世記19:8 わたしにまだ男を知らない娘がふたりあります。わたしはこれをあなたがたに、さし出しますから、好きなようにしてください。ただ、わたしの屋根の下にはいったこの人たちには、何もしないでください」。

そしてロトの娘達も近親相姦で子供を得て、モアブ人、アモン人

を生み出しました。罪の根は人に影響を与え続けてしまうのです。

これは、のちにアヴラハムやイサクにも影響を与えている行為です。アヴラハムは神に”生まれ故郷を直ちに出て神の示す地に行きなさい”と言われた時、生まれ故郷=全て今まで培って来た異教の神々の慣わしの地、家族、親族、全てと完全に分かれて、神が示す通り、神の目から全てを見る旅路へ招かれたのに、ロトも連れて来てしまった事に問題があるのです。

アヴラハムがウルの地を脱出したのは、出エジプトを脱出した事

と同じ意味があります。

神の目から全てを見る再学習の旅路、同じ旅路が記されています。誰かが犯す罪は必ず周りに、そして代々影響を与えてしまうものなのです。

創世記20:2 アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人をつかわしてサラを召し入れた。

<神は夢の中でアビメレク王にサラはアヴラハムの妻であり、
その人に触れてはならないと言われ守られたのです。>
 
イサクも又父と同じミステークをやっています。

創世記26:9 そこでアビメレクはイサクを召して言った、「彼女は確かにあなたの妻です。あなたはどうして『彼女はわたしの妹です』と言われたのですか」。イサクは彼に言った、「わたしは彼女のゆえに殺されるかもしれないと思ったからです」。

26:10 アビメレクは言った、「あなたはどうしてこんな事をわれわれにされたのですか。民のひとりが軽々しくあなたの妻と寝るような事があれば、その時あなたはわれわれに罪を負わせるでしょう」。

LGBTQが市民権を得て、東京にもジェンダーフリーのトイレを

作ったら誰も使わないと言う事が起こったそうです。こんなものは必ず犯罪が蔓延る温床になるでしょうね。変質者でも誰でも

女性トイレや温泉に合法的に入れるから。

国会にもLGBTQの市民権を得る様に多数の議員が反対する中

そんな事を通そうしていると言うニュースを読みました。

幼児5歳から性教育をし性体験をする事を教える!狂っている。

闇の世界は幼児性愛が合法化される事を企んでるからでしょう。

この様な事は普通の事であるなどとされてしまっていますが、この罪の根はずっと古代に遡り、その発端はエデンの園、神の言葉を無視して神が禁じる行為をしたあの罪から全部が始まって

繋がっている事が聖書には書かれています。

 

クリスチャンの中でもジェンダーフリーを奨励する、人の自由だからなどと考える人がいます。何でも受け入れるのが愛と言う。

愛の詳細はモーセの五書に記されているのです。神の教えでは

他者を破壊する生き方をする人は追放されなければならないと

あるのです。厳しい?羊の囲いに狼を入れよと言う知恵のない愚かな教えが推奨されてはならないのです。

神の言葉を正しく教え導かなくてはならない教師、群れのリーダーが自ら自分の性別否定する様な人がその座に座り、一般の人を闇へ導くおぞましい事が起きていても、それが今は当たり前普通と考え、神の家族の兄弟姉妹、グループ内で誰も何も神の言葉からその人達を正さない、その様な集会の動画を見て背筋が凍る思いがしました。

それでは、単に”イエスの名”を悪用し別物を教える神の家族に属さないものの生き方の群れに変身してしまっているのです。その様な人はイエシュアの名を乱用し人を教える立場に立ってはならないと聖書には書いてあるのです。犯罪を犯す人、神の性別を汚し破る人は必ず周りに悪影響を与え、命を生み出す生き方を伝える役割が出来なくてなってしまいます。しかも危険!

 

神の言葉に根付いた思想、生き方が無いからです。神の言葉をどの箇所も曲げて良いと考える、その大元の諸悪の根源である腐敗を取り除かない限り、どんな形でも神のデザインを曲げる教え、神が創造された人間が生きるに相応しく無い罪、ズレた世界を

生きる汚染にまみれてしまうのです。

 

神の教えをどの箇所でも塗り替えて良い!と言うその意識、教えが、この様な事を招いている!と言うことにはっきり目覚めないとならないのです。

神の記念日はいつでも良い!なんでもやって良い、今の時代は祈って感謝すれば何でも食べて良いと言う教えも、自分の性別は自分で選んで良い!と言う考えと全く同等の性質であると言うことに気が付いていますか?

なんでも取り入れて良い、神の記念日を変えて良い、それらは

神が伝える聖別を完全に破る教えなのです。神が忌み嫌われる事とは、神が伝える教えではなく、別ものの教えに塗り替えてそれを人が実行すること、それが高き所の礼拝として聖書には記されています。

その主張は、神が言う事ではなく人間の言う事が神の言う事、神の教えより優れている、人間の教えが神となり信奉され崇められている、人間が勝手に自分の考え判断で決めてそれを実行するのが今の時代の恵の生き方!などととんでもなくズレた発想をしているのです。

神の伝えることではなく、聖書ではなく人間が考える事が全ての基準!と教えている、それが伝統で2000年近く異邦人の間で根深く根強く継承され続けてしまい、神の伝える真実が宗教の

教え、宗教の伝統、儀式、宗教が作った記念日にかき消されて、半分真実、半分嘘!が異邦人の間で伝えられているのです。

アメリカのサイトでも、聖書では無い、とんでもなくズレた解説が多くされているのを発見します。置換神学やデイスペンセーション神学を元に語られる教え、聖書解説は普段読んだり聞いたりしませんが、シャバットに関してこんな解説をしていました。

 

それは第七日目のシャバットは”獣の印である”とか、エルサレムの神の神殿も悪魔に属するものであるとか、行いを強調するのは恵みではない律法主義だとか、十戒の中の項目”安息日=シャバットを聖なる日とせよ”は守られるべきだけれど、その曜日は何日でも可能だとか、シャバットの概念だけ取り入れれば良いとか、本当に人間の教えで好き勝手に神の教えを塗り替えた解説をしていました。それらの解説の根拠は聖書ではなく、人の教え、神学、教理に照らし合わせて語っているだけです。

 

神が神の教え、神のシャバットは命に匹敵するほど重く重要!

と教えているのに神の言葉を曲げる教師達が神の言葉に逆らい

聖書とは違う教えをしている!!その事に聖書を読んでいても気がつかないと言う盲目の闇の深さがあるのです。どうして?

人の教えに頭脳が占領されて先入観から、聖書に書いてある意味通りに読み取れなくなって、どこを読んでも神の言葉は変化するものだと読み、人の教えで神の言葉を曲げて解説していてもそれが昇天以降の恵みの新しい教えだ〜などと本気で人の教えを

神の教えであると疑いもなく信じて他者に伝えているからです純粋に神の言葉の真実、本来の意味に対して盲目状態。

福音書以降に、いつ神が神の教えを終わらせ、いつ神の記念日、

シャバット、新月、過越、シャヴオート、仮庵の祭りを終了させ

その代わりに週一度の記念日、シャバットが第七日目から日曜日に変更されたと言われ、神の祭りの代わりにイエシュア信者が、クリスマス、イースターを祝え!と言う記録が一体聖書のどこに書かれているのでしょうか?実際に聖書には西洋宗教の祭りや

日曜礼拝をした人など一人もいない、その様な記録なども当然1つも書かれてなどないのです。聖書は偽りの無い神の言葉、聖書だけに戻ろう!と言うなら、どうして聖書では無い人の教えを語り続けているのか考え始めたら正しい答えに聖書の神の言葉から辿り着けます。

福音書〜黙示録には、トラー以外の教えなど記されていない、

西洋宗教の存在や教えや置換神学、デイスペンセーション神学の教えなども書かれていない、週一度の記念日は第七日目のシャバットであり、彼ら1世紀の人々は全てシャバット、新月、過越、シャブオート、仮庵を祝った記録しか記されていません!全てはヘブライの世界が記されていて、西洋、ローマが作った人間の教えや記念日の事など1つも書かれてなどいないのです。

聖書に書いていないことを元に語る、何も聖書に根拠のない事を

土台に考えるのは、”空気椅子?”に座っているのと同じ、裸の王様の見えない衣装=本当は無いけれど、素晴らしい衣装を着て

いる!とまやかしを言っているのと全く同じ事を話しているだけなのです。

 

続く